割れる

文字数 2,964文字

 ルシアスは浅い眠りから目を覚ました。拘束されてから三週間が過ぎていた。遠隔透視の作業に伴う精神と神経の疲労がたまり体が重かった。だが起きるしかない。
 食欲はないが、部屋に届けられる朝食を詰め込み、時間通りに作業室と実験室を兼ねた部屋に向う。相変わらず通路には複数の監視員の姿がある。
 ドアを開けると、話をしていたらしいスローンと研究者らがこちらを見る。その視線は意味あり気だった。
「少佐 この辺で少し踏み込んだ実験に入りたいと思うんだが」
 そう言うとスローンは研究者の方を向いて「続けろ」とあごで示した。
「説明させていただきます。これまでずっと、遠隔透視作業中の少佐の脳波や血中ホルモンの量、その他の生理学的なデータをとってきました。
 それによれば、タスクにとり組む間、少佐の体にある種の生理学的な変化が起きること、脳の特定の領域が目立って活性化することが確認できました。
 本来ならばその線に沿って追加の実験を行い、実際に脳のどの部分が、どのようにして遠隔透視を可能にするのかを解明したいところです。
 しかし協力していただける期間が限られているので、これは難しいと判断しました。
 それで仕組みの解明よりは、少佐と同じ脳の機能の変化を、他の人間で引き起こす方法を見つけたいのです。
 とくに実用性の面から、特定の向精神薬がそのために有効であるかどうかを調べたいと思います。
 対象になるのは、主観的な精神の拡大経験が文献で報告されている向精神成分。例としてLSDや、南北アメリカで先住民の祈祷師が使用する植物や菌類の抽出成分などです。
 それをとった状態でタスクにあたっていただき、少佐の脳、および遠隔透視の結果にどのような影響があるかを調べます。それによって関係する脳の部位と、その機能を高める成分を特定できると考えています。
 これが特定されれば、あとはその成分を他の訓練者に与えることで、能力の拡大につながるかどうかを試験できます」
 ルシアスはわずかに眉をしかめた。
「ご安心ください。使用するのは基本的に人体への作用が研究されているものです。使用量も安全な範囲にとどめます」
 スローンがつけ加える。
「君も察する通り、私が望んでいるのは、実験をできる限り効率よく結果につなげることだ。
 遠隔透視の能力を高めるのに有効な薬が見つかれば、訓練の効率は飛躍的に高まるだろうし、兵士たちの能力の水準も上がるだろう。いい方法だと思わんかね」
「薬剤の投与はごく短期間ですので、依存症は発生しません」
 言い訳のように研究者がつけ加える。
 人間という存在が肉体だけからなり、意識も心の働きもすべて脳の機能に過ぎないと信じている(やから)の考えそうなことだ。
 自分の能力はプロジェクトの訓練だけで引き出されたものではないし、薬剤を使って強められるようなものでもない。脳の機能の変化は結果であって、原因ではない。
 肉体に閉じこめられた人間の制限を超える遠隔透視のような能力は、本人の魂の中にある。
 数多くの転生を繰り返し、その度ごとに修業を通して身につけ、魂の中に積み重ねられてきた能力。それをこの人生で修業や訓練を通して改めて目覚めさせる。
 そうして初めて、自分が持つような特殊な能力は発揮される。もって生まれた能力だけでも、訓練だけでも十分ではないし、薬でそれを引きだそうとするのは無意味だ。
 たとえ薬で脳の機能の一部を開放することができたとしても、引きだせる特殊能力は、あくまで本人の魂の中にすでに蓄えられているものに限られる。そして薬の補助作用は一時的なもので、能力を長く安定して維持するには役立たない。
 向精神薬の種類によっては、人格の統合性を揺るがし、本人の中で目に見える世界と見えない世界の間の分裂を引き起こすこともある。そんな状態に陥ればもちろん、透視の精度に信頼性はない。
 だが、そんなことをどうやってスローンのような男や、この研究者らにわからせることができるだろう。
 実験をさせて、それに意味がないことをわからせるしかない。自分の体は少しぐらいの薬剤には耐えられるはずだ。
 そう割り切ろうとした時、妙に不快な感覚が体を通り抜けた。
 普段ならそれに意識を向けて、その意味を探っただろう。だが今、そんな余裕はなかった。それを自分の意識から押しのける。
 もし約束を破って長期の拘束を続けたなら、自分が協力を拒むことはスローンも承知している。自分から協力する意志のない遠隔透視者は使い物にならない。だから一定期間の後、自分を解放せざるを得ないのだ。
 能力を拡大する薬物を特定したいというのも、それを見据えての策だろう。
 そう自分に納得させる。
 今はただ、意志の力をふり絞って耐え、すべてをやり過ごすこと。そうすることでしかセレスティンのもとに戻ることはできない。
 ルシアスが了承したのを確認すると、タスクの前に薬剤の準備がされる。
 最初に与えられるのがどんな薬剤なのかの説明はなかった。
 腕に注射を受けながら考える。
 皮肉なものだ。政府機関のお墨付きでやる麻薬[ドラッグ]か。
 もっともアメリカの軍や諜報機関には、兵士や一般人を薬物実験の対象にしてきた長い歴史がある。
 ルシアスはこれまで自分の肉体を注意深く管理してきた。麻薬や向精神薬の類いを使ったことはない。マリファナのように容易に手に入り、しばしば娯楽のために使わるようなものも避けてきた。
 魔術師の道を歩むのに必要とされる自己鍛錬と、麻薬や向精神薬による精神状態の安易な操作は相容れない。
 それに自分のように開かれた感覚を持つ者の神経系は、体内の化学バランスの変化に敏感だ。
 先住部族のシャーマンのように、特定の薬草に対する耐性と感受性をバランスさせるよう自らを鍛えているのなら別だろうが、薬によって引き起こされる体の変化と変成意識のバランスの乱れは、むしろ問題につながる。
 ルシアスの思考を中断するように、スタッフが機械的に血圧と心拍数を計り、血液を採取する。
 タスクを開始してくれと言われ、椅子に座り、机の上の封筒に手をやる。
 ふいに体の奥から吐き気のような激しい不快感がこみ上げてきた。冷や汗が湧き出る感覚。目を閉じて片手で額を支えたが、世界がぐらりと揺れる。胸から左腕に痺れが広がる。
「おい 少佐の様子が変……」
 ずっと遠くで研究者の声がかすむように聞こえた。
 姿勢を建て直すことができず、そのまま床の上に崩れ落ちた。


 床の上にカップが落ち、音を立てて割れた。
 マリーがふり向くと、セレスティンが呆然と立ちつくしていた。
「セレスティン?」
 セレスティンの顔から血の気が引き、大きく開かれた目が探るように宙を見る。
「……ルシアス」
 セレスティンはそのまま床に座り込んだ。マリーはあわててそばに寄り、震える彼女の体を支えた。
 駆け寄ってきたテロンがセレスティンのそばに膝をつき、のぞき込む。セレスティンの目から涙がこぼれた。
「どうした?」
 セレスティンは何も言わず、黙ってテロンの胸に顔を埋めた。それを抱きとめながら、何が起きているかを察したテロンの表情が厳しくなる。
 マリーにもそれが何なのかがわかっていた。
 ルシアスが危険にさらされている。そしてセレスティンはそれに反応している――
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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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