過去を

文字数 2,548文字

 ホノルル湾の海を見下ろす、ルシアスの部屋のバルコニー(ラナイ)。彼の隣に座ると、それに加わるように雨期の涼しい風が舞い降りる。
 ラナイに降りた風は二人をとりまくように輪を描き、運んできた木の葉や針葉樹の香りをまき散らして遊ぶ。
 ルシアスと会話をする時間がずいぶん増えた。
 今でも話しかけるのはセレスティンからの方が多かったが、何気ない話題や質問にもルシアスは答えたり、彼の考えていることを話してくれる。
 以前の意識的な距離感はもうない。
 時々ふり向いて彼の横顔を見る。その表情の穏やかさにほっとする。
 初めて彼の寝室で眠った時に見た、悲しく苦しい夢。あれはきっと彼の胸に押し込められた実際の記憶だと、今でも思っていた。でもあの頃から彼は変わったように見える。
 その変化は、テロンやマリー、そして自分と過ごす中で、彼の心が少しずつ癒えているからだろうか……そうであって欲しいと思った。

 ルシアスと話していると、何気ない話がセレスティンの思っていなかった方向に進む。それは楽しかった。
「……テロンてさ、一見おおまかで強引そうなのに、何かする時には完璧に手回してるでしょ。それもうんと細かなことまで」
「普段の言動はともかく、重要な行動に関しては、あいつが万全の計画と準備なしに向うことはない」
「ほんとはリスクのあることとか好きそうだけど」
「生まれついての性向のままなら、そうだろうな。内的な熱に動かされるままに飛び込んでいく。しかし、あいつは自分の性向を意志の力で制御することを学んでいるし、だから俺はあいつを信頼する」
 ルシアスとテロンが交わす友情は、セレスティンが他で見たことのないものだった。普段、大学や身のまわりにあるのが軽くて長続きのしない人間関係だから、余計にそう感じるのかもしれない。
 「崖から飛び降りるから受けとめろ」と一人が言ったら、もう一人は身を挺してそれを受けとめる、そんな感じ。
 それから以前テロンと少しだけ話して、そのままになっていたことを思い出した。
「ねえ ルシアス 自分の過去の人生って、覚えてる?」
「うん?」
「この人生に生まれて来る、その前の人生。どこか他の国や時代に生きてたような記憶がある?」
「軍の仕事でヨーロッパや中東にいた時に、懐かしいと感じた場所は幾つかあったな」
「どこ?」
「ギリシャ 丘の上から海を見下した時のエーゲ海の深い青さ――エジプト 濡れた緑に包まれたナイル河畔の眺め……だが、それをとくに追いかけてみようとは思わなかった」
「昔、私に会ったことがある気がする?」
「……考えたこともない」
 ルシアスは軽く笑った。
「じゃあ、テロンは? この人生でそんなに仲がいいのは、昔からずっと友だちだったからっていう可能性はある?」
「セレスティン 俺がテロンと友人でいるのは、自分の目の前にいるあの男が好きだからだ。この人生でのあいつの生き方を見て、それが信頼と尊敬に値するものだと感じるからだ。
 過去の人生でのつながりとか、そんなことはどうでもいい」
「じゃあ ルシアスはこの人生の前に別の人生があったとか、信じない?」
「否定するわけじゃない。だが過去の記憶は過去の記憶、それ以上でもそれ以下でもない。この人生でのことだろうと、それ以前の人生のことだろうと、それは今ここにいる自分を形作っている一部だ。
 動物の系統発生を知っているだろう」
「うん。おなかの中の胎児が、過去の進化の道のりをたどり直すっていうの。人間の胎児も最初は魚そっくりで、えらまであって、それからえらが消えて爬虫類そっくりになって、それからほ乳類の形になる」
「系統発生を通して、我々の肉体は過去の進化の道すじをたどり直し、それがすべてこの肉体に含まれている」
「うん。脳の構造もそうだよね」
「心も同じだ。過去の経験と成長の過程が、すべて今の自分の中に含まれている。
 複数の人生にまたがって存在し続ける『自分』というものがあるなら、それを『魂』と呼んでもいい。
 その魂というものにしても、現在の中に過去が含まれているのは同じことだ。過去の多くの人生からの経験も、すべて今、ここにいる自分の中に含まれている」
 人間の心や「魂」についてそんな考え方を聞くのは初めてだったが、それは不思議と筋が通った。
 魂の系統発生。
「じゃあ、過去の人生の記憶なんて思い出す必要はない?」
「自分がどこの誰だったとか、具体的な記憶を思い出すことは必要ではないと思う。意味があるとしたら、過去の人生の中で身につけた能力を引き継いで、それをこの人生で伸ばすことだ。
 だがセレスティン 俺が話すことをそのまま信じる必要はない。同じ質問をマリーやテロンにすれば、おそらく違った答えが返ってくるだろう。
 その中で、自分にとって意味のあるものを今は受けとっておけ。それが君にとって意味のあるものだったかどうかは、実際に人生を生きてみることでわかる」
 ルシアスは決してセレスティンを縛ろうとしない。
 手を広げるようにいろいろな可能性を見せて、そして「自分で選べ」って言う。決してセレスティンを「所有」しようとはしない。それは考えることや感じることだけでなく、時間の使い方や他のすべてのことでもそうだった。
 マリーとの会話を思い出してみると、彼女はルシアスよりも過去の経験に重きを置いている。
 ユング派の分析家だったことも関係しているのかもしれないけれど、マリーは「過去を思い出し、今の自分に統合することが大切」とよく言う。「人は過去という土壌の上に花開く植物」。そして「思い出す re-member(リ メンバー)]というのは、自己のパーツを再び集めること」。
 でもルシアスは「現在の自分には過去の自分が含まれているのだから、現在だけを見ればいい」と言う。
 マリーの言葉も、ルシアスの言葉も、どちらも正しいように思えた。
「過去の人生の能力を引き継ぐのに、思い出す努力は必要じゃないの?」
「俺の視点からはそれは必要じゃない。いずれ自分自身の内的な準備ができた時点で、それを引きだすような外的な経験が訪れる。それを通過することで、過去の生から引き継いできた能力は、この人生で必要な形をとるんだ」
「内的な準備っていうのは?」
「――君がマリーやテロンから習っていることさ」

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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