2. 守りし者 ― 2

文字数 2,642文字

 奇妙な形のバルトラン、直径一メートルという花を持つルルーシュ、一枚の葉が何枚にも分裂して絶えず伸び続け、アースオルフェの海霧(うみぎり)から水分を吸収しているアクアウェッチア。

 ここには、少年が見たこともない不思議なものばかりがあった。目を向けるあらゆるところに、少年は魅了された。ムシトリシダのつつましやかな存在も、少年の野性的な目は見逃さなかった。

 リューイはふと立ち止まり、毛で覆われたこん棒状の器官を揺り動かして、昆虫をおびき寄せているサンドルキアに興味がわいた。

 すると突然、リューイは殺気と恐怖に襲われた。

 何か大きな影がよぎったと気づいたその時、自分の倍かそれ以上ある生き物が目の前に現れて、立ち止まったのだ。

 リューイは、恐ろしい目と向かい合っていた。

 その野獣の()てつくような眼差(まなざ)しには、あからさまに殺戮(さつりく)の欲望がたぎっている。

 すると、野獣は体を低くするやたちまち地を蹴り、いきなり猛攻をしかけてきた。ここで(すく)みあがっていたら、少年はいとも呆気(あっけ)なく殺られていただろう。だがその少年には、まだ未熟でも身につけた技と、(きた)えた身体能力。そして何より、天性の優れた戦闘能力があった。

 リューイは、ほとんど反射神経に頼ったあらゆる手段で回避し、耐え長らえた。しかしめまぐるしくかわし続けるうちに、目が(くら)んで、とうとう逃れようのない窮地(きゅうち)に追いこまれてしまった。朦朧(もうろう)とする目の前には、もはや獰猛(どうもう)な獣の体と、そして、自身の終わりがあるばかり・・・。

 ところが不意に、ほかの力にリューイは救われた。

 どこからともなく、力強い跳躍(ちょうやく)で現れた黒い野獣が、すぐ目の前でピタリと立ち止まったのである。顔はもう一方の野獣の方へ向けられていて、リューイを(かば)恰好(かっこう)だ。

 それは、相手の野獣と別段変わらぬ(さが)に生まれていたが、今、その少年を襲おうとしている側と守ろうとしている側の決定的な違いは、少年の中に、あるものを見たか、そうでないかということ。

 それは気高く崇高(すうこう)な光。人間世界を創造した偉大なる力。それが、その黒い野獣を使命感に燃え上がらせ、突き動かしたのだった。

 一方のリューイは、とっさにそばにある木の枝に飛び上がって、這い上がり、もっと高いところまで幹をよじ登っていった。

 黄色い毛皮に覆われたトラと、それに比べれば細身の黒いヒョウは、はや互いに激しくつかみかかり、噛み付きあっていた。どちらの体からも血が流れている。狂おしく体を引き裂き合った血で、木々の間の草地は真っ赤に濡れていた。

 トラは、飢えからくる凄まじい狂気に駆られていて、相手の黒ヒョウよりも、いっそう猛々(たけだけ)しく()えたけっていた。黒ヒョウも負けじと果敢(かかん)に立ち向かっているが、身に備わっていたものは、初めから向こうの方がいくらか上だった。その条件のもとに(いど)んだ勝負だったので、今、黒ヒョウの脇腹からは、致命的な傷が大きく開いて骨が見えかかっている。攻撃はやすやすと(かわ)されるようになっていた。

 だが、ある使命感に支えられて、それはなおも飛びかかり、身をかわし、力を奮い起こして立派に戦っている。

 神が宿る、何としても生かさねばならない命、その一つを守るために。

 ところが無理もないことで、リューイにはその意志が伝わらなかった。リューイは、この戦いでどちらか勝った方が、今度は自分を、あの恐ろしい牙で食いむさぼろうとするのだと思った。それでリューイは、もっと高く登って、太い頑丈な木々の枝から枝を渡り、さっさとこの場から逃げ出そうと考えた。ここは来てはならない場所だと師匠に言いつけられていた。慣れ親しんだ友獣達のように、どの動物もすぐに(なつ)いてくれると思うのは、大間違いだ。初めてお前を目にした野獣は、まず、真っ先にお前を食い殺そうとするだろう。だから、勝手に遠くへ行ってはならないと。

 しかし、好奇心が、その教えを破らせた。約束を守るべきだった。これは(ばつ)だ。今なら帰れる。もう、こんな怖い思いをするのはまっぴらだ。

 だが、太い(みき)につかまってしゃがんでいたリューイは、その時、枝上(しじょう)で立ち上がっただけだった。リューイは、初め獰猛(どうもう)で恐ろしいだけに見えたその黒ヒョウの中に、強靭(きょうじん)でありながら清らかな魂と、美しく透き通って立ち昇る意志の炎を見たのである。そして気付いたのだ。

「大丈夫!」
 思わず、リューイは叫んでいた。

 すると、傷ついた黒ヒョウが反応し、辛うじて頭をもたげた。その目をひたむきに見つめ返して、リューイはうなずいてみせた。獣のそれは、激しい殺し合いの最中(さなか)であるというのに、何とも穏やかで優しくて、そして健気(けなげ)な瞳に見えた。

「大丈夫、お前は負けてない!負けない!」

 その声が分かったのか、弱りきっていた黒豹は頭を振り戻して、力強く躍動(やくどう)する相手に、残る気力の全てをもって挑んだ。

 二頭は再びぶつかり合い、嚙みつき合いながら、血に濡れた草の上を転がり回った。

 だがリューイは、さっき見つめ合ったその時、瞬間的に、そいつから声が聞こえた気がした。「逃げて。」と・・・そう言われたような。

 それでも、生きるか死ぬかのこの戦いを、もう最後まで見届けずにはいられなくなった。そいつは自分の代わりに戦っているのだ。もはや完全に二頭の勝負となった、この決闘。リューイは、息を呑んで見守った。

 そしてある時、ついに、二頭の動きがぴたりと止まった。

 黒い獣が、相手の首にしっかりと噛みついている。そのあと、ばったりと横に倒れたのが黄色い野獣であるのを、リューイはしっかりと見届けた。だが後を追うようにすぐ、黒ヒョウもまた、ひどい傷と疲労で地面に横たわった。

 高所の枝から容易(たやす)く飛び降りたリューイは、急いでそばへ駆け寄った。そいつは悲惨に血みどろで、痛々しく脇腹を波打たせながら、やっと息をしている。

「死んじゃダメだ・・・。」

 そいつの体の下に両手を滑りこませたリューイは、ぐっと持ち上げて、わずかに空いた地面との隙間(すきま)に両腕をぐいぐいと押し込んでいった。ところが、力はじゅうぶんにあるものの、体は小さく腕は短い。とはいえ、自分ともう一人のほかに人気のないここで、救援は望めない。(あせ)って泣きながらも、リューイはいろいろと試みた。すると、血まみれのその体をやっとの思いで抱き上げることができた。

 瀕死(ひんし)の体をしっかりと抱えたリューイは、血と涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、ただ一人 (たよ)れる者の待つ場所へと帰って行った。





※注)ここに登場した樹海の植物名は全て(仮名)です。

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