第八十八話・朝靄の別れ

文字数 1,805文字

 子ども達を船室で寝かせ、大人達は交替で休みながら夜を明かした。行きのような邪魔が入ることもなく、船は予定通り明け方近くに波間中(はまなか)港へと到着した。

「皆さん無事で良かったぁ〜!」

 船が岸壁に係留されるのを今か今かと港で待っていたのは葵久地(きくち)だ。大きな怪我もなく戻った六人の姿を見て涙ぐんでいた。船から降りた三ノ瀬(みのせ)に抱き着き、心から無事を喜んでいる。

江之木(えのき)さん、おかえりなさい」
「……どうも」

 杜井(どい)の控えめな出迎えの言葉に、江之木(えのき)は少しバツが悪そうに応えた。りくとが行方不明になったと報告された時、八つ当たりをして怒鳴り散らしたことを思い出したからだ。
 保護したという連絡を受けても、実際に自分の目で無事を確認するまでは安心出来なかったのだろう。ここ数日気が休まらなかったのか、杜井はやや疲れているようだった。

「りくと君も、おかえりなさい」
「は、はい」

 急に名指しで声を掛けられ、りくとは反射的に父親の陰に隠れた。杜井とは保護された当日にマイクロバスで顔を合わせたきりだ。ほとんど言葉を交わしたことがない。勝手にいなくなったことで怒られるのではと恐れていたが、ここでもりくとは肩透かしを食らった。

「お疲れ様、さとる君」
真栄島(まえじま)さん」
「みつる君もお疲れ様」

 出迎えには真栄島も来ていた。
 船から降りたさとるを労い、そして、彼の隣に立つ少年にも笑い掛ける。優しい祖父のような眼差しに、みつるは自然と笑顔になった。

「アリ君、今回もありがとう。助かりました」
「いいよいいよー、楽しかったし」

 そう言いながらも、謝礼入りと思しき分厚い封筒と物資をサラッと受け取っている。
 彼はこれからまた何処かへ行くのだろう。身体の怪我のこともある。借り物の船を返しにまた那加谷(なかや)埠頭に向かうのかもしれないし、ほとぼりが冷めるまで何処かに身を隠すのかもしれない。

「……アリ! またどっかで会えるか?」

 再び船を出す支度を始めたアリに向かい、さとるが声を掛けた。
 散々世話になっておいて、悪態ばかりついてまともに礼を言えていない。単なる言葉だけで済ませるわけにはいかないが、今のさとるは何も持っていない。落ち着いたら日を改めて礼をしたいと考えていた。

 デッキの上で作業していたアリが顔だけ振り返るが、朝日の逆光のせいで表情は見えない。

 講演会の会場で、さとるはナイフを抜かなかった。
 極限の状態にありながら怒りと衝動を抑え込んだ。
 無人島での任務中、何度も『あちら側』へ堕ちかけたが、さとるはギリギリのところで踏み止まった。
 それに、彼の隣には弟がいる。
 みつるは兄の手をぎゅっと握り、不安げな表情で見上げている。怪しい男(アリ)に対して警戒をしているのだ。これが普通の人間の感覚。彼らとは見ている世界が根本的に違う。

「坊主とはもう会いたくないなー」

 アリから明確に境界線を引かれ、さとるは少し寂しく感じた。だが、それが彼なりの好意であると今なら分かる。

「元気でな!」
「ん、じゃあねー」

 初めて会った時と変わらぬ軽い返事を残し、アリは再び朝靄(あさもや)煙る海原へと船を走らせた。






 帰りは二台の車に分かれ、シェルターに向かった。
 ステーションワゴンを運転するのは杜井。後部座席には江之木親子が乗っている。もう一台のバンは葵久地がハンドルを握り、助手席に真栄島、後部座席には井和屋兄弟と三ノ瀬が乗っている。

「君達が出ている間に色々あったんですよ」
「色々って?」
「敵対国に対する国連の制裁が始まりました。一方的に我が国の市街地を破壊して、多くの一般国民に被害が出たことが一番大きな理由だろうね。だから、これ以上攻め込まれることはもうありません」

 渡航禁止、輸出入禁止、そして国家を跨ぐ金融規制。これにより、敵対国の人間は国外に逃れることも資産を海外に移すことも出来なくなった。輸出入を制限されれば外貨を稼ぐことも出来ず、長引けば国力の低下は免れない。敵対国が非を認め、武装を完全に解除し、補償の交渉の席に着くまで各種の制裁は続くだろう。

日和見(ひよりみ)外交なんて言われてますが、日本には長年培った信用と信頼があるんですよね」

 下手をすれば再び戦場に連れて行かれるのではと心配していたさとるは、真栄島の言葉に安堵した。

「疲れたでしょう。少し休んでください。詳しいことはあちらに着いてから改めてお話させていただきますので」

 シェルターに着くまでの数時間、さとる達はずっと眠り続けた。
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登場人物紹介

堂山ゆきえ(31歳)


保護政策推進計画『協力者』

保険代理店に勤務

昨年モラハラ夫と協議離婚

シングルマザー

娘のみゆき(2歳)と2人暮らし

安賀田まさし(48歳)


保護政策推進計画『協力者』

自動車部品メーカー勤務の会社員

妻ちえこ(50歳)と2人暮らし

難病の妻の看病のため勤務時間減少

そのため、社内での立場は弱い

多奈辺さぶろう(59歳)


保護政策推進計画『協力者』

工事現場の交通誘導員

孫のひなた(8歳)と2人暮らし

息子夫婦と妻を亡くしている

おっとりしていて争い事を嫌う

井和屋さとる(20歳)


保護政策推進計画『協力者』

昼間は工場、夜は居酒屋で働く

実家から出て1人暮らし

毎日弟の世話をしに実家に立ち寄る

母親から搾取されている

真栄島のぼる(59歳)


保護政策推進課『勧誘員』

穏やかな老紳士


三ノ瀬りん(31歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

常に明るくポジティブな性格

とある趣味を持っている

右江田しんじ(29歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

高身長の強面のため教師の夢を断念

三ノ瀬を先輩として慕っている

杜井やえか(39歳)


保護政策推進課『勧誘員』

夫と死別、子どもと2人暮らし

キャリアウーマン風

葵久地れい(27歳)


保護政策推進課『情報担当』

独身、実家暮らし

長い黒髪、メガネ

情報収集、情報操作が得意

アリ(年齢不詳)


保護政策推進課『技師』

日系二世

トレードマークは入れ墨

船の操縦、車の改造を担当

江之木まさつぐ(39才)


保護政策推進計画『協力者』

会社員

りくと(14才)と二人暮らし

妻とは死別

多奈辺ひなた(8才)


保護政策推進計画『保護対象者』

多奈辺の孫娘、小学生

両親を交通事故で亡くしている

祖父と二人暮らし

井和屋みつる(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

さとるの弟、中学生

母親と二人暮らし

育児放棄気味の母より兄が好き

江之木りくと(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

江之木の一人息子、中学生

母親はりくと出産時に死亡

みつるとは塾で友達になった

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