⒛ 落雷の夜に

文字数 2,326文字

 急に我にかえったイヴは、彼の腕の中で(あせ)って手を動かし、身をよじった。その不自然な動きに、レッドは全く気づかなかった。

「ま、待って・・・。」

 イヴはあわてて言った。だがその声はひどく(かす)れていて、言葉にはならなかった。

 イヴは必死になって、押し退()けるように彼の胸に両手をついた。

「待って!」

 (こば)まれた勢いで顔を上げたレッドは、驚いてイヴの目を見た。そして、その双眸(そうぼう)にあからさまな恐怖を見てとった。その(おび)えた瞳を見るなり、レッドはすぐに体をどけた。

「ごめん・・・こんなこと・・・。」

 俺はバカだ。レッドはどうしようもなく恥ずかしかった。こんな思い出させるようなこと・・・!

 イヴは違うと伝えたくて強く首を振ったが、レッドは項垂(うなだ)れていて気付かない。彼女のことを考えられなくなり、つい興奮してしまった自分をひどく恥じているせいで。

 きっとあの連中と何も変わらなかったろう。それに、いつもは修道服だが、今日は休みで私服の彼女が聖職者であることを忘れてしまったのも情けなく、これでは顔を上げられるはずもなかった。

「しかもあんたは修道女なのに・・・俺、どうかしてた。」

 ベッドに腰掛けて下を向いたまま、レッドはそう言った。

 すると、イヴが驚いたようにきき返してきたのである。

「修道女なのに・・・って?」と。

「え・・・。」

 思わず顔を上げたレッド。

「え・・・?」と、イヴ。

 そして二人は、目を見合って黙り込んだ。互いの思わぬ反応に戸惑って。

 だがイヴの方では、彼が単に修道女という神聖な存在に手を出してしまったことにだけ後悔(こうかい)しているのだとすぐに悟ると、あわてて言葉を続けようとした。レッドのその表情から、初めて会った日に、修道女という名前くらいは知っていると言った彼のままでまだいることに、サッと気付いたのだった。そして同時に、それ以上のことを知られたくないという衝動に駆られたのである。

「あと・・・三年。」と、それでイヴは言った。「あと三年で退院なの。私には・・・あなたしか・・・。」

 最後の言葉はほとんど独り言のようだったが、レッドには、それでじゅうぶんだった。

「イヴ・・・。」

「私は・・・あなたのことが好き。あなたは・・・?」

 すると、これまで何度も覚えた苦悩や、複雑で混沌(こんとん)とした感情が殺到した。たちまち精神を掻き乱された。レッドは耐え切れずに両手を伸ばして、勢いよくイヴを抱きしめていた。その様子は異様で、逆に助けを求めるかのようだ。

「もう・・・おかしくなりそうだ。」
 イヴが戸惑っていると、レッドは震える声でつぶやいた。

「レッド・・・?」

「自分に自信も誇りも持てない・・・自分が分からない・・・自分を見失いそうになる。」

 イヴは驚いて、唖然(あぜん)とした。あれほど堂々と子供たちに剣の稽古(けいこ)をつけてやり、あれほど見事に狼藉者(ろうぜきもの)たちを叩きのめしてみせた彼が、今は信じられないほど弱々しく、小さく見えた。

「レッド、どうしたの?」

「イヴ・・・俺・・・。」

 イヴは、ここでふと思いだした。彼が夢にうなされていたことに・・・。
 それでイヴは、精一杯の労わりを込めて、聖母様のようににっこりとほほ笑むと言った。

「レッド・・・大丈夫よ。落ち着いて私の目を見て、ほら・・・。」 

 促されるまま、ひどく思いつめた顔を上げると、彼女の得も言われぬ微笑が目に飛び込んできた。レッドは思わず呆然となった・・・。今は、彼女の手は額に置かれていないのに、出会ったあの夜、病を治してもらった時のように、心も体も急速に(なだ)められていく・・・。それを感じながら、レッドは、この心の暗雲(あんうん)を晴らしてくれる思いがけない薬に気付いて、言葉を忘れたかのような顔をしていた。

 その切れ長の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうになっている。

「大丈夫・・・。」と、もう一度イヴは声にして、レッドの背中をしっかりと抱きしめ返した。「大丈夫・・・だって、あなたは人間でしょう?」

 女神・・・と、レッドは(がら)にもなく、再びそう思った。まるで泣きはらして疲れた子供のような心境と状態でいるところに、とても穏やかな声が囁きかけてくる。優しく包みこんでくれながら。

「悩んだり、苦しんだり、自分を恥じたり・・・それは人として当然のこと。自分を見失いそうになると思っているのは、きっと自分を見ていないからだわ。あなたはきっと、自分はこうあるべきだと思って、その姿ばかり見てるのね。自分のことをよくも知らないで、そんなふうに思っちゃダメよ。何も気にしないであなたらしく生きれば、それがきっと答えになるわ。だって、あなたはとても素敵な人だから。」

 だが、いつまでもこの精神の病を克服(こくふく)できずにいるレッドは、イヴを本気で好きになったとはいえ、彼女が修道女であることを忘れ、本能のままに動いてしまったことで、いよいよアイアスとしてやっていく自信を失いかけていた。この先もこんな状態でいれば、そのうちきっとまた不名誉なことをして、その名を汚すことになる。それを恐れていたレッドには、彼女のその(はげ)ましが、テリーが死に(ぎわ)に残した言葉 ―― お前は、俺が()れ込んだ男だぞ ―― と同じ意味を成していることにも気付かずに、ただ自分はどうすべきかに真剣に悩まされていた。あと三年で退院できると告げられたレッドは、イヴが何をいわんとしたかを悟って、けじめをつけなければと考えたのである。

 自分でも情けの無い顔をしていることに気付いていたレッドは、急に真顔になると、思いつめた声で言った。
「決していい加減な気持ちじゃなかった。だけど・・・ごめん、時間をくれ。こんなことしておいて最低だけど・・・今はまだ、答えられない。」

 イヴはただ(うなず)いただけで、その理由をきかなかった。



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