木に棲む男(中)

文字数 1,463文字

 その内、私の親友や職場の上司や小学校時代の担任等がやって来て、木から降りるように次々に私に呼びかける。
 私はもう何日こうして木の上で過ごしているのだろうか? 今では木の枝で寝る事は平気になっている。熟睡するとその隙に下の奴らが木に登って私を引き摺り下ろしかねないので用心して寝た。
 妻の顔には皺が随分目立ってきた。息子も今ではすっかり大人になっている。
「お父さん、もう私は疑っていないから、そこから降りて来て頂戴」妻が泣きながら声を震わせ言う。
「父さん、オレはもう父さんの事は何とも思ってやしませんし、母さんだってもう後何年も生きられるか解りませんので、どうぞ、もう木から降りて来て下さい」と息子がこれ以上ない優しい声でそう言った。
 豚共の多くは死んでしまったが、雌豚が産んだ子豚が何時の間にか大きくなり、親豚が死ぬ頃には子豚が大きくなり、又交尾して子を産む。そんな事を繰り返し、今何代目の豚がここにいるのやらも解らない。
 私の体は木の上の生活に馴染む様に変わっていき、猿みたいに手足がすっかり細くなっているものの、指は以前よりも長くなり、しっかり枝を掴まえる為指先はとても力強くなっている。そのおかげで木から滑り落ちる事は無いのである。
 髪はすっかり白くなり、しかも伸び放題である事から顔は髪や髭で覆われ、目だけが異様に光っている。私を初めて見る人は、仙人の様な姿に驚くのである。
 私はテレビ等で、木の上で暮らす仙人と言う風に度々特集され、今では全国から一目私の姿を見ようとやって来る様になった。連休の時には、木の周辺に出店が並ぶ様になり、私はすっかり見世物になってしまった。
「お前はどうして、そう強情を張るんだ」そんな頃、父が呆れた様にそう言った。
「強情っぱりなところは父親ゆずりじゃないか」とジジイが皮肉たっぷりに言う。
「どうでもいいけど、ここで何時までもそうやっているとマスコミの格好の餌食だぞ」世間体ばかり気にする小心者の父が言う。
「まあ、こんな事でもしなきゃ、マスコミに取り上げられる事なんて、ケイイチには死んでもないだろうからな、こいつにゃあ、殺人をする勇気だってありゃしないだろうから」
 ジジイが言う嫌味にむかむかして、どうしようもなくなった。
「おっと、雨になったみたいだなぁ」父が言う。
「空には星が燦々と輝いているのに、雨なんか降るわけないじゃないか」とジジイが空を見上げると、木の上からケイイチの小便が落ちて来た。
「コノヤロー」ジジイは小便がかかった顔をハンケチで拭きながら、ケイイチを睨みつけた。
「ざまあみろ」ケイイチが木の上から初めて言葉を発した。
 その時、木の周りを囲んでいた多くの野次馬が愈々ケイイチの口から事の真相が語られるかも知れないとざわつき始めた。
 暫くするとマスコミがやって来て、ケイイチの言葉が発せられるのを固唾を呑んで待っている。二時間が経ち木の周辺を囲む野次馬からも、あきらめの溜息が聞かれ始めた頃、
「あーぁ、もうオレこういう状況にも飽きたから、木から降りようかな……」ケイイチが欠伸をしながら言った。私も飽きている。
「しかし、こんなに騒がしかったら、下に降りたら降りたで面倒くさいから、やっぱりこのまま木に登ってようかな……」ケイイチがそう呟くと、どこかのテレビの女子アナが、
「じゃあ、誰もいなくなったら木から降りるんですか?」と言った。
「んーん、さて、どうしようかな?」ケイイチは考えている。その実、何も頭の中には浮かんで来ないので、
「もうちょっと、考えさせてくれ」と言った。
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