黒いマスクの女

文字数 3,476文字

私が大学卒業後、二十三歳で郷里の市立図書館の臨時職員として働き始めた時、図書館職員のA子から業務の事を教えてもらった。
二十代後半と思われるA子は、長身で痩せている。髪は黒髪のおかっぱで、目はキツネの様に吊り上がっている。この時は現在の様にコロナが流行している訳ではなかったが、A子は重度の花粉症の為、年がら年中マスクをしていた。A子のマスクは黒い布の手作りのもので、小顔の目から下がすっぽりと覆われている。
A子と休憩時間に業務以外の事を話していると、A子が妙に浮世離れしている感じがしてきた。
A子はまだ若いのに、あまり同世代の子が聴く様な音楽とかに興味を持っていない。
「趣味は何ですか?」と私が聞くと、暫く考えた後、
「そうね……、落語を聞く事かしらね」と真面目な顔で云う。
「又、随分古風な趣味ですね」と私が云うと、驚いた様子で、
「エッ、そうかしら……、アッ、それって実際に寄席に行くんじゃなくて、ユーチューブで聞くのよ」
「そうでしょうね、寄席に行くのなら、都会とかに行かないとだめですよね」と私が云うと、
「そうなのよ、でもユーチューブって本当に便利でいいわよね。昔のシンチョウの落語なんか聞けるから」
「中々通そうですね?」
「いえ、それ程でもないわよ」
「落語の他には好きなものありますか?」
「……」
「スポーツなんか、しませんか?」
「スポーツは運動音痴だから、ダメね。散歩位はたまにするけど、アッ、でもそれってスポーツっていえないわよね、フフ……」
「じゃあ、インドア派なんですね?」
「そうね、どちらかと云えば、インドアかしらね、……けどね、山を歩いてコケを見るのは昔から好きだわ、そんなもの趣味って云えないかもしれないけど……」
「コケ? コケって、あの……草みたいな感じの?」
「そう、山の麓に生えているコケを見ていると、何故か見入ってしまって、何時間でも見続けていられるわね」
「それって、すごくないですか? コケ見て何時間も過ごせるなんて」
「そうかしらね、小さい頃、山道を歩いていて、コケを発見して、何だろうと思って眺めていたら、コケがわたしに何かを語りかけてくる様な気がして……。それから、ずっとコケを見ると、じっと見続ける様になったのね、それってやっぱりかなり変わっているよね?」
「そうですね、人の趣味にどうのこうの云えないですけど……、ただ、よく年配の人が花を愛でたり盆栽を鑑賞したりするのはよく聞くから、そんな感じなんでしょうね? その対象がたまたまコケだっただけで……」
「そうなの、わたし、花や木や草を見ても、特に何にも感じないのに、コケは違うのよ……。これは、人に説明しても絶対分かってもらえないかもしれないけれど、わたしの前世がきっとコケだったんだろうと思うのね、だからコケ見ていると何とも云えない懐かしい気持ちになるの」
「へぇー、前世がコケですか? それってすごいですね、ぼくなんか前世はゴキブリだったかも知れないって、時々思う事があるけど、前世が植物でコケって云うのは、ちょっと驚きですね」
「そうかしら、やっぱりわたしって、おかしいよね?」
「いや、そんな事はないと思いますよ。人にはどんな過去世があるかなんて、誰にも分かりませんから……。連綿と生命の流転が繰り返される中で、自分の過去世を辿っていくと、何だったかなんて本当に分かりませんよね、自分の過去世を永遠に辿っていくと、とんでもないものだったりする事はありえますしね……」
「えー、そんな事考える人が本当にいるんだ。わたしは自分がコケだったって、人に話した事なんて今迄なかったから……。アッ、そうそう、前に付き合っていた彼にこんな話をしたら、おまえ頭おかしいんじゃないって、真剣に心配された事があったしね……」
「確かに、彼女から前世がコケだったなんて云われたら、ちょっと引くかも知れませんけどね」私は少し笑って云った。
A子は飲みかけの珈琲を少し飲んだ後、天井を見上げながら、
「だけど、太田君には、最初に会った時から、何と云うか、同じものを感じていたのね。これは今日初めて云うけど……」
「エッ、それって、どういう事ですか?」
「ウーン、言葉では中々いいあらわせないけど、どう云ったらいいのかな……、命で感じた事だから、上手く説明出来ないなぁ」
