⒉ 月光が照らす美女

文字数 2,096文字

 小屋の中は、ランプの弱い灯りで(ほの)かに赤く染まっていた。その灯りが、汗まみれの彼の顔をうっすらと照らし出していた。

 イヴ・フォレストは、彼の(うめ)き声で目を覚ました。見ると彼は苦しそうに口を動かしていて、度々妙なことを言った。

「・・・だ・・・逃げようって・・・じゃないか。」

 (あえ)ぎ喘ぎそう口にすると、彼は、今度は激しく首を左右に振り始めた。

「放せっ・・・。」

 イヴは、驚いて丸椅子から腰を上げた。そのあと彼は痛烈な悲鳴を漏らし、寝返りをうったかと思うと、うなされながらベッドの上でもがきだしたのである。だが本人はまだ意識が戻らず、自分がしていることの何にも気づいてはいないようだった。

 すぐそばに立ったイヴは、衝動的に彼の頬に手を当てた。すると彼は少し落ち着いた。寝汗がひどい。

 イヴは(おけ)の中の手拭(てぬぐ)いを絞って、彼の顔や首筋をそっと()いた。肩のくぼみや胸元も汗で濡れ、着ている白いシャツが体に貼りつくほど。そこでボタンを全て外して引き開けてみれば、息を呑むほど(きた)え抜かれたその上半身は、やはりひどく汗ばんでべっとりとしている。イヴは彼の体も丁寧に拭いていき、そのあと彼の(ひたい)に手を置いて念をこらした。

 彼はまだ目覚めないまま荒い息をついていたが、苦痛で険しくなっていた眉間(みけん)は、次第に穏やかになっていった。

 イヴは吐息(といき)をついて、微笑んだ。そして再び椅子に着こうと、視線を彼の顔から背後へ向けた。

 すると、

「・・・さん・・・母さん・・・。」

 彼がまた何かつぶやいた。

 反射的に目を戻したイヴの胸に、不意に切なさがこみ上げた。気のせいか、その時の彼の表情がとても悲しそうで、とても孤独なものに見えたのである。

 気のせいではなかった。イヴが気になって見つめていると、彼の目尻にじわりと涙が浮かんだのだ。それが一瞬、ランプの灯りで光ったようだった。

 イヴは、今度は(さび)しそうに眉根(まゆね)を寄せている彼の(まぶた)にそっと触れ、それから椅子に落ち着いた。

 そうしていると徐々にまた眠気が刺してきて、イヴはランプの灯りを消してから、もう少し眠った。





 夜も更けた頃には雲が晴れ、今は、小屋の中に青白い月明かりが射し込んでいた。

 レッドは夢にうなされていた。彼はこの日二つ夢を見ていて、どちらも悪夢と言えるものだったが、最初に見た方はもう覚えてはいなかった。そして、次に見ているこの夢の中でも、彼はやはり悲鳴を上げていた。かすかに唇を動かして(つぶや)いている寝言は、実際にはほとんど聞き取れないほど(かす)れていたが、彼自身は必死に泣き叫んでいるつもりだった。

「・・・()かないでくれ・・・。」

 彼女が見ているとも知らずに、レッドはまた悲痛に顔を(ゆが)めている。

「・・・テリー・・・。」

 遠くからかすかに聞こえる音が、なぜかフクロウの鳴き声らしいと分かった時、レッドはようやく意識を取り戻した。だが、目を開けることができない。体が異常にだるく、息苦しいことも不思議だった。自身が今どれほど息をきらせているかも知らなかった。

 すると、額に柔らかい感触を感じて、レッドは一度、ゆっくりと長い吐息(といき)をついた。(まぶた)を上げることができた。

 そして・・・呆然とした。

 無性に欲していたものが、今そこにあるからだ。それは、不思議と心が(いや)される優しい微笑み。月明かりに照らされたその顔は、あたかも女神のように美しかった。

 そばに知らない女性がいて、自分の額に手を置いているのである。レッドはたちまちその笑顔に()せられてしまい、最初は、打ちひしがれている自分を(なぐさ)めてくれようと、その夢の中に女神が舞い降りてきたのだと思った。彼女に声を掛けられるまでは、それが現実であるとは気付かなかった。

「苦しい?」

 レッドは目を(またた)いた。

「あ、いや・・・今、急に楽に・・・。」

「そう、よかった。うなされていたから・・・どっちも。」

 イヴはサイドテーブルに手を伸ばし、もともと調節して灯りを弱めていたランプを点けた。

 レッドは、ここではっきりと見ることができた彼女の顔に、また見惚(みと)れた。彼女は、やはりとても美人だった。だがレッドには、月光に照らされた彼女の笑顔の方が印象的だった。

「二つ夢を見ていたでしょう?」と、彼女はきいた。

 そう言われて、レッドは考えた。その一つは、はっきりと覚えている。そしてもう一つは残酷(ざんこく)なまでに克明(こくめい)に記憶してはいるが、夢としては今おぼろげに思い出した。だから、うなされていたと言われた時、思い出すまでもなく何の夢を見ていたかだけは、すぐに分かった。

「ああ・・・ガキの頃の夢にだ。もうずいぶん見ずにいられたのに・・・忘れることなんてできない最悪の思い出だがな。けどもう一つは・・・何だろうな。忘れちまった。」

 レッドは嘘をついた。今はっきりと覚えているのは、その忘れたと言った方の夢であり、夢としてはどんなふうに見ていたのかよく記憶にない方が、その子供の頃の出来事だった。レッドにとって、幼き日のその最悪の出来事は、いつからか人に語ることもできるようになったが、もう一つの心の痛手は、人前で涙を流さずに語りきれる自信がまだなかったのである。

 しばらく、沈黙が続いた。


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