1. 奴隷狩り

文字数 2,685文字

 紺碧(こんぺき)の大河を見下ろすように、切り立った岩山に造られた町・・・サガ。

 そこは、小さく(はかな)い町だった。

 ガザンベルク帝国による侵略戦争に、従属することを拒否したネヴィルスラム王国は敗れた。その後、ガザンベルクの皇帝は、様々な労働力の確保に奴隷狩りを行った。王宮の捕虜だけでなく、サガの町の住人を引き連れてくるようカーネル〈ダルレイ・カーネル・サルマン〉総督(そうとく)に命じたのである。

 切り立った岩山に造られたサガは、そばに大河があるものの、それを利用していた設備の老朽化(ろうきゅうか)によって旱魃(かんばつ)に対応できず、もはや()ちてゆくだけだと見放されつつあった町だ。

 いきなり人気が無くなった町中(まちじゅう)の建物。

 突然やってきたガザンベルクの部隊に、住民たちが一時一斉に捕らえられてから、三十分が経つ。

 先日、九歳の誕生日を迎えたばかりのレドリー・カーフェイは、この時、暗く冷たい地下室にいた。小さなゴザの上で、母親のエレンにしっかりと抱かれていた。父親のレイリーの顔が、床の割れ目から漏れてくる(ほこり)っぽい光で、うっすらと(うかが)えた。眉間(みけん)に皺が寄っている。レドリーがこれまで見たこともない、(しか)られた時とはまた違う恐ろしい表情だった。

 誰も何も言わない。この沈黙は、夜まで延々と続くかに思われた。

 ここは貯蔵庫だ・・・が、やせ細ったニンジンと、貧弱なジャガイモがあるばかり。そのうち空腹な少年の胃袋は、恐怖の中で(みじ)めに悲鳴を上げだした。

 さらに身を寄せる母の腕の中で、レドリーはおずおずと父を見た。レイリーは我が子に目をやり、悲しげに微笑した・・・が、それだけだった。

 重い長靴の音が聞こえた。細い石畳の道を迫り来る。

 レイリーが油断ない目で上を睨みつけた時、その足音が急に(せわ)しなく民家へ乱入していく物音が響いた。していく・・・というのは、カーフェイ一家の方ではなく、それは向かいの家だったのである。

 再度、この地区の奴隷狩りが行われていた。

 しばらくして、聞き慣れた女性の声が耳をつんざいた。彼女は子供の名前を叫び、「来てはダメ!」と、懸命に叱りつけていた。

 それが聞こえた時、レドリーはハッと息を飲み込んだ。友達の名前だ。その友人には妹がいたが、聞こえた名前は友人のもの一つだけだった。

 喧嘩っ早いその友人の威勢の良い声は、瞬く間にやってきた。しかしその声は、誰か男の(ののし)り声のあと、聞くに堪えない悲鳴に変わった。

 女性のかなぎり声が響き、それに、「連れて行け。」という冷酷な声が続いた。

 レドリーは、胸を(えぐ)られる思いで母の胸にしがみついた。エレンも、きつくレドリーの頭を抱きしめ返した。

 女性のその声はどんどん遠ざかっていく。

 すると、今度はそれについて行こうとする幼い少女の声が聞こえた。少女はめちゃくちゃに泣きながら、「ママ!」と、しきりにわめきたてている。

「そこの小僧(こぞう)、こいつを黙らせておけ!」
 男はまた口汚(くちきたな)く怒鳴った。

 カーフェイ一家には、軒先(のきさき)で起こっているむごたらしい光景が目に見えるようだった。

 レイリーには、どれほど駆け寄って、その兄妹を優しく抱き起こしてやりたいか知れなかった。だが、できなかった。三人で逃げよう。そう息子と約束していたからだ。

「もう一度言ってやろう、よく聞くがいい。抵抗せねば殺しはせぬ。お前たちは、新しく建てる宮殿の建築を手伝うだけだ。一仕事終えれば解放されるだろう。さあ、おとなしく姿を見せろ。さもなくば、子供の命の保証はせぬぞ。」

 実際にはそれだけでなく、その後はほかの重労働にも()てられることになり、すぐに自由を得られる可能性は低い。

 上手い言葉で油断を誘いながらも、無情に脅しかける男の声は、ひと息ついたあとさらに続いた。

「まだ居るのは分かっているぞ。三分やろう。三分経って誰も現れない場合は、私の言葉が単なる脅しではない証拠に見せしめを行う。」

 夫婦は強張(こわば)った顔を見合わせた。それは、さきの兄妹を殺すという意味だ。

 エレンは真っ直ぐに夫を見つめながら、絶望的な声で言った。
「あなた・・・(あきら)めましょう。」と。

 そんな妻を見つめたまま、レイリーはしばらく何も言わなかった・・・が、長靴の音がそのうちにも動き出して玄関を潜り抜け、間近に迫り来るとハッとして見上げた。その鋭い切れ長の瞳で、(きし)板間(いたま)に注意深く目を()らした。

 やがて、レイリーは妻のエレンに目を向け直した。レイリーはその時、決意を固めた真剣な顔で、一つうなずいてみせたのである。

 それを見たレドリーの鼓動は、やにわに狂ったかのようになった。

「父ちゃん、母ちゃん!」

 レドリーはどうしようもなく戸惑い、声を殺して悲鳴を上げた。

 エレンの手が、レドリーから放れた。エレンはそっと立ち上がった。頬に涙が伝っているのが、薄暗い中でもレドリーには分かった。

「嫌だよっ、一緒に逃げようって言ったじゃないか!」

 レドリーはまた、力いっぱい母にしがみついた。だが、そばに膝をついた父に肩をつかまれ、強引(ごういん)に引き寄せられると、ぐずり続けようとするレドリーはピタリと黙った。

 レドリーは、その父の悲痛な顔と、面と向かい合って立たされていた。

 レイリーは、息子のひどく不安そうな目を食い入るように見つめ、苦笑を浮かべた。

「いつかお前にも、今の父ちゃんと母ちゃんを理解できる時が来る。約束守れなかったの・・・初めてだな。」

 次の瞬間、レドリーの鳩尾(みぞおち)に父の(こぶし)が叩き込まれた。

 驚く間もなかった。苦しくて、(あえ)ぎながら胃のあたりを押さえたレドリーは、体をくの字に曲げて足元のゴザに倒れ込んだ。意識も急速に薄れていく。だがその時、ずいぶん遠く感じられた父と母の声は、しっかりと頭に刻み込まれた。いきなりこんなことをした、父の言葉。

「レドリー、強く生きろ・・・。」

「生きてさえいれば、必ずまた会えるわ。」

 いつか理解できる時が・・・今だって分かる・・・そのあとすぐ、レドリーは気を失った。  

 やがて夫婦は、我が子をそのままにして、ひどく名残惜(なごりお)しそうに離れだした。

 だが、急に背中を返したエレンが、嗚咽(おえつ)を漏らしながら、倒れているレドリーの背中を抱き起こした。

 レイリーは、頬ずりを止められずにいる妻の肩に、無言でそっと手をかける。それから気絶したままの息子の方へ(かが)みこむと、(ひたい)に口をつけた。

 うなずき合った二人は、今度はためらうことなく木梯子(きばしご)を登った。そして床下倉庫の(ふた)も押し開け、隠すために動かしたテーブルもくぐり抜けて、食堂に堂々と姿を現した。

 居間へ移っていた敵兵が、あわただしく駆け戻ってくる。

 ほどなく、カーフェイ夫妻は両手首を(いまし)められた。

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