文字数 3,049文字

 マリーのリビングで、エステラとルシアスが話している。
 またエステラにやり込められているのかな。でもルシアスも、前の時ほど難しい顔じゃない。
「セレスティン」
 邪魔にならないように少し離れてお茶を飲んでいたが、エステラに声をかけられる。彼女は大きな声を出すことはないけれど、その声は響くように伝わる。  
「しばらくルシアスからメディテーションを教わりなさい。次のステップの準備に必要だから」

 夕方、ルシアスと一緒に夕食をとってから、彼のコンドミニアムに行く。
「私のせいでエステラにいろいろ言われるの、ごめんね」
「いや いいんだ。俺が君を教えることに関わらないようにしてきたのは、必要な客観性を保てないと思ったからだ。今はエステラが見てくれるから、その監督下で君の手助けをすることはできる」
 言葉を切って少し考え、口を開く。
「彼女も、最初はすぐに帰る予定だったのを変更して滞在を続けているが、いつまでもここにいるつもりはない。いずれニューヨークに戻るだろう。
 それもあって君の手引きを急いでいるんだと思う。短い期間にできるだけのことを教えておこうと」
 エステラがニューヨークに戻るつもりと聞いて、セレスティンは少しショックを受けた。彼女の存在は他の三人と同じように、自分にとって、なくてはならないものになり始めていたから。
 もちろん彼女にも自分の生活がある。子供のように自分のことしか見てなくて、そんな当たり前のことも考えていなかった。
 セレスティンの表情にルシアスが言葉を継ぐ。
「すまない……だが突然、彼女から言われるよりは、先に気づいておいた方がいいだろうと」
「うん……ありがとう。でもだったら、私もできるだけのことを覚えなくちゃ」
 気をとり直してルシアスの顔を見る。
「メディテーションて、アジアの習慣?」
「今アメリカで広がっているのは、仏教やヒンズー教から受け継いだものが多いな。だがメディテーションはどんな文化でも精神的な修業の一部だし、西洋の伝統でもそうだ。
 メディテーションという言葉はラテン語のmeditari(メディターリー)、静かに考えるという意味から来ている。そしてその語源はmedeor(メデオル)、癒す、良くするという意味だ。
 俺が君に教えるのは、座禅やヴィパッサナーのような、それ自体が修業になる本格的なものじゃない。エステラが教えることの準備としてのシンプルなものだ。
 意識的に心を空にすることと、レーザーのように精神を集中することと言い換えてもいい。どんな精神的な修業でも、最初の段階でメディテーションを学ぶが、それはこの二つを身につけるためだ。
 ただしその前に自分の内面を観察し、制御できる自我の力が必要だ。必要な自我の強さなしにむやみに進めると、精神の平衡を失う場合もある。
 エステラは、そのための最低限の準備が君にできていると判断した。俺たちがそばにいて見守るという条件つきで」
「……精神の平衡を失うって?」
「この世界と二つ目の世界の区別がつかなくなるとか、自分の内的な経験と外の世界の出来事を区別ができなくなるとか」
「それって妄想とか幻覚?」
「世間ではそういうラベルを貼るな」
「私が見てるシルフや植物の精が妄想や幻覚じゃないって、どうしたらわかるの?」
「君と俺が別々にそれを見て、経験をつき合わせて、そこに整合性があるなら、そこには共有される現実がある。
 肉体の五感の範囲に収まるか収まらないかに関わらず、一つの有機的な世界を複数の人間が個々に経験して照合することができるなら、そこには共有される現実がある。
 それを五感の範囲に閉じこもっている人間がどう思うかは、どうでもいいことだ。
 君が想像しているよりも多くの人間が、二つ目の世界の知識を共有している。ただ社会によって受け入れられないから、口をつぐんでいるだけだ」
「……軍隊の中にも?」
「……ああ 軍の中にも。
 じゃあ、始めよう」
 最初に呼吸について学ぶ。
 呼吸が単なる生理学的な仕組みではなくて、それがどういうふうに人間の意識に関わっているか。呼吸を制御することで、どんなふうに体と心の機能に影響を与えられるか。
 呼吸の深さやスピードを変えて、自分の体や意識がどう変化するかを感じてみる。
 それから体から不要な緊張を外すやり方を教わり、そうして自分の呼吸を数える基本的なメディテーションを教わる。
 これはセレスティンの苦手なことだとわかった。
 蝶の羽化とか、ありんこが食べ物を運ぶところなら、1時間でも2時間でも見ていられる。でもひたすら繰り返す自分の呼吸を見つめようとすると、いくらもたたずに、いろいろなことが頭に浮かんでくる。
 「浮かんできたことは、捕らわれず横にのけろ」と言われても、後から後から考えやイメージがわいてくる。
 10分やって、少し休んで、また10分。難しくて、何だか疲れる。
 ルシアスが言った。
「時間帯を変えよう。今晩はここまでにして、明日の朝だ」
「時刻が影響するの?」
「山の中など静かな場所なら夜でもいいが、都市の夜は雑音が多い。だから早朝がいい。1日の間で意識と肉体が比較的、静かで明晰な時間だ」
 その晩はルシアスの部屋に泊まった。ルシアスはいつものようにセレスティンに寝室のベッドを使わせ、自分はリビングで眠る。
 初めて泊まった夜、ルシアスの過去の記憶の夢を見た。それからしばらくして2度目に泊まった時、少し不安だったけれど、同じ夢を見ることはなかった。
 夢は見ても、あのつらく苦しい夢ではない。あの頃からルシアスはずいぶん変わった。そしてあの夢も、もう思い出さなくていい過去のものになっているのだと、セレスティンは思うようになっていた。
 きれいに質素に整えられた部屋。針葉樹の澄んだ香気のようなルシアスの質を空間に感じる。
 携帯の目覚ましをセットした。

