第九十六話・棄てる決意

文字数 1,619文字

 兄に迷惑を掛けている自分が嫌い。

 みつるが心の内に秘めていた感情を知り、さとるは狼狽えた。
 これまで弟の前では辛い顔を見せないようにと努めてきた。母親が何もしなくても生活に不便がないようにしてきた。隠していた『見せたくないもの』の存在に気付かれていたことに驚きを隠せなかった。

 さとるも、みつるに対して負い目がある。
 それは、両親の記憶。
 父親と母親、そして自分。親子三人暮らしだった頃の幸せな記憶がさとるにはある。生まれた直後に両親が離婚したため、みつるは父親を知らない。離婚原因を作った母親は家に寄り付かなくなり、生活は荒れた。
 あたたかい家庭をみつるは知らない。
 だから、せめて母親だけは奪わないようにと努力してきた。あやこは外ヅラが良い。学校行事には必ず小綺麗な格好をして参加するし、他の保護者や教師の受けも良い。他人の目がある場所では母親らしい言動をする。例え周りに向けたパフォーマンスに過ぎなくても居ないよりはマシ、さとるはそう考えていた。

 そんな兄の思いとは裏腹に、弟は上っ面だけの母親などとっくに見限っていたのだ。

「お母さんの所になんか帰りたくない。にいちゃんにも迷惑掛けたくない。……僕ひとりで施設に行くから、にいちゃんは自由になってよ」
「みつる……」

 選んだのは、真栄島(まえじま)が示した選択肢には無かった道。母親の元に戻らず、兄とも離れ、一人で施設に行く。そうすれば、これ以上兄の重荷にならずに済むからだ。

 りくとと気があったのは、無意識のうちに互いの心の中に抱えている感情に気付いたからかもしれない。家族の幸せの邪魔になっているんじゃないか。自分さえいなければ。二人はそう思いながら生きてきた。

「毎日いっぱい働いて、家のこともして、ごはん作って。その上お母さんにお金取られて。僕を塾に入れるために仕事増やしたんでしょ。そんな生活続けてたら、にいちゃん倒れちゃうよ。それに今回のことだって僕をシェルターに入れるために危ないことしたんだよね? お願いだから、もう何もしないで。にいちゃんの好きに生きてよ」

 ぼろぼろと涙をこぼし、みつるは兄に気持ちを訴えた。優しい兄をこれ以上自分に縛り付けたくない。その一心だった。

「…………わかった」

 しばらく沈黙した後、さとるは静かにそう答えた。

「じゃあ、」
「母さんを()てる」
「は?」
「そんで、二人だけで生きていこう」

 兄の言葉に、みつるは間の抜けた声を上げた。
 あれだけ言ったのに理解してもらえなかったのだろうか。何も出来ない自分と一緒に居れば必ず迷惑を掛けてしまうというのに。

 ──母親を棄てる。

 そう決意したさとるの表情は晴れやかだった。
 頭の片隅にあった選択肢を、彼はずっと見ない振りをしてきた。みつるが要らないと言うのなら、もう躊躇(ためら)う必要はない。

「おまえがそこまで言うなら、母さんにはオレ達が死んだってことにして二度と会わない。名字を変えて引っ越したり、学校や地元の友達にも会えなくなるけど、いいよな?」
「え、でも、にいちゃん」

 戸惑うばかりのみつるの手を、さとるは再び力強く握った。テーブルを挟んで真正面から向き合い、ニッと笑ってみせる。

「おまえと離れるのだけは絶対に無しだ!」

 キッパリと言い切る兄に、みつるは唇を真一文字に結んで嗚咽を堪えた。

「オレが頑張ってこれたのは、おまえが居たからだ。おまえが居なかったら何の目的も楽しみもない。いくら自由な時間や金があったって意味がない。……分かったか?」

 一人では、母親との生活に耐えられなかった。自分を慕ってくれる弟が居るから何があっても耐えられた。みつるが兄を心の支えとしたように、さとるもまた弟の存在に救われてきた。

「僕が一緒でもいいの?」
「いいって言ってんだろ」
「っ……」

 とうとうみつるの涙腺が限界を迎え、拭っても追い付かないほどに泣き出してしまった。無理やり泣き止ませることはせず、さとるはただ震える弟の手を握り続けた。
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登場人物紹介

堂山ゆきえ(31歳)


保護政策推進計画『協力者』

保険代理店に勤務

昨年モラハラ夫と協議離婚

シングルマザー

娘のみゆき(2歳)と2人暮らし

安賀田まさし(48歳)


保護政策推進計画『協力者』

自動車部品メーカー勤務の会社員

妻ちえこ(50歳)と2人暮らし

難病の妻の看病のため勤務時間減少

そのため、社内での立場は弱い

多奈辺さぶろう(59歳)


保護政策推進計画『協力者』

工事現場の交通誘導員

孫のひなた(8歳)と2人暮らし

息子夫婦と妻を亡くしている

おっとりしていて争い事を嫌う

井和屋さとる(20歳)


保護政策推進計画『協力者』

昼間は工場、夜は居酒屋で働く

実家から出て1人暮らし

毎日弟の世話をしに実家に立ち寄る

母親から搾取されている

真栄島のぼる(59歳)


保護政策推進課『勧誘員』

穏やかな老紳士


三ノ瀬りん(31歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

常に明るくポジティブな性格

とある趣味を持っている

右江田しんじ(29歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

高身長の強面のため教師の夢を断念

三ノ瀬を先輩として慕っている

杜井やえか(39歳)


保護政策推進課『勧誘員』

夫と死別、子どもと2人暮らし

キャリアウーマン風

葵久地れい(27歳)


保護政策推進課『情報担当』

独身、実家暮らし

長い黒髪、メガネ

情報収集、情報操作が得意

アリ(年齢不詳)


保護政策推進課『技師』

日系二世

トレードマークは入れ墨

船の操縦、車の改造を担当

江之木まさつぐ(39才)


保護政策推進計画『協力者』

会社員

りくと(14才)と二人暮らし

妻とは死別

多奈辺ひなた(8才)


保護政策推進計画『保護対象者』

多奈辺の孫娘、小学生

両親を交通事故で亡くしている

祖父と二人暮らし

井和屋みつる(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

さとるの弟、中学生

母親と二人暮らし

育児放棄気味の母より兄が好き

江之木りくと(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

江之木の一人息子、中学生

母親はりくと出産時に死亡

みつるとは塾で友達になった

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