3. 皇室との決別
文字数 2,443文字
ランセルは、皇帝ルシアスと、その愛人だった現皇妃シャロンとの間に生まれた子だ。それも、エミリオの母親フェルミスが、まだ生きていた頃のことだった。ルシアスは、最愛の妻フェルミスが余命わずかであると知ると、その不安と寂しさを紛らわせようとした。その出来心がエミリオの人生を狂わせた。そして、心配した通りに、フェルミスはエミリオが十歳の年に他界。その後、一年も経たないうちに、シャロンが皇妃の座に迎えられた。そこで浮上してきたのが帝位継承問題である。法に従えば後継者は第一皇子だが、ルシアスは、どちらを世継ぎにすればよいのか・・・と、ひどく苛 まれた。
やがて、苦肉の策で思いついたのが、エミリオをランセルの後見人にすることだった。それなら皇帝の座はランセル、政権は実質エミリオとなり、シャロンをある意味騙 して、重臣たちをも納得させることができる。さらには、例え名目でもエミリオを兵士にすると言えば、シャロンもさすがに気が済むだろう。そう考え、ルシアスは彼なりに、最愛の亡き妻との実子であるエミリオを守ろうとしたのである。
ところが、暗殺の動きは、そうして後継者をついに決定したあとも続いた。やがてルシアスは悩み疲れ、シャロンの暗殺計画に気付きながらも、そ知らぬふりをするようになった。あげくの果てに、エミリオが戦死すれば、自分も周りの権力者も、そして臣民もあきらめがつくと、思わず考えてしまうことすらあった。そう思い始めた頃にはもう、エミリオは名ばかりの大尉ではなく、戦場で敵の実力者を次々と討 ち取る一流の軍人として見られるようになっていたのである。
ランセルは音をたてずに扉を開け、周囲をよく確かめてから兄を振り返った。
「ハタディスが、裏門で必要なものをそろえて待っています。召使いは私に任せてください。」
ハタディスとは、数年前までは二人の、そして今はランセル専属の教師であり、二人にとって最も信頼できる年老いた家臣である。
エミリオは胸が熱くなり、どんな言葉を返したらよいのか分からなくなった。
そんな兄の腕をつかんで、ランセルは強くうなずきかけた。
まだ若すぎるその弟に促されるまま、エミリオは黙って後ろからついて行くことしかできなかった。ただ、こんな時だというのに、ランセルの行動力と頼もしさを知られたことは嬉しかった。自分がやらなくても、母が実現したエルファラム帝国の真の平和はきっと、ずっと続いていく。
やがて二人は一階の大理石の回廊に出た。夜の帳 が下りてきて薄暗い中庭を通り、誰にも怪しまれずにうまく裏門までたどり着くことはできた。
もう使われてはいない小さな鉄の門の前では、旅の支度を整え、エミリオのための外套 を腕に掛けているハタディスが、辺りをじゅうぶんに警戒しながら待っていた。
エミリオはまず手渡された外套 をまとい、頭巾を被って顔を隠した。
「やつがれには、エミリオ様の教師でいられたことは最高の誉 れでございます。どうかお体を大切にしてくださいまし。」
その本当の意味になど気づきはしないだろうと分かっていながら、ハタディスは〝体を大切に。〟という言葉を祈る思いで贈った。
「ハタディス、そなたには多くの事を教えていただいた。いろいろ力にもなってくれたな。感謝している。」
「勿体のうございます。」
老人は下を向いて、さめざめと泣いた。
それに影響されたランセルは、思わず本音を吐いてしまった。
「兄上、私は・・・私は皇帝になどなりたくはない。兄上と離れるのは嫌です。」と。
急に気弱になったランセルは、潤 んだ瞳で食い入るように見つめてくる。エミリオ自身も目頭が熱くなったが、ぐっと堪 えた。そして、実の母に背いてでも慕い続けてくれた異母弟を、両腕で抱いた。
「ランセル、いずれその手に、エルファラム帝国の平和と臣民の生活が委ねられることになる。不安だろうが、彼らのためにしっかりと前向きに生きて欲しい。」
エミリオは少し離れて、そんな弟を真っ直ぐに見つめた。
「だが大丈夫、この国には優秀な人材がそろっている。この国の富みを思うままにするといい。その優しさがおのずと答えを導き出してくれるはずだ。だからこそ、私も安心して行ける。」
ほっとする力強い言葉だった。涙をぬぐったランセルは、堂々と顔を上げて言った。
「すみません、兄上を困らせてしまって。力を尽くします。エルファラム帝国の繁栄と、臣民の幸福のために。」
エミリオは莞爾 たる笑みで応えた。
「さあ、エミリオ様。」
ハタディスは、すでに門を開けて待っていた。この門の鍵は、ハタディスでもランセルでも、どちらでも楽に手に入れることができた。美しく絢爛 と飾られた大庭園の正面ゲートとは違い、生い茂る草木の陰で、もう何年も閉ざされたままになっている格子 扉の鍵である。
