深夜の客

文字数 1,750文字

 ドアを開けると、六十前後に見える恰幅の良い見知らぬ男が立っていた。
 男は右手に金属バットを持っている。
 男が何時までも黙っているので、
「何か御用ですか?」
 と私が訪ねた。
「久しぶりだな、元気だったか? 少しお邪魔するぞ」
 と男は言うと、勝手に部屋の中に入って行き、ソファーに腰かけた。
「アナタは、一体何の用事で来たのですか? 私を誰かと間違えていませんか?」
 私が怪訝そうに、そう言うと、
「オマエは、オレの事を忘れたのか?」
 男はバットを握ったまま、少し怒気を含んだ声で言う。
「私は、アナタに会ったことは無いですし、夜中に突然やって来て、しかも、バットを下げているし、一体私を誰と間違えているのですか?」
「オマエは、先月退職しただろう、公務員の退職金は良いから、少なくとも三千万はもらっているはずだ。だからオレがオマエに貸した二千万を返してもらうためにやって来たのだ」
「確かに私はこの三月末で退職しました。しかし、公務員の退職金は、昔ほど良くないですし、第一見も知らぬアナタにお金など借りていません。アナタは私を誰かと間違えていますよ」
 私が必死にそう言うと、男は持っているバットを床に置き、
「まあお互い、少し落ち着こうじゃないか。良かったらビールでも飲みながら話し合おう」
 男が静かな口調で、そう言う。
「あいにく、ビールは飲まないので置いていませんが、焼酎ならあります。それでもいいですか?」
「ああ、ないなら仕方ない。で、焼酎は芋じゃないだろうな?」
「麦ですけど、安い奴ですよ」
 と私が言うと、
「芋じゃ無ければ、銘柄は特に言わないから、あるものでいいよ」
 男が何だか、偉そうに言う。私は既に晩酌を済ませていたが、もう一度男と飲みなおすことにした。
「つまみは、サバの缶詰しかないですけど、いいですか?」
 と私が聞くと、
「枝豆があれば嬉しいけどな」
 と男が言うので、
「枝豆は今切らしているので、申し訳ないですが」
 と私が言うと、
「なら、サバ缶でいいや」
 男がやっぱり偉そうに言うので、癪に障った。
 男は肝心の話もせずに、早いペースで焼酎を飲み続ける。私は紙パックの焼酎が残り少なくなっているのが気がかりだった。
「オマエもしかし、よく停年まで勤めたよな、オマエのことだから、すぐに辞めるだろうと思っていたけどなぁ」
 男がほろ酔いの顔で、しみじみと言う。
「あのぉ、ところでアナタは私を誰と思っているのですか? アナタがその金を貸しているという人の名前を言ってみてください」
 私が男に聞くと、
「オマエは、前田だろう。ほら、オレと昔研修で三ケ月同じ宿舎で過ごしただろう? あの時、オマエがカジノですってオレに泣きついてきたじゃないか」
 男が私の名前を知っており、私が研修中にカジノで借金したことまで知っていることに驚いたが、この男に金を借りた覚えはない。
「確かに私は、研修中にカジノですって借金しましたけど、アナタにお金は借りていませんし、アナタに会って無いと思いますが……」
 私は段段と、自分の記憶が曖昧になってくるようで、もしかすると男と、研修中に会っているのかもしれないと思い始めた。
 研修には全国から百人程の自治体職員が集まって宿舎に泊まっていたことから、軽く挨拶を交わした程度の相手の顔までは覚えていない。
 その時、私はサラ金に手を出したが、研修中の自治体職員に金は借りていない。どうせ、この男は他の自治体職員の知り合いか何かで、私がカジノですったことを職員から聞き、研修中にカジノで遊んだことを非難する代わりに、体よくゆすっているのだろうと思った。
 それにしてもこの男の非常識さは、余りにも度を越していて、腹が立つより、逆に恐れ入るのである。
「もう、焼酎の残りも少ないですし、明日私ゴルフがあって、五時起きなんで、良かったら帰っていただけませんか」
 私が恐る恐るそう言うと、男は床にあるバットを取り、
「オマエの出方次第では、今日は叩き殺すつもりだったが、今夜は取りあえず帰ることにするけど、今度来る時までに、二千万用意しておかないと、只じゃ済まさないからな」
 男はそう言うと、ふらつく足で帰って行った。
 私は今度来た時には、警察をすぐに呼ぼうと思い、構えていたが、男はそれきり二度と現れなかった。
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