2. 慈悲深き女神(フェルミス皇后)
文字数 2,698文字
金飾りに覆われた立派な馬車が、閑散 として荒れた町外れの一角で止まった。その煌 びやかな馬車は、紛 れもなくここエルファラム帝国の帝室のものだが、この実に場違いな場所にこうして現れるのは、何も珍しいことではなかった。
古びたみすぼらしい建物がひしめき合っているそこは、身寄りのない孤独な者が多く暮らしている場所で、そのほとんどが、日雇 いの仕事をしながら辛うじて生計を立てていた。
馬車の扉が従者によって開かれると、中から一人の見目麗 しい女性が、幼い少年の手を引いて降りてきた。
この世のものとは思えない美貌 の女性だった。
誰もが思わず立ち止まり、我を忘れて見惚 れてしまうほどに美しく、あたかも天から舞い降りてきた女神そのもののような存在。キメ細やかな白い肌で、長い睫 に覆われた大きな瑠璃 色の瞳が、とりわけ見る者を魅了した。綺麗な琥珀 色の髪を優雅に結い上げているその女性は、エルファラム帝国の皇后で名をフェルミスといった。そして、彼女が手を引いている少年が、7歳になるエミリ皇子である。皇子も形のよいほっそりとした輪郭 や目元など、母親のフェルミスによく似て非の打ち所のない完璧な美少年だ。
従者が、ある一軒の家の玄関戸を叩いた。そして、中からの返事に答えて、その従者が皇后と皇太子の来訪 を伝えると、今度はとたんに慌てふためいた、やたらにへりくだった声が返ってきた。
従者が開けてくれた傷みのひどい玄関戸を横切って、フェルミスとエミリオは室内へ入った。興味深そうに、ぐるっと中を見渡すエミリオ皇子。小さなテーブル、一脚の椅子、低い棚にはわずかな食器。その殺風景 で薄暗い部屋にあるものはみな、使い古されていて元気がないように見えた。
何より一番は、カビ臭い寝台の上で、うやうやしくひれ伏している痩 せ細った年配の男。くたびれきった薄手の寝間着 を着ているその男は、タオルを口に押し当てて苦しそうに咳 き込んでいるのである。
「こ、これは、ごほっ・・・フェルミス皇后様、ごほほっ、エミリオ皇子様
・・・。」
「どうぞ、横になってくださいな。」
優しくそう促 して、フェルミスは男の枕元に立った。
「はは、はいっ。」
一緒についてきたエミリオは、素直に体勢を崩した男の様子と、母の表情とを交互に見つめていた。
すると、母の笑顔が次第に悲しげなものに変わっていく。
「じゅうぶんな治療を受けておられないようですね。以前お伺 いした時よりも、お痩せになられたよう・・・。」
「はあ・・・い、いえ、おかげさまでございまして、訪問医も修道女様 もきちんと来てはくださるのですが・・・何しろ働くことができなくなってしまったものですから・・・その、食事の方が少し・・・。」
男が言い辛 そうに口籠 もると、フェルミスはハッとしたようだが何とも優雅な動きで、片手を口に当てた。
「まあ、迂闊 でした。すぐにその方も、何かよい政策を講じられはしないか、おうかがいを立ててみましょう。」
「ありがたや・・・ありがたや・・・。」
二人が出て行ったあとも手をしきりに揉み合わせながら、男は何度もそう呟いていた。
見通しのよい草原の上に、薄紅色の夕焼け空が広がっていた。そこに、流れるような桃色の雲がそっと浮かんでいる。
一見、それを眺めている様子のエミリオは、なだらかな坂道をゆっくり上っていく馬車の中で、ずっと考えていた。
そしてふと、向かいに座っている母に視線を向ける。
「母上、人はどのような時に涙を流すのでしょう。」と、エミリオは問うた。少年は、人の心理を知りたがる性質があった。
「あなたも泣いたことがあるでしょう?」
目を細めてフェルミスは答えた。
「転んだり、母上に叱 られたりした時に泣いたことは覚えています。でも・・・涙が出る理由はもっとたくさんあって・・・そこには様々なことが関係していて・・・。」
いくら精神年齢が高くて優秀でも、7歳の子供が、自分の思いや考えを的確に伝えるのは難しい。
「そうね。でも、それは教えられるものではないわ。人は悲しみや苦しみを感じた時のほかに、嬉しい時にも涙を流すけれど、奥は深いわ。」
「はい、何となくは分かるのですが・・・。あの人たちはみな、母上を見て嬉しそうに泣きます。きっと言葉では言い及ばぬ感情がそこにはあって・・・その姿に、とても心を動かされるのです。このような発言は軽々しいかもしれませんが、彼らのように泣くことができたらいいな・・・と。でも・・・。」
フェルミスは、この頭のよい息子の、そういうことを気にする性格を嬉しく思い、うなずいて言った。
「あなたが何となく感じていることは分かるわ。それにはうんと苦労して、うんと苦しまなければ分からない喜びだから、あなたの立場では、喜びも悲しみも、彼らと全く同じ気持ちで泣くことはできないでしょうね。でもその代わりに、あなたには、彼らをその苦しみから救ってあげられる可能性がある。彼らに、その喜びを与えてあげられる可能性がある。だから、彼らがなぜ苦しんでいるのか、どうすればあのように喜んでもらえるのかを考えてあげられる、その気持ちを大切にしてね。」
「母上のようにですね。」
「でも本当は、彼らにあのように喜んでもらえるほど、私は偉 くはないのよ。きっと、それだけ彼らが苦しい思いをしてきたということでしょう。」
「母上は、これまでどのような涙を流したことがありますか。」
「私は、彼らのように泣いたことがあります。あなたは、初めからこの裕福な国の皇子として生まれてきたけれど、私の故郷のアルバドル王国(帝国)は、もともと、とても弱くて貧しい国だったの。だから、国中のみんなに助けられて成り立っていた。喜びも悲しみも、国の人々と分かち合ってきたから分かるの。」
