9. 懐かしい温もり

文字数 1,677文字


「何か食べないといけないわね。ちょうどお野菜のスープを作ったの。」

 彼女は明らかに気を使っていると分かる様子でそう言い、部屋を出て行ってしまった。

 実際、エミリオは何を言ったらよいのか分からなかった。この家族が貧しいということは、部屋の様相を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)。何も無いからだ。自分は毛布で暖められた寝台にいて、そばに暖炉があったが、ほかにめぼしいものと言えば、色褪(いろあ)せた(やぶ)れかけのカーテンと、修理が(ほどこ)された低い棚だけだった。ここは居間らしい。だが、椅子はベッドの横にある一つだけ。このベッドを運び込むために、ほかの家具は別の部屋へ移動させたのではないか、とエミリオは考えた。それに壁や床や天井、全てがひどく(いた)んでいる。家屋(かおく)自体が。

 エミリオは、たちどころに(さと)った。この家庭に、他人の世話までできる余裕はないだろう。部屋や、日々の食事や毛布を提供できる余裕は。しかも、暖炉はこの部屋にあるではないか。この冷える夜はどうしているのか・・・。家族全員が満足に眠れているのか。いや、恐らくは・・・。

 ひどくやるせなくなった。なぜ死ねなかったのかと、自分に腹を立てた。もう誰も必要とはしていない、守るべきものもない。愛する者にも、愛してくれる者にも、もう会うことはない。

 なのに、なぜ流木になどつかまったのか。なぜ・・・生き延びようとしたのか。

 分からなかった。 

 ひどい自己嫌悪に陥り、エミリオは痛むのも構わず、傷ついた両腕を無理に動かして顔を覆った。

 そこへ、しばらく部屋を出ていた夫人が、野菜の煮込みスープを載せたトレーを持って戻ってきた。

 エミリオはあわてて、だがさりげなく目をこすった。

 夫人はトレーを、ベッドの空いている場所へそっと置いた。

「お待たせして、ごめんなさい。さあ、今度はゆっくり、私につかまって。」

 背中と胸に手を回してもらい、そうしてエミリオは、時間をかけて上半身を起こした。

「その腕じゃあ辛いでしょうから、食べさせてあげるわね。」

 彼女は笑顔を絶やさなかった。大きなスプーン一杯にスープをすくい、それに息を吹きかけて冷ましている間も、時々、視線を向けてきては微笑んだ。

 死んでも構わないような体を、きっと苦労して救わせたうえ、迷惑をかけている。なんと(おろ)かで、(みじ)めなことだ・・・。エミリオは恥ずかしかった。死んでもいいと、そう思っていたはずなのに・・・死にきれなかった。あげく、貧しい家族の世話に・・・。

 するのは礼ではなく()びだ、と思った。だが、あまりに申し訳なくて、言葉が出てこない。それどころか嗚咽(おえつ)が漏れ、思わず動揺して、ますます止められなくなってしまった。

「う・・・うう・・・。」

 どうして、自分はこうも関わった者を不幸にしてしまうのか・・・。エミリオはたまらなくなり、目をぎゅっと閉じた。

 とうとう、涙がこぼれた。あとから、あとから湧いてくる。もはや自分の中で何かが(こわ)れた気がした。こんなことは、子供の頃以来なかった。

 そう、母を亡くしてからというもの、エミリオはあまりにも苛酷(かこく)な人生を送ってきた。これまで知らずと押さえつけていた感情が、一緒に(あふ)れ出すようだった。

 と、その時。

 不意に、(なつ)かしい温もりがした。遠い昔に味わった感触。うつむいていたエミリオは、夫人の両腕に包まれていることに気づいた。

 十歳にも満たない少年のように泣きじゃくっている、自分。みっともない・・・と、頭で分かりながらも、不思議と恥じはしなかった。それを上回る安らぎが覆ってくれていた。 

 母を亡くしたのは、まさに十歳の時。自分の少年時代は、そこで終わったようなものだった。それからは、甘えることができなくなったから。思えば、恐怖や(つら)さを感じた時に、誰かが抱きしめて、安心させてくれるということもなくなった。それは母だけがしてくれたことだ。

 優しく抱き寄せられて素直に身を(ゆだ)ねていると、エミリオはもう、無理に涙を止めたいとも思わなくなった。(まじな)いでもかけられたような、奇妙な感じがした。

 もし正体を知られていたら、こんな姿は別人のようだと思われるだろう・・・。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み