寝言

文字数 941文字

 健志郎は5月の連休、7年間付き合った5歳年上の美津子に、別れを云うため上京した。
 健志郎の父親が市長をしており、後援会長が市会議員の娘と健志郎を結婚させようと話を進め、先々月見合いをする羽目になったのである。
 娘が健志郎を気に入り、来月結納する運びになった。
 優柔不断で気が弱い健志郎は、大学時代から付き合っている彼女が東京にいる事を、親に云い出せなかったのである。
「健志郎、どうかしたの?」
「いや、別に……、どうして?」
「何か考え事してるみたいだし、さっきから溜息ばかりついてるじゃん」
「いや、別に……」
 半年ぶりのセックスも何時もの健志郎らしくない、と美津子は思った。何時もはもっとしつこい位に愛撫に時間をさく健志郎が、今夜は別人の様に淡白で行為の後も体に触れてこない。
 健志郎は美津子に会うまでは、美津子を抱かずに別れを云うつもりだった。しかし美津子を見た瞬間に、その考えは消えた。今でも美津子を愛しているのだ。
 大学時代に人妻だった美津子と知り合ったのは、アルバイト先のコンビニだった。美津子との出会いは運命の様に思えた。1年ほどして、美津子は夫と3歳の子どもを捨て、健志郎のアパートに転がり込んだ。
「健志郎と私は、前世は双子だったかもね?」
 と初めて関係を持った夜、美津子がそう云った。同棲した3年の間、二人は狂った様に求め合った。前世の記憶を取り戻すかの様に……。
 しかし大学を卒業すると、健志郎は強制的に帰省させられた。離れ離れになった二人は、その後年に数回逢瀬を重ねながら愛を確かめ合ってきた。二人は結婚の約束をしていた。
「健志郎の田舎にも一度遊びに行きたいな。私まだ健志郎のお父さんやお母さんにも会ってないし、私も年だから……」
 女の直感の鋭さに少し怖くなったと同時に、美津子が不憫に思えた。
 美津子の寝顔を見ながら、美津子と過ごした夢の様な日々が走馬灯の様に脳裏に浮かぶ。美津子と別れる事が辛い。
「うそつき」
 美津子が突然寝言を云った。
 さっきから薄々気が付いていたが、美津子のいびきが聞こえない。美津子は軽いいびきをかく癖があった。
 健志郎はもう実家には戻らないと決心した。
 健志郎の隣で美津子が眠っている。
 いびきをかく事無く永遠に眠り続けているのである。

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