火傷

文字数 2,880文字

 感謝祭の週、乗馬クラブも休みになることをうっかりしていた。テロンと出かけるつもりでいたセレスティンは、「それなら代わりに行きたいとこがある」とねだってみた。
 オアフの西側にはイルカたちが回遊してくる海岸がある。ただ周辺の治安が必ずしもよくないので、一人で出かけることはできない。
「テロンといっしょなら、トラブルの方から避けて通ってくれそう」
 そう笑顔で言うセレスティンに、テロンはやれやれという顔をした。

 開けてもらった車のトランクに、シュノーケリング用のバッグを入れる。赤いポルシェは、アメリカ本土からコンテナ船で運ばせてきた彼の愛車だ。車が着いた時、港近くの輸送会社に引きとりに向かいながら「これでレンタカーと縁が切れる」と、うれしそうだった。
 それにしても、軍に勤めている間に貯まったお金でやりくりしているという彼の言葉は、すべてを説明していないように思えた。
 個人レッスンのためにクラブの馬場を貸し切るといった件も含め、テロンのお金の使い方は世間的な常識の範囲を派手に踏み越えていて、こんな使い方をする人間が、それほど高くもない軍人の給料から、たいした貯金を残せるとは思えなかった。
 目当ての砂浜にほとんど人気(ひとけ)はない。水着の上にラッシュガードを着込むセレスティンの横で、テロンがシャツを脱いで迷彩模様のタンクトップになる。
 軍の出身で入れ墨をしている人は多いが、彼の肩にはケルト風のデザインでモノクロの虎が刻まれている。ケルトの文化圏に虎はいないが、彼のイメージにそれはぴったりだった。
 テロンは無造作に砂の上に転がると、手で「行け」と仕草をした。
「好きに遊んでこい 人魚姫」
「海に入らないの?」
「水遊びは好きじゃない。さっさと行け」
「もしかして泳げないの? ここは時々サメが出るから、危ない目にあってたら助けに来てくれる?」
「その時はライフガードを呼んでやるよ」
 それだけ言うとテロンは知らん顔を決めて目を閉じた。
 セレスティンはシュノーケリングの装備をして海に入った。波に運ばれながら、テロンはもしかしたら水は苦手なのかなと考えた。
 かなり深いところまで泳ぎ、あたりを見回す。しばらく波に揺られていると、ピューピューとイルカたちのソナーの音が体に伝わってきた。
 遠くないところにイルカがいる。ちょっと興奮する。
 見回すと、何百メートルか沖に群の姿が見えた。水から跳ね上がる小柄な体は、ハシナガイルカ(スピナー)たちだ。
 もう少し近くまで行けるかな……そう考えるうちに、イルカたちの方からどんどん近づいて来る。
 すぐに何十頭ものハシナガイルカ(スピナー)に囲まれた。
 ハンドウイルカやマダライルカは好奇心が旺盛で、人間にも平気で近寄ってくる。でも警戒心の強いハシナガイルカは、人間が水に入ってくると、たいがいすぐに逃げてしまう。
 でもこの群は、お得意の回転(スピン)ジャンプをしながらセレスティンをとり囲んだ。
(こんなの初めて……)
 寄り添って泳いだり、中には興味深そうに目をのぞき込んでくるものもいる。自分とイルカたちの間で気持ちが通じている感じがして、うれしくなる。
 しばらく一緒に泳いでいると、向こうの方からカヤックが近づいてきた。二人の若者が乗っている。
 二人は無造作にイルカの群の中に突っ込んできた。カヤックをうまく操れないのか……。
 ぶつかるのを避けてイルカたちが離れようとする。
「なあ イルカも酔っぱらうと思う?」
「知らねえよ」
 言われた一人はにやにやしながら、手に持っていた缶の液体を、近くにいたイルカの背中の呼吸孔めがけてかけた。
(あっ なんてことを!)
 イルカの背中の呼吸孔は人間の鼻の穴と同じだ。そこを狙ってアルコールをかけるなんて! 乱暴につっこんできたのも、わざとだったんだ。強い怒りがこみ上げる。
(あんなカヤック、ひっくり返ればいいのに。自分より弱い動物をいじめるやつなんて、溺れたっていいんだから)
 次の瞬間、目の前でカヤックが転覆し、二人が海に放り出された。イルカたちが下から突き上げて傾かせるのを、セレスティンは見た。
 ライフジャケットをつけていた一人はすぐに海面から頭を出した。しかしもう一人の姿が見えない。
 水に顔をつけたセレスティンはどきりとした。イルカたちが若者の足やジャケットに噛みつき、深みに向かって引っぱっていた。
 あわててそれを追って潜る。夢中で追いかけながら頭の中で叫ぶ。
(待って そんなことしたら人間は死んでしまう――離して お願いだから)
 懇願に応えるようにイルカたちが口を離す。ぐったりとした体が、ライフジャケットの浮力で水面に向かって浮く。
 セレスティンが海面に顔を出すと、騒ぎに気づいたらしい釣り船が近づいてきていた。船に引き上げられた若者の足は、イルカの鋭く細かな歯で傷つけられ、血が流れていた。
 後を船にまかせ、砂浜に泳ぎ戻る。
 テロンがいつの間にか体を起こし、こちらを見ていた。セレスティンは肩で息をしながら、その隣に座り込んだ。
「どうしたんだろう……イルカが 人間に対してあんなに乱暴にふる舞うなんて……」
 セレスティンの説明を聞き終わり、テロンは目を細めるようにしてしばらく考えていた。
「……馬は人間の心を感じるが、イルカはそれ以上に人間の心を読みとるというのを知っているか?」
「え……」
「お前はこれまでマリーに育てられて、自分を広げ、力を蓄えることを学んできた。俺はお前に、その力を意志の力で(まと)に向けて絞ることを教えた。
 今のお前は、ルシアスと出会う以前の小娘じゃない。自分がまわりの生き物に及ぼす影響力が、並より強くなっていることに気づけ。
 知性・感情・意志の三つが、明晰な意図によって適切に的を絞られない時、お前の中でまっ先に動くのは感情だ。
 イルカどもはお前の怒りに反応し、そしてお前の頭の中のイメージに従って動いた。お前の方じゃ本気でそう願ったわけじゃないにしろな」
「……それって……私が 他の人間を危い目にあわせたってこと? 怒りにまかせて思ったことのせいで?」
「そうだ」
「そんな……」
「信じられないなどと言うな。常識で信じられないことは、これまでにも十分見てきただろう。
 自分の力を自覚しろ。そして感情を制御することを覚えろ。さもなければこの先、火傷をする――お前自身でなければ、お前のまわりの人間がな」
 自分の怒りがイルカたちを動かし、人の生命を危険にさらした……。
 帰りの車の中で、黙りこんでいるセレスティンにテロンは話しかけた。
「セレスティン 動物には善悪の判断があると思うか。やつらにはそんなややこしいものはない。ただ生き続けていくことだけが、やつらにとっての善だと言ってもいい。
 だが、理性と自由意志をもって生きるなんて面倒なことを選んぢまった人間には、善と悪とを判断して選ぶという責任がついてまわる。
 そいつは自分自身の中での終わることのない戦いだ。
 お前がそんな責任を負いたくないなら、これ以上先に進むことは考えるな」

 テロンはセレスティンをルシアスのコンドミニアムの前で降ろした。

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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