満月

文字数 1,487文字

 私は仕事を終え、帰宅するために最寄りのバス停に向かった。
 バス停に着いた時、東の空に不気味なほど大きな満月が出ていた。
 貧しいわが家の床の間に飾られてある大きな掛け軸のように、そこだけ異彩を放ち、全体のバランスを欠いている。
 私は長年引きこもっていたため、こんな満月を見たのは久しぶりだと思った。と云うか、生まれてはじめて見る満月のような気もする。
 私は中学から不登校になり、高校にもいかず、十年以上引きこもりを続けていた。
 しかし、両親が一昨年交通事故で死に、しばらくはその保険金で暮らしていたが、その金をパチンコですってしまい(両親の死をきっかけに引きこもりから抜け出していた)、親戚の経営している小さな会社に勤めはじめたのである。私には兄弟がいない。だから私は、いきなり一人ぼっちになったのである。
 バス停で満月を見ながら煙草を吸っていると、師走の寒さが骨身に染みる。年中同じスーツ姿で、コートを持っていない私には、これからは辛い季節になる。
 バスに乗り、後方の座席に座っていると、通路を挟んだ反対側の座席に座っている女が一人ぶつぶつ云っているのが聞こえる。私と同じくらいの年恰好の女は、誰かと話しているように独り言を云っている。女は窓側に座っており、暗くなった外の景色に目をやりながら、窓ガラスに映る自分に向かって話しているようにも見える。
 高校前のバス停で高校生の一団が乗ってきた。高校生たちはめいめい空いた席に座ったが、座りきれない生徒数名が通路に立っている。
 つり革につかまって雑談している男子生徒三名が、やがて独り言を云う女の存在に気付き、何やらヒソヒソ女の様子を窺いながら話している。その内、一人の男子生徒が、女に見えないように、自分のへその前で拳を二度ぐるぐる回したあと拳を広げ、他の生徒に目配せして笑った。
 女の席の、隣の通路側の座席には誰も座ろうとしない。
 私は不自然なほど大きい満月を見ながら、女がもうどうしようもない遠くの世界に行ってしまっているらしいことを考え、暗澹たる気持ちになり目を瞑った。
 私は自分が降りるバス停が近づいたため、ボタンを押して立ち上がると、女も同時に立ち上がった。
 女は私を見て、
「Kくんじゃない?」
 と大きな声で言う。
 私は車内の皆の視線が私と女に集中している中、女が私に声を掛けてきたことの驚きと羞恥に顔を赤らめ、無視していた。
「Kくんでしょう? ワタシ、ワタシよ、どうきゅうせいのミヨよ! いやだぁ、ミヨのことおぼえてないの? ほら、しょうがっこうのときいっしょによくあそんだじゃない!」
 私は小学校低学年の頃、家の近所に住んでいた小太りの可愛い顔したミヨのことを思い出した。ミヨは小学校三年の時、都会に引っ越した。
 私はそのことを今思い出したが、この状況で皆の注目を集める中、ミヨと話すことは避けたいと無視し、降車口に歩いて行った。
 ミヨは私の後を追いかけて話しかけてくる。私が反応しないことなど全く関係ない様子で、次から次に話しかけてくる。
「Kくんワタシよ! ミヨよ! まだおもいださないの? ワタシとむかし、よくオイシャサンごっこしたジャン、Kくんワタシのあそこによくチョウシンキあてていたジャン、ワタシとケッコンするヤクソクだってしたジャン……」
 ミヨはバスが止まるまで、私の背中に向かってしゃべり続けた。乗客の笑いをこらえる顔が、私の背中に張り付いて、硬くなっていた。
 バスから降りると、私を呼ぶミヨの声を無視し、家まで一目散に走った。
 東の空には、不気味な黄色い満月が、相変わらず不自然に浮かんでいる。




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