た のみ

文字数 2,512文字

 ワタシが通勤途中の交差点で信号待ちをしている時、背後から男が声をかけてき た。
 ワタシは男から、
「今から、アナタにどうしてもたのみたいことがあるのですが、ちょっとかまいませんか?」
 と云われ た。
 ワタシと男は、近くのファミレスに入っ た。
 男は、40代後半で、痩せ気味の、眼鏡をかけた、会社ではきっと目立たない中間管理職だろうと思わせる、神経質な雰囲気があっ た。
 男はコーヒーを飲みながら、
「突然、呼び止めてすみませんでした。ワタシは前からアナタに一度お話しして、この事をたのみたいと思っていたのです」
 と云っ た。
 ワタシは、職場に少し遅れる旨の連絡を入れ た。
 普段であれば見知らぬ男から声をかけられて、そのままついて行くことなどしないのだが、男の様子が酷く切羽詰まった感じで断りにくく、たのみというやらを聞くはめになっ た。
「アナタはMさんで間違いないですよね? ワタシの妻の元カレですよね?」
 と男は云っ た。
「失礼ですが、オタクはどちらさんですか?」
 とワタシが云っ た。
「あっ、失礼しました。ワタシは自分のことを話すのをうっかり忘れていました」
 と男が慌ててそう云っ た。
「ワタシはKと申します。ここの隣のN市に住んでおります。Mさんの事は妻から聞いてよく知っております。Mさんは有名大学を出た秀才で、超イケメンだと聞いていたので、一度お顔を拝見したいと思い、Mさんの会社に客の振りして忍び込んだ事もあります。Mさんを見て妻の言う通りイケメンだと思いましたし、遠くから見た雰囲気でも人柄の良さを感じました。何故妻はあんな素敵な人と別れたんだろうと正直思いましたよ……。妻がMさんと別れてから3年後に、共通の知人の紹介により知り合い、その後2年して結婚しました」
 と男は云っ た。
 ワタシは元カノが結婚していたの知っていたが、相手の男の事は知らなかっ た。
 風のうわさでは幸せそうに暮らしているとの事だっ た。
 しかし、目の前にいる男が元カノの好みのタイプには、どうしても思えなかっ た。
「で、たのみとは一体何ですか?」
 ワタシは時間が気になり、男に要件を早く話す様に促し た。
「実はですね、ワタシの妻が膵臓癌になりまして、ステージ4でして、もう余命半年もないと医師から云われています。で、妻はどうしても、アナタに会って話したい事があるらしいのです。何やら妻には、その事が心残りで、このまま死んでしまうと、きっと後悔すると申します。……だから不躾なお願いなのですが、妻ともう一度だけ、会ってあげて欲しいのです」
 と男は思い詰めた顔でそう云っ た。
 ワタシは、元カノがそんな状況にある事をはじめて知っ た。
 ワタシと元カノとは3年付き合ったのだが、とても良い関係で、このままいけば結婚するだろうと、ワタシも元カノも思ってい た。
 しかし、ワタシに魔が差してしまっ た。
 ワタシは職場の女の子の誘惑に負けて、一度関係を持ってしまっ た。
 その女の子は「コワシヤ」だっ た。
 妻子ある男性や、恋人のある男を奪い、ものにしては、その後男を捨てるという、社内では有名な悪女だっ た。
 その事をワタシは噂に聞き知っていながら、女の子の誘惑に負けてしまっ た。
 何よりも女の子のFカップはあると思われる豊満な胸に、魅力を感じてい た。
 ワタシはその女の子との関係は、一回きりで終わらせるつもりだっ た。
 ワタシが、女の子に冷たい態度を取ると、女の子が嫌がらせをするようになっ た。
 ワタシの元カノにも電話をして、女の子とワタシの関係をばらしてしまっ た。
 ワタシは元カノに謝ったが、純粋で潔癖症の彼女はワタシの過ちを許さなかっ た。
 で、ワタシと元カノは別れてしまっ た。
 その後、ワタシはずっと元カノを思い続け た。
 しかし元カノと別れてから5年後に、知人の紹介で今の妻と結婚し子供も2人出来 た。
 ワタシは元カノと別れる際、少し暴言を吐いた事を、ずっと悔やんでいたから、この機会に元カノに会って謝りたいとも思っ た。
 ワタシが了解した事に安堵し、
「では、来週の日曜、このファミレスで10時という事で、かまいませんか?」
 と男が云っ た。
 その日がやって来 た。
 約束した時間に、ファミレスにやって来ると、既に元カノは来てい た。
 一番奥の席に座っている元カノを見た時、変わり果てた姿に愕然とし た。
 抗がん剤治療の為、髪はすっかり抜け落ち、ニット帽を被り、マスクをした顔は眼だけしか見えないが、少しぽっちゃりしていた体はガリガリに痩せ、痛々しかっ た。
「ごめんなさい、無理な相談をして……」
 元カノがか細い声で云っ た。
「いや、そんな事はないけど……。この前ご主人に会って聞いたけど、大変なんだってね」
 とワタシは云っ た。
 その後少しの間、お互いの来し方を話した後、
「実は、貴方に会って言いたい事というのは……」
 と元カノが逡巡する様に云っ た。
「あのね、私、貴方と付き合っていた時、卒業した大学をO女子大って云ったでしょう。あれは、実は嘘だったの。貴方がW大学の出身だと云ったから、高卒とは云えなくって……。それが私の人生の中ではじめてついた嘘だったの。私、嘘をついたまま死にたくないと思い、我儘だとはわかっていたけど、どうしても自分の口からその事を云いたかったのね。貴方にとって貴重な休日を、こんな事で台無しにさせてごめんなさい」
 と元カノが云っ た。
 ワタシは(何だそんな事か)と思ったが、何やらホッとし た。
 ワタシは元カノから、恨みつらみを云われて、修羅場になる事も覚悟していたので、拍子抜けし た。
「いや、いや、全然。悪い事ないよ。それより、君の心の中のわだかまりがなくなって良かったよ。しかし、君も諦める事なく頑張ってくれよ。今の医学は進歩しているから、大丈夫だよ。絶対、君、治るから」
 とワタシは励まし た。
 ワタシ達はその後、お互いの家族の事などを話して、別れ た。
 ワタシは、W大学卒業と云ったのは嘘で、本当は専門学校しか出ていない事を、どうして元カノに云えなかったのかと、帰る道々考えてい た。
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