地獄の職場

文字数 2,454文字

 私は、この春の人事異動で課長に昇進した。
 私は、生真面目で融通が利かず、要領が悪い。そんな性格だから、狡賢い狸や狐ばかりの棲む役所の中では生き抜くい。心にもないお世辞を言って追従したり、派閥に属したりする事が嫌いだ。私の様な一匹狼は組織人としては不向きだし、出世しない。
 併し昨年秋に当選した市長が私の親戚であり、父が後援会長をしていた事から、異例の昇進だった。私は管理職への昇進など、全く望んでいなかったので、正直迷惑でしかなかった。
 当然役所内での反発が起きた。私は課長になるまで他の課の係長をしていた。課長補佐の経験もないまま二階級特進で課長に昇進したのだ。だから余計、皆の反発をかったのである。
 私は性格上阿る事が出来ない。そうかと言って強引に引っ張っていく力や人徳もない。表面上強がっているが、本当の処は小心な臆病者である。
 私は直ぐに針の筵状態になった。私が朝出勤して「おはよう」と職場内で声をかけても、誰も振り向きもせず挨拶を返さない。
 課長補佐の女は、五期連続市長をした前市長の流れを汲む主流派閥のドンである総務課長の妻であり、これがとんでもない底意地の悪い女狐の様な女だった。又、課にある四つの係の長が皆その派閥に属していた。
 私は一匹狼だが正義感は強く、仕事は住民サービスの為にと誰よりも努力してきた。その自負がある。併し其れ迄は派閥に属さない私は変人のレッテルを貼られ、同期の者達が次々に昇進していくのに、万年係長のままだった。
 私は管理職になった以上は、自分の出来る事は精一杯やろうと決意した。その為に、まず住民サービスに力を入れようと、その事を最初の課内のミーティングで訴えるも、皆は不満そうに俯いたまま黙っている。私は皆の態度に腹が立ったが、まずはぐっと堪えた。課長補佐や係長は派閥の奴等だから仕方ないにしても、若い職員迄もがそうした態度に出た事が意外だった。
 後から分かった事だが、課長補佐が全て黒幕だった。底意地の悪い女が圧力をかけていた。この女が課の一番のベテランであり、実権を握っているのだ。
 私は耐えた。四月、五月とほぼ課内の誰とも口を利かない日々が続いた。
 私は段々と痩せていき、眠れなくなっていった。出勤してもボーっとして、思考力が鈍ってきた。電話がかかって来ても、相手の声が聞こえなくなってきた。私は課長だから事務的な仕事はあまりないが、仕事の関係者や市会議員の要望等の対応には自分が出なければいけない。
 課長補佐の助言がなく、先の課長からの事務引継ぎもまともに受けておらず、問題のある懸案事項等が頭に入っていない。其の事を当然知っている前提でやって来る市会議員や地区長が、最初はそんな事も知らないのかと言う顔をしたが「まぁ課長になったばかりだから無理もないよね」と慰めてくれた。
 併し六月になっても話が前向きに進むどころか何の手も打たない課長に呆れた顔をし始める。徐々に焦りイラつく私を見て、部下達が目配せして笑っている。
 此の課は九割方女性であり、よく課長補佐が束ねて女子会と言って定期的な飲み会をしている。其の場で、散々課長である私をコケにしていた。
 四人の係長の内、三人が女性だった。一人の男性係長は気の弱い男で、課長補佐の機嫌ばかり取っている。
 私は六月に開催された定例議会での質疑で、赤っ恥をかかされた。事前に通告のあった質問内容を女性係長に聞くも、女性係長は嫌そうな顔をして資料を出してきた。普通は係長が答弁書を作成するのであるが、反発しているので、私の机の上に分厚いファイルをドンと置いて説明すらもしない。私が流石にむっとして「レクチャーぐらいしたらどうだ」と言った。生意気な女性係長は「読んでもらったら分かります」と不貞腐れた態度で言い、その後席に戻り部下達に目配せして笑っている。
 質問された内容は、複雑な利害関係が蜘蛛の巣の様に絡み合っており、資料を読んだだけでは到底理解出来ない。議会で私が答弁した内容が、早速議員から槍玉に挙げられた。私は議会で反市長派の議員から吊し上げにあった。
 私は此の事がきっかけで、愈々眠れなくなってしまった。
 七月八月、私は此の間、どういう風に過ごしたのか記憶がない。あるのは職場内で私の言動を見て笑う皆の顔が、さざ波の様に揺れていた事だ。部下達が私を盗み見て、馬鹿にして失笑する。その光景しか思い出せない。最早私の視線は虚ろで、明らかにおかしい。私は簡易な決裁文書を読んでも全く頭に入らず、只機械的に印を押す以外になかった。
 私はこんな仕事をする為に役所に入ったのではない。と、常に吐き気を催しながらぼんやりした頭で考えた。
 其の内、食事も咽喉を通らず、家に帰ると浴びる様に酒を飲む。併し気持ち良く酔う事が出来ず、眠ったとしても直ぐに目が覚める。
 やがて幻聴が聞こえる様になった。女狐が部下達と私の悪口を言い合い笑いあう声が、始終聞こえる。耳を塞ぐが、女狐の笑い声が止まない。私は眠る事も出来ず、幻聴に悩まされ、地獄の苦しみに苛まれた。
 そんな私の様子を見て、妻が心配をした。私は仕事の事を家で一切言わない為、妻は余計に心配するのである。
 私は、出勤時刻が近づくと、暗く思いどんよりした気分に覆われる。毎朝目が覚めてから出勤する迄の時間が、地獄の様に思われた。
 到頭ある朝、私は蒲団から起き上がれなくなった。
 妻の勧めもあり、心療内科に行った。
「昇進による鬱病ですね」
 と若い男の医者は言った。
「無理せず、暫く休養する事が大切ですね」
 と優しく言う。その瞬間私の全身を覆っていた黒い闇が、摺り落ちていく様に感じ、ふうーっと大きな溜息をついた。
 私は休職中、憎き女狐の様な課長補佐を恨んだ。幾ら薬を飲んでも恨みの感情は消えない。消えるどころか憎しみの感情は沸々と煮えたぎる様に膨らんでいく。
 何時か女狐を殺して、自分も死のうと思った。
 そしてその思いがピークに達した時、私はくも膜下出血で倒れ、三日後に死んだ。




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