「それで母上は、このように彼らを訪問するのですね。」
フェルミスは微笑んだ。
「ここは、あなたのお父様の国。だから、この国の人はみんな家族なの。家族みんなが、ずっと幸せそうに笑っていられたらいいと思うでしょう?」
「はい。」
エミリオは心から共感し、元気よく返事をした。
だがフェルミスは、息子のその笑顔を前にして、つい切実な悲しい声を漏らしていた。
「それに私には・・・病気の人の気持ちも分かるの・・・。」
やがてサンヴェルリーニ宮殿へと帰ってきた皇室の馬車。
両翼 の端 から端まで、二百メートルに及ぶ主宮殿に明かりが灯 り始めると、それは日中とはまた違う美しさに姿を変える。
正門をくぐり抜けた馬車の窓から、エミリオは、壮麗 なその生家 を一望した。そして、将来への意気込みを抱きながらも、少年はなぜかため息をついた・・・。
古びたみすぼらしい建物がひしめき合っているそこは、身寄りのない孤独な者が多く暮らしている場所で、そのほとんどが、
馬車の扉が従者によって開かれると、中から一人の
この世のものとは思えない
誰もが思わず立ち止まり、我を忘れて
従者が、ある一軒の家の玄関戸を叩いた。そして、中からの返事に答えて、その従者が皇后と皇太子の
従者が開けてくれた傷みのひどい玄関戸を横切って、フェルミスとエミリオは室内へ入った。興味深そうに、ぐるっと中を見渡すエミリオ皇子。小さなテーブル、一脚の椅子、低い棚にはわずかな食器。その
何より一番は、カビ臭い寝台の上で、うやうやしくひれ伏している
「こ、これは、ごほっ・・・フェルミス皇后様、ごほほっ、エミリオ皇子様
・・・。」
「どうぞ、横になってくださいな。」
優しくそう
「はは、はいっ。」
一緒についてきたエミリオは、素直に体勢を崩した男の様子と、母の表情とを交互に見つめていた。
すると、母の笑顔が次第に悲しげなものに変わっていく。
「じゅうぶんな治療を受けておられないようですね。以前お
「はあ・・・い、いえ、おかげさまでございまして、訪問医も修道女様 もきちんと来てはくださるのですが・・・何しろ働くことができなくなってしまったものですから・・・その、食事の方が少し・・・。」
男が言い
「まあ、
「ありがたや・・・ありがたや・・・。」
二人が出て行ったあとも手をしきりに揉み合わせながら、男は何度もそう呟いていた。
見通しのよい草原の上に、薄紅色の夕焼け空が広がっていた。そこに、流れるような桃色の雲がそっと浮かんでいる。
一見、それを眺めている様子のエミリオは、なだらかな坂道をゆっくり上っていく馬車の中で、ずっと考えていた。
そしてふと、向かいに座っている母に視線を向ける。
「母上、人はどのような時に涙を流すのでしょう。」と、エミリオは問うた。少年は、人の心理を知りたがる性質があった。
「あなたも泣いたことがあるでしょう?」
目を細めてフェルミスは答えた。
「転んだり、母上に
いくら精神年齢が高くて優秀でも、7歳の子供が、自分の思いや考えを的確に伝えるのは難しい。
「そうね。でも、それは教えられるものではないわ。人は悲しみや苦しみを感じた時のほかに、嬉しい時にも涙を流すけれど、奥は深いわ。」
「はい、何となくは分かるのですが・・・。あの人たちはみな、母上を見て嬉しそうに泣きます。きっと言葉では言い及ばぬ感情がそこにはあって・・・その姿に、とても心を動かされるのです。このような発言は軽々しいかもしれませんが、彼らのように泣くことができたらいいな・・・と。でも・・・。」
フェルミスは、この頭のよい息子の、そういうことを気にする性格を嬉しく思い、うなずいて言った。
「あなたが何となく感じていることは分かるわ。それにはうんと苦労して、うんと苦しまなければ分からない喜びだから、あなたの立場では、喜びも悲しみも、彼らと全く同じ気持ちで泣くことはできないでしょうね。でもその代わりに、あなたには、彼らをその苦しみから救ってあげられる可能性がある。彼らに、その喜びを与えてあげられる可能性がある。だから、彼らがなぜ苦しんでいるのか、どうすればあのように喜んでもらえるのかを考えてあげられる、その気持ちを大切にしてね。」
「母上のようにですね。」
「でも本当は、彼らにあのように喜んでもらえるほど、私は
「母上は、これまでどのような涙を流したことがありますか。」
「私は、彼らのように泣いたことがあります。あなたは、初めからこの裕福な国の皇子として生まれてきたけれど、私の故郷のアルバドル王国(帝国)は、もともと、とても弱くて貧しい国だったの。だから、国中のみんなに助けられて成り立っていた。喜びも悲しみも、国の人々と分かち合ってきたから分かるの。」
「それで母上は、このように彼らを訪問するのですね。」
フェルミスは微笑んだ。
「ここは、あなたのお父様の国。だから、この国の人はみんな家族なの。家族みんなが、ずっと幸せそうに笑っていられたらいいと思うでしょう?」
「はい。」
エミリオは心から共感し、元気よく返事をした。
だがフェルミスは、息子のその笑顔を前にして、つい切実な悲しい声を漏らしていた。
「それに私には・・・病気の人の気持ちも分かるの・・・。」
やがてサンヴェルリーニ宮殿へと帰ってきた皇室の馬車。
正門をくぐり抜けた馬車の窓から、エミリオは、
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)