「そうですか、実はぼくもA子さんには、初めて会った時から、親近感という以上の何かを感じていたんですよ。ぼくもその事を具体的には、うまくいいあらわす事が出来ないんですが……」
A子は人と話す時、相手の目を決して見ない。何かその人の周りをキョロキョロ忙しく見ながら話す。今も、私と話しているのに、まるで私の背後の何かに向かって話している様だ。
「実は、これ云っていい事か分からないけど、わたし、太田君と前世で夫婦だったんじゃないかしらって思ったの、最初会った時から……」
「エーッ、だって、さっき前世はコケだったって云ってたじゃないですか?」
「そう、そうだけど、何故かそんな風に思ったのよ」
私は元彼が云った様に、A子は少しヤバイ女かも知れないと、この時感じて少し鳥肌が立った。
「だって、生命が永遠だとすると、過去世って、何代も遡れるはずでしょう? そうだとすると、どの段階かでコケかもしれないし、太田君と結婚していたかも知れないわよね」
「しかし、植物から人間に生まれ変われるってのは、少し考えにくいんじゃないですか?」
「そうかしらね」
A子が少し笑った様な目をしたので、私も少し笑った。
「えっと、誰だっけ? 『私がキノコだったころ』っていう本もあるでしょう、だから、ありなんじゃない」
A子が今度は確かに笑った。
「そうですかね?」と私も笑って応えた。
「確かに、何万年も前の事とか、又、宇宙の果ての事とか、考えていると、頭おかしくなりそうですよね」と云った後、私は少し後悔をした。
しかし、A子は気にする風でもなく、
「そうね、本当に未知の事って、考えていくと怖いわよね」珈琲を啜りながらそう云った。
私達は昼の休憩時間が過ぎた為、カウンター席に戻って行った。
私が二年間臨時職員として働いていた間、A子とプライベートの話をしたのは、その時だけだった。
私が図書館を退職して数年が経った頃、A子の事を、図書館で同じ臨時職員だった女の子とジョイフルで珈琲を飲みながら聞いた。
「A子さんって、マスク絶対外した事なかったじゃない」
女の子が云う。
「そうだね、A子さんが云うには、花粉症が酷くて眠る時だってマスク外さないって云ってたもんね」
私がそう云うと、
「それね、どうも違うみたいよ」
私が驚いた顔で、
「エッ、どう云う事?」と聞くと、女の子が小さな声で、
「実はA子さん、口裂け女らしいのよ」と云った。
「エーーーッ、嘘だろう!」と私が大きな声を出したので、店内にいた他の客が、同時にこちらを見た。
「それって、確かな情報なのかい?」
私は動揺した気持ちを静め様と、珈琲を飲んだ。
「それがね、間違いない話らしいわ」
女の子は神妙な顔をしながら珈琲を飲む。
「本当かな? ただ口がバカでかいだけなのが、人から見たら口が裂けている様に見えたとか、そんな類の話じゃないのかい?」
「いえ、これは確かな証拠がある話で、どうもね間違いないらしいのよ」
女の子が確信をもって云う。
「そう云えば、付き合っていた彼氏がいたらしいけど、元彼って誰なんだろう?」
「それがね、聞いて驚かないでよ……、私のお兄ちゃんなのよ」
「エー――ッ、本当かい!」
又、私が大声を出した為、店内の客が一斉に私達の方を振り向いた。
「私のお兄ちゃん、それ以来女性恐怖症になって、女の人と付き合いが出来なくなったのよ」
女の子が兄に同情する様塞いだ顔で云う。
「しかし、現実にそんな話があるなんて、信じられないなぁ?」
「だってお兄ちゃん、A子さんに恐い事食べられそうになったらしいからね」
「それって、どういう事?」
「あのね、ちょっと云いにくいけど、お兄ちゃんもA子さんも異常に性欲が強くて、A子さん何度もいっちゃったらしいの、その時、A子さん無防備になっていたから、マスクが少し取れかけていて、それで口裂け女だと分かったらしいのね」
「……」
「で、ねぇ……、一度子どもが出来たのを自宅で産み落として、その挙句に、嬰児をA子さん食べてしまったらしいのよ、……で、お兄ちゃん恐くなって逃げようとしたら、オマエも食ってやるって追いかけられて、必死になって逃げて来たらしくて……」
私は暫く口がきけずに、只珈琲を飲み続けたが、カップを持つ手の震えが止まらない。

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