神隠し

文字数 1,874文字

 私は川沿いの堤の小道を、歩いている。
 ススキが春の柔らかい風に、なびいている。
 私は先ほどから、背後に何かの気配を感じていた。
 何度か振り返るも、後方に何も見えない。
 夜なので、あまり遠くまでは見えない。
 この道を、夜分私のように歩いている者は、ほとんどいない。
 何故人も歩かない寂しい道を、夜分歩くのかというと、この道の途中にお稲荷さんの小さな祠があり、私は毎晩そこでお参りしているのである。
 私は祠まで来ると、そこでいつも、
「私の許嫁の彼女が、どうか帰ってきますように」
 とお願いした。
 一カ月後に私と結婚するというある日、許嫁の彼女が突然姿を消したのである。
 この地方には、昔から神隠し伝説がある。
 私の知り得る限りでも、三名が行方不明のままであった。
 それも皆、嫁入り前の娘ばかりである。
 私は祖母から、その祠が神隠しに効く(どういう効果なのかは知らないが)と聞いていたので、彼女が行方不明になったとされる夜の九時前後に、毎晩必ずお参りするのである。
 この地方では、神隠しにあった人が無事に帰って来られるのは、三年までという言い伝えがある。三年を過ぎて帰って来た人は、皆無である。
 許嫁の彼女は、行方不明になってから後一カ月で、三年が経とうとしていた。
 私は毎晩、彼女の好きだった稲荷寿司を、お供えした。
 稲荷寿司が無くなっている時など、彼女が山から降りてきて、食べたのではないかと思ったりした。
 私は後方の気配に神経を注ぎながら、音をたてないように歩いていた。
 時々後方で「ササッ」「ササッ」という小さな音が聞こえる。
 それはススキが、何かに触れている音のように聞こえた。
 私が歩を止めると、後方の気配も立ち止まる。
 私は再度振り返るも、そこにはただ暗闇があるばかりだった。
 私は幽霊や妖怪等の類を信じていないし、恐ろしいとも思わない。
「オレをつけているのは、誰だ!」
 と大声で怒鳴った。
 雷のような声に驚いた後方の気配が、「ヒエー」と小さな叫び声を上げた。
「ハハーン、犯人はお前か?」
 と、ススキの中の人影に向かって言った。
 ススキの中から出てきたのは、以外にも許嫁の彼女だった。
「オーッ、ケイコちゃんじゃないか、一体今までどこに行っていたんだ?」
 私は驚きと興奮のあまり、彼女を非難するように言った。
 ケイコと呼ばれた女は、
「ごめんなさい」
 と言うだけで、他には何も話さない。
「とにかく皆が心配しているから、家へ帰ろう」
 と私が言うと、
「ごめんなさい」
 と言い、首を横に振る。
「どうしたんだよ。おやじさんも、おふくろさんも、とてもキミのことを心配しているんだよ」
 と言っても、只々、
「ごめんなさい」
 と言って首を振り、家に帰ろうとはしない。
「じゃあ、無理に帰れとは言わないから、どうして家を出たのか、その理由を教えてほしい?」
 と私が言うと、やっぱり、
「ごめんなさい」
 としか言わない。
「じゃあ、今どこに住んでいるかぐらいは、教えてくれてもいいだろう?」
 と言うと、
「ごめんなさい」
 と言って、到頭ケイコは泣き出してしまった。
 私は折角こうして会えたのに、ケイコが家に帰ろうとしないのには、それなりの理由があってのことで、これ以上問いただすのが悪いように思えた。
「わかった、無理に帰れとは言わないよ。ただし、これだけは約束してくれないか。毎晩オレはこうやって、この時間に、そこの祠まで行って、キミの帰りを願ってお参りしているんだ。だからせめて、ここで毎日、いや二日おきでも、それが難しかったら一週間、いや一カ月おきでもいいから、こうしてキミに会いたい。オレはそれでも、いいから」
 私が涙ながらに訴えると、ケイコは又、
「ごめんなさい」
 と言って、泣く。
「それにしても、キミは全然変わっていない。ますます綺麗になっているが、ひょっとして、誰かのお嫁さんになっているんじゃないだろうね?」
 と私が聞くと、
「ごめんなさい」
 とひときわ大きな声で、泣き崩れた。
「そうか、そういうことだったのか……」
 と私は肩を落とした。
 彼女のことを考える時、嫌な予感として、いつも最後に必ず頭をよぎることが、そのことだった。
「わかったから、もう泣かなくていい。今日限りで、キミのことは忘れることにする。キミが幸せに暮らしているのなら、オレはそれで十分満足だよ。だから、最後に教えてほしい、キミの相手は誰なんだ?」
 と私が聞くと、ケイコは静かな声で、
「やまおとこ」
 と言った。
 するとケイコは、暗い影絵のような山に向かって、風のようにヒューと消えてしまった。

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