 まだ暗い中で目を覚ます。夢は見たけれど、それは何か幸せな気分の夢だった。しばらくそれに浸ってから、起き上がる。
 シャワーを浴びて着替える。ルシアスはすでに起きていて、セレスティンを見ると、スパイスの香りのハーブティーを入れてくれた。
 それから二人で、まだ朝冷えのするバルコニー(ラナイ)に座る。日の出までもう少し時間がある。
 ルシアスが薄いマットの上に、ヨガの行者みたいに背筋を伸ばし足を組んで座る。まねしてみたけど、あぐらをかくのが精いっぱいだ。
 教わったように静かに呼吸を調える。意識を向けて、自分の呼吸をゆっくりと数える。
 雑念が浮いてきたら、ただ気づいて、手放す。
 自分を責めたりしないで、ただ気づいて、手放すことを繰り返す。
 やがてイメージや考えで心が散らかる時間が減り、呼吸のことだけに集中できている時間が増える。
 油断するとまた戻ってくるけど、焦らずに、気づいて、手放す。
 意識が冴える。今まで経験したことがないくらいに、すっと冷えた明晰さ。まるで鏡のように……そして「自己」の感覚が広がる……
 しばらくして声がした。
「少し休もう」
 気がつくと、空の縁が明るくなり始めている。
「……そんなに長い時間だった?」
「45分」
 10分くらいのことと思っていた。
「意識が集中した状態では、時間の経験が変化する。一人でやる時にはアラームをセットしておくといい」
 気がつくと足が痺れていて、確かに長く座っていたのだとわかった。両手で足をもちあげて伸ばす。
「いたた」
 ルシアスが笑う。
「メディテーションの後には、意識を普段の状態に戻すことも大切だ。朝食を食べに行こう」

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登場人物紹介

セレスティン

ホノルルで大学に通う。

動物、植物、あらゆる生き物と星が好き。ダイビングが趣味。

ルシアスとの出会いをきっかけに、世間で「魔術」と呼ばれているものを学ぶ道に導かれていく。

ルシアス

もと海軍の情報士官で、ニューヨークの白魔術教団のメンバー。

訳があって軍を退役し、教団を去ってホノルルに移り住んできた。

彼のまわりでは風が生き物のように不思議な振舞いをする。

テロン

海軍の特殊部隊出身で、もと白魔術教団のオフィサー。

ルシアスの友人で、アメリカ本土から彼を追いかけてきた。

マリー

山の上に隠棲し、植物を育てながら薬草やアルケミーの研究をしている女性。

以前はニューヨークでユング派の心理療法家をしていた。

鳥の羽に導かれてセレスティンと知りあう。


エステラ

ニューヨークに住む、白魔術教団のオフィサーで占星学者。

ルシアスとテロンと親しいが、強面のテロンに「俺もルシアスも頭が上がらない」と言わせる女性。

ガブリエル・ジレ

ニューヨークにある白魔術教団のメンバー。

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