エミリオはうなずき、門の外へ潔 く足を踏み出した。この瞬間に、皇子の名も権力も名誉も、何もかも一切を失った。あるのは、エミリオという個人名だけだ。身分階級を表すほか全ての称号を取っ払った、もはやただの青年の名でしかない。振り返ると、目の前にそびえ立つ見慣れた豪壮な建物から、華やかな貴族の生活が浮かびあがった。たった今から、家も家族も、何も持たない孤独の身と成り果てる。しかし、愛する者や恩師たちとの別れの辛さのほかは、何も感じはしなかった。誰にも知られずに死ねる場所・・・そこへ行きたい、と考えてさえいた。
「ありがとう。」
それだけを伝えると、エミリオは徐に二人から離れだした。
空一面を覆う雲が強風に流され、夕暮れの中を緩 やかに南へ移動している。
「達者で・・・。」
背中を返したエミリオは、雲と同じく南の木立へ向かって駆けだした。
ランセルの双眸 から、涙がどっとあふれ出した。〝兄上。〟と叫びたかった。どれほど呼び戻したかったか知れなかった。
ハタディスも力無くその場に立ち尽くして、一人静かに消えて行こうとするエミリオ皇子の後ろ姿を、目の届く限り見送り続けた。
やがて、苦肉の策で思いついたのが、エミリオをランセルの後見人にすることだった。それなら皇帝の座はランセル、政権は実質エミリオとなり、シャロンをある意味
ところが、暗殺の動きは、そうして後継者をついに決定したあとも続いた。やがてルシアスは悩み疲れ、シャロンの暗殺計画に気付きながらも、そ知らぬふりをするようになった。あげくの果てに、エミリオが戦死すれば、自分も周りの権力者も、そして臣民もあきらめがつくと、思わず考えてしまうことすらあった。そう思い始めた頃にはもう、エミリオは名ばかりの大尉ではなく、戦場で敵の実力者を次々と
ランセルは音をたてずに扉を開け、周囲をよく確かめてから兄を振り返った。
「ハタディスが、裏門で必要なものをそろえて待っています。召使いは私に任せてください。」
ハタディスとは、数年前までは二人の、そして今はランセル専属の教師であり、二人にとって最も信頼できる年老いた家臣である。
エミリオは胸が熱くなり、どんな言葉を返したらよいのか分からなくなった。
そんな兄の腕をつかんで、ランセルは強くうなずきかけた。
まだ若すぎるその弟に促されるまま、エミリオは黙って後ろからついて行くことしかできなかった。ただ、こんな時だというのに、ランセルの行動力と頼もしさを知られたことは嬉しかった。自分がやらなくても、母が実現したエルファラム帝国の真の平和はきっと、ずっと続いていく。
やがて二人は一階の大理石の回廊に出た。夜の
もう使われてはいない小さな鉄の門の前では、旅の支度を整え、エミリオのための
エミリオはまず手渡された
「やつがれには、エミリオ様の教師でいられたことは最高の
その本当の意味になど気づきはしないだろうと分かっていながら、ハタディスは〝体を大切に。〟という言葉を祈る思いで贈った。
「ハタディス、そなたには多くの事を教えていただいた。いろいろ力にもなってくれたな。感謝している。」
「勿体のうございます。」
老人は下を向いて、さめざめと泣いた。
それに影響されたランセルは、思わず本音を吐いてしまった。
「兄上、私は・・・私は皇帝になどなりたくはない。兄上と離れるのは嫌です。」と。
急に気弱になったランセルは、
「ランセル、いずれその手に、エルファラム帝国の平和と臣民の生活が委ねられることになる。不安だろうが、彼らのためにしっかりと前向きに生きて欲しい。」
エミリオは少し離れて、そんな弟を真っ直ぐに見つめた。
「だが大丈夫、この国には優秀な人材がそろっている。この国の富みを思うままにするといい。その優しさがおのずと答えを導き出してくれるはずだ。だからこそ、私も安心して行ける。」
ほっとする力強い言葉だった。涙をぬぐったランセルは、堂々と顔を上げて言った。
「すみません、兄上を困らせてしまって。力を尽くします。エルファラム帝国の繁栄と、臣民の幸福のために。」
エミリオは
「さあ、エミリオ様。」
ハタディスは、すでに門を開けて待っていた。この門の鍵は、ハタディスでもランセルでも、どちらでも楽に手に入れることができた。美しく
エミリオはうなずき、門の外へ
「ありがとう。」
それだけを伝えると、エミリオは徐に二人から離れだした。
空一面を覆う雲が強風に流され、夕暮れの中を
「達者で・・・。」
背中を返したエミリオは、雲と同じく南の木立へ向かって駆けだした。
ランセルの
ハタディスも力無くその場に立ち尽くして、一人静かに消えて行こうとするエミリオ皇子の後ろ姿を、目の届く限り見送り続けた。
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