第七話・四人目、井和屋さとる 前編
文字数 2,184文字
夕方の団地に響くチャイムの音。切れかけて点滅する電灯が狭い通路をぼんやりと照らしている。
『ピンポーン』
反応はない。
背広姿の三人は、顔を見合わせて首を傾げた。事前調査によれば、この時間帯には家主は帰宅しているはずだ。諦めて帰ろうとした時、後ろの階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
「あれ、もしかしてウチに用?」
姿を現したのは二十歳くらいの青年だった。ヨレたパーカーに色あせたジーンズ。髪は短く刈られ、活発そうな印象を受ける。手にはスーパーのビニール袋を持っている。
「はい、
年配の男がそう言うと、パーカーの青年が鼻で笑った。手に持ったキーホルダーをくるくると回しながら近付き、三人の間をするりと抜けてドアの前に立つ。
「あー、出直しても無駄無駄」
「そうなんですか。これくらいの時間なら、お仕事も終わって帰ってくる頃かと思ったのですが」
「今頃どっかで飲んでるか、オトコのとこだよ」
三人はまた顔を見合わせた。調査書と違う。想定外の事態だ。
「もしかして役所の人? やべ、なんか支払い忘れてたかな。それならオレが聞くけど」
「え、君が?」
「そう。──で、話ってナニ?」
混乱したまま三人は部屋の中へと通された。青年はこの部屋の鍵を持っていた。調査書によれば、井和屋あやこの息子は二人。上の息子は家を出ている。別で暮らしているとはいっても、この団地は実家だ。出入りするのはおかしい話ではない。
「ええと、君はご長男の井和屋さとる君だね?」
「うん、そう。あ、オレはここに住んでるわけじゃないよ。近くのアパートで一人暮らししてる」
これは調査書通りだ。
この青年、さとるは二十歳。高校卒業と同時に家を出て近所で一人暮らしを始めた。一定以上稼ぐようになると母子家庭の手当が出なくなる。その為、就職を機に世帯分離をしたのだろう。
さとるはキッチンの水切りカゴからプラスチック製のコップが三つ取り出し、居間に座る三人の前に置いて冷たい麦茶を注いだ。
「茶菓子はないんだけど」
「いやいや、気持ちだけで。お茶いただきますね」
見た目や喋り方に反して随分と礼儀正しい。急な来客だが迷惑がる事もなく、もてなす気まであるようだ。
「えー、私達は県の保護政策推進課の者です。税金の取り立てなどではありませんのでご安心を」
「ほんと? ……良かった〜!今月マジ金なくて」
隣の寝室に部屋干ししてあった洗濯物を手早く取り込みながら、さとるはホッと安堵の息をついた。
もてなそうとしたのは、少しでも印象を良くして支払い期限の延長をねだるつもりだったのかと年配の職員は納得した。
「中学生の弟さんがいますよね。こんな時間だけどまだ帰ってないのかな」
「あー、みつる最近塾に通い始めたんだ。駅前の塾で夜八時まで勉強してる」
若い職員がちらりと壁掛け時計に目を向けた。今は夜七時を過ぎたばかり。弟、みつるの帰宅はまだ先だ。
さとるの話によれば、母親のあやこは奔放な生活をしているらしい。事前にパート先の勤務状況や自宅の電気や水道の使用時間などから在宅時間を割り出し、確実に在宅していると踏んで訪れたのだが。聞き込み調査は周囲の人間に怪しまれるから実行していない。それが裏目に出てしまった。
「オレが昼間の仕事終わってから買い物してウチ寄って、みつるの晩飯を作ってるんだ。その間に洗濯したりとか」
あやこではなく、さとるが来ていたから電気のメーターが動いていたというわけだ。
「お母さんの代わりに、さとる君がみつる君の面倒を見ているんだね」
「そうなるかな。みつる、育ち盛りだしさ、買ってきた弁当だけじゃ栄養偏るし」
スーパーの袋の中身は夕食の材料だ。
「さとる君は弟さん思いなんだね。……お母さんも、お子さんに関心があると思っていたんけど」
「あー、やたらPTAの役員とかやりたがるし、学校行事にも全部顔出すからな。外ヅラだけはいいんだよ。……で? 税金の督促じゃないなら、オジサン達は何しに来たの?」
三人は再び顔を見合わせた。
さとるの話は嘘ではなさそうだ。それはつまり、あやこに例の話をするべきではないということだ。本来ならば、みつるを保護する代わりに協力を要請するつもりだった。だが、日頃から家事育児をしておらず、世帯分離をした上の息子に任せきり。命を賭して我が子を助けるために働くとは思えない。
「
「帰りましょう」
若い男女がそう訴える。真栄島と呼ばれた年配の男も、この家庭は対象外であると思い始めていた。前提条件が覆ってしまった以上、話を進めるわけにはいかない。
「なんだよ。用があるんだろ?」
息子のさとると話が出来たのは運が良かった。おかげで上辺だけの調査では分からない部分が見えた。ここから先は子供にするような話ではない。
だが何もしなければ、
「……さとる君。みつる君のことが好きかい?」
「は? そりゃ勿論」
真栄島が尋ねると、さとるは迷いなくそう答えた。日々の献身は全て歳の離れた弟のため。この兄弟愛は間違いなく条件に合致している。
「さとる君。これは、あやこさんではなく君にする大事な話だ。聞いてくれるかい?」
「さっさと話せよ。最初からそう言ってんじゃん」