⒋ 神の大陸から人間世界へ

文字数 2,133文字

 イヴの方でも、レッドの額の刺青(いれずみ)には気付いていた。それでイヴは、彼の前髪をそっとすくい上げたまましばらく黙っていたが、やがてその紋章(もんしょう)を不思議そうに見つめながら、「この刺青・・・確かに(わし)よね。」とつぶやいて、彼の切れ長の瞳を(のぞ)きこんだ。「あなたこそ、何者なの?」

「言っても分からないよ。」

 どうやら知らないらしい・・・と分かり、そこでやっと、レッドは彼女の手を払い()けて微笑した。

「ふうん・・・意地悪ね。」

「たいした者じゃあないってことだ。」

 そう答えたあと、レッドは追求されないうちに言葉を続けた。
「ところで、今さらだけど此処(ここ)はどこ?」

「私の知り合いの家よ。あなたをここまで運んでくれた人とは別の。」と答えて、イヴは、サイドテーブルに用意したデカンカの水をグラスに注いだ。「(のど)乾いたでしょう。お水どうぞ。」

「家?悪いが、俺にはそれと呼べるものには見えないが。」

 彼女のおかげで、今少し楽になった病体をのっそりと起こしたレッドは、礼を言って受け取った水をいっきに飲み干した。確かに、ひどく喉が(かわ)いていた。

「だって、間に合わせだもの。大陸中を旅して回っている冒険家の人で、ここへは滅多に帰って来ないわ。だから、私がここの管理を任されているの。務めの帰りに、余裕があれば寄るようにしているのよ。それであなたを見つけたの。でも、子供たちの基地としても開放してあるから・・・。」

 気をきかせて空になったグラスに手を伸ばしたイヴは、それをサイドテーブルに戻して彼を見ると、悪戯(いたずら)な笑顔でにこりと笑った。

「今日は居なかったけれど、朝になったらきっと来るわよ、その子たち。」

「俺が乗っ取ってるわけだが・・・攻撃されないだろうな。」

「さあ、どうかしら。」
 イヴは肩をすくってみせた。

 だがそのあと、イヴの顔は視線が落ちるにつれて暗くなり、よく通った声からは張りが消えた。

「ネル孤児院の子供たちなの。」と、イヴは教えた。「親に捨てられたり、戦争が引き裂いたり・・・。そうして、この町へ流されてきたのよ。」

 しばらく、沈黙が続いた。

「俺も・・・。」

 やがて、レッドは静かな声で告げた。

「戦争に親を奪われた。俺の故郷は、もう無い。小さな町だったから、呆気(あっけ)なく焼き払われてしまった。大人はみな奴隷として敵国へ連れていかれ、残された俺たちはみな、親を失い孤児(こじ)となった。こういう時代だから、それ自体はもう運命だと思って割り切ることもできるようになったが、こんな時代に生きる者の中には、人の心を忘れちまったヤツもいる。無抵抗の者や子供までも情け容赦なく殺害し、ためらいもなく強奪(ごうだつ)し、弱い者に乱暴する、そんな奴らを俺は許せないし、(あわ)れに思う。もし、理性が壊されていく者が多くいるこの現状が、人間を操ってそうさせている明確な悪がいるせいだとしたら、俺は成敗してやりたい・・・って、何言ってんだ? 俺。ああダメだ。熱のせいでワケわかんねえこと(しゃべ)りだしちまった。」

 レッドはまた横になり、息苦しそうにため息をついた。知らずと強くなる声を制御(せいぎょ)できず、いきなり熱く語りだしたわけが、自分でも分からなかった。

 その一方で、イヴは(さと)った。彼はなんて汚れない人だろう・・・と。彼が、冷たそうなその外見とは裏腹な内面を持っていることに、イヴは気付き始めた。

「ねえ・・・太古の昔には、神々と人間が共存していたと言われているのよ。その時代には、悪い心を抱く人なんていなかった。神々が人間から離れてしまったのは、やがて人間に私利私欲が芽生え、神々と人間との間に確執が生まれたかららしいわ。そして時代が変わってしまった。神々がいなくなると、人間はますます野望や身勝手な欲求を抱くようになって、そして人は争うようになったのよ。世の中に欲求を満たせるものが(あふ)れても、誰もが協力し合って生きていた時の人の心だけは変わらずにいられるなら・・・どんなにいいかしら。でも、そんなふうに人間なんて弱い生き物なの。人の心ほど確かじゃないものはないわ。」

「もっともだな・・・。けど、それってあんたらが説いてる説法ってのに反する意見じゃないのか。」

「私たちが説いてるのは理想よ。これは、私の本音。今の世の中を皮肉ったの。」

 レッドは、気分が優れないながらもふっと笑い声を漏らした。

「ねえ、ここはまだ森の中なのよ。綺麗でしょう、この森。野生の花や木の実に木漏れ日が降り注いで・・・。」

「俺が見た時は、薄暗くて気味が悪かったが・・・。」
 レッドは申し訳なさそうに言った。

「ああ・・・そっか、天気のせいね。本当は素晴らしいのよ。明日はきっと、素敵なこの森が見られるわ。」
 イヴはそう答えながら、彼の顔や首の汗をまた拭いて、そのまま眠るように(うなが)した。
「その頃には、あなたの身体も・・・。」

 レッドは素直に目を閉じた。ずっと意識が無い状態でいたにもかかわらず、またすぐに眠れそうだと思った。安らかにそうであったわけではなく、苦しみ続けたせいで疲れていたから。そして今は、彼女が額に手を置いてくれている。

 イヴは、やがて穏やかな寝息が聞こえ始めるまで、そのままじっと力(治癒力)を使うことに集中していた。ふと彼の寝言と今の言葉を思い出し、痛切感にかられながら。


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