覚める

文字数 2,019文字

 物憂い眠りから目を覚ます。体が熱っぽかったが、気分が塞いでいるのはそのせいだけではなかった。
 ろうそくの光で照らされる漆喰の天井。背中に木の(とこ)の硬さを感じる。
 あれからもうどれだけ経ったか……。
 愛する(ひと)は帰って来ない。それはもうわかっている、そう自分に言い聞かせ、母が言うように先のことを考えようともした。
 でも自分の胸の中で何かが折れてしまった。
 美しい谷の都市で子供の時から互いを見て育ち、年頃になりその求愛を受け入れて、幸せのただ中にいた。その後に続く長い人生をともに過ごすはずだった。
 そのすべてを突然失った。人生がこんなふうに自分を裏切ることができるなら、この先、何を信じて生きていけばよいのか。
 あざなえる幸と不幸について、母は道理を尽くして説いてもくれた。けれどそれは自分の中に、再び生きたいという思いを灯す助けにはならなかった。
 体が弱っているのはわかっていた。このまま衰えて命を失うなら、それでいいとすら思えた……。
 ふいに外が騒がしい。大きな声を上げることのない母が、叫ぶように自分を呼びやっている。
 勢いよく扉が開く――自分の名を呼ぶ声――もう二度と聞くことはかなわないと思っていた、あの懐かしい声。
 驚いて起き上がったところを、強い腕に抱きしめられる。
 力の限り抱きしめ返し、その胸に顔を埋めた。
 もうとうに枯れてしまったと思っていた涙が、こぼれ落ちる……


 雨に濡れる絵のようにイメージが流れていく……。


 目を開けると、暗い部屋だった。背中に当たるのはベッドの感触。
 夢を見ていた。
 愛していたひとが帰ってきた――それはあの人生の本当の続きだっただろうか? それとも、幸せな結末を見たいと願う自分の思いが夢になった?
 それからふと気づく。
 ここはどこ? マリーの家でも自分のアパートでもない。
 起き上がり、暗い中を手探りでドアを探す。
 開けるとそこはリビングのようで、ガラス戸から夜の空と街の灯が見えた。
 ソファにテロンが寝ている。服を着たまま眠ってしまっている。
 セレスティンはそばに寄って、しばらくその顔を見つめていた。
 広い胸に頭を乗せる。この温かい胸は、どんな夢を見ているのだろう……。

 どれだけ経ったかわからなくなるくらい、そうしていた。

 彼の胸から頭を起こす。ばらばらだったイメージの断片が、自分の中で一枚の絵につながっていた。 
 でも……それは自分の想像かもしれない。すがりつける何かが欲しくて、思い描いているだけの……。
 記憶の中の愛する男性の名前が、繰り返し胸に浮かぶ。
 その音をたどって、寝ているテロンの耳元にささやいた。
 眠りの中にいる彼が腕を伸ばして自分の背を抱き、英語ではない言葉で二こと三こと、つぶやいた。その中に確かに聞きとれた――自分の名前。
 痛いほどに胸がうった。
 ずっと昔の記憶の中の自分の名前。マリーにすら話していない、誰も知らないはずの。

 テロンの体が動き、目を覚ましたのがわかる。
 セレスティンが隣に横たわっているのに気づき、少しあわてたふうだ。
 セレスティンは体を起こし、彼の顔を見下ろした。
 彼はきっと目をそらすと思ったから、その視線を逃さないように捕まえる。
 そして記憶の中の愛する男[ひと]の名前をたどり、発音した。
 彼の顔に浮かぶ驚き。隠そうとして隠し切れず――そして驚きがあきらめに変わる。
 自分の視線を彼が受けとめる。こんなふうに真っすぐ目を合わせたことは、今までなかった。
 自分に教えたくないことは、今までだったら知らんぷりをするか笑って冗談に紛らせた。それをするのをあきらめ、ただ黙っている。
「私のこと 覚えてる?」
 彼が眉をしかめる。苦しい感情と、それをいなそうとする試みの入り混じった、せつない表情――あの川で最後に別れた時に見たのと同じ顔。
 自分の中で何かが外れて落ちた。
 テロンは体を起こし、セレスティンの目を見つめた。
「この人生で記憶をとり戻してから、お前のことを忘れた時は一度もない。見つけられるものならと願って、探し続けていた」
「それなら どうして……」
 温かい両手がセレスティンの頬を包む。
「俺がお前を見つけた時、お前の目はすでにルシアスに向いていた。ルシアスもお前を愛し、そしてお前のことを必要としていた」
「……」
「俺の気持ちだけが重要だったなら、とっくにお前を俺のものにしていた。
 ……だが 今ここにいるのは谷の都市の娘じゃない。
 それはお前の過去で、お前の一部だ。
 だが、お前はこの人生に生まれて、自分が望むことを選ぶ自由をもっている」
「……ん」
「だから 過去に縛られるな。この人生でルシアスを愛することに決めた、自分のその選択に忠実でいろ」
 セレスティンは彼の背中に腕を回した。胸に額を押しつけて、じっとそのぬくもりを感じていた。
 やがて体を放し、自分の手で涙をぬぐいながら、テロンの顔を見上げた。
「……ルシアスを探しに行く」

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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