第三話・二人目、安賀田まさし 前編
文字数 1,862文字
会議室。昼休憩は間もなく終わる時間だ。食堂に向かう途中で上司から呼び止められ、人目につかないこの場所に連れてこられた。そこから既に三十分以上愚痴愚痴と小言を言われ続けている。
「
「……部長。最初に説明しましたが、妻の病気は完治するものではないので」
「そうは言ってもさぁ、じゃあ定年退職するまでずっと定時で帰るわけ? 休日出勤も泊まりの出張も出来ないって言うしさぁ。まったく……最近はアジア向け商品が全く動かなくて社全体の業績が落ちてるってのに。
安賀田と呼ばれた四十代後半の男は、貫禄ある巨体の前でしきりに頭を下げた。直属の上司である部長は困り顔でチクチクと責め立ててくる。同じ内容の小言がもう何度ループしているか分からない。
こうなると「すみません」と繰り返すしかない。部長の気が済むまで頭を下げ続け、結局この日は昼食を食べ損ねた。
繁忙期に残業が出来ないということは、例え事情があるにせよ良い顔はされない。最初の頃は笑顔で送り出してくれていた部長でさえ、今では顔を見れば必ず文句をつけてくる。どれだけ業務で貢献しようとも、古い体質の会社では勤務時間の長さがものを言うのだ。
この日も同僚達からの冷たい視線に耐えながら定時で退社した。この瞬間だけはいつまで経っても慣れない。逆の立場なら自分も冷たい視線を送っていただろうと思うと溜め息が自然と漏れた。
車に乗り、帰路にあるスーパーで食材の買い出しをしてから自宅に向かう。夕方の道路は混雑している。定時上がりをするようになってから、抜け道をいくつか開拓した。せっかく定時で帰るのに、渋滞に捕まっては意味がないからだ。
自宅は閑静な住宅街の一角にある。陽が落ちかけて薄暗くなった駐車場に車を止め、買い物袋を持って玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
返事はない。
そのまま靴を脱いで上がり、買ってきた食材を冷蔵庫に詰める。同時に、これから使う食材を出しておく。片付け終え、まず米を研ぐ。炊飯器にセットしてボタンを押し、炊き上がるまでにおかずを用意する。今日は魚だ。
『ピンポーン』
棚からフライパンを取り出したところでチャイムが鳴った。回覧板だろうか。そう思い、靴を履き直して玄関のドアを開けた。
「どうも。安賀田まさしさん、ですね」
「はあ、そうですけども」
ドアの前に立っていたのは、年配の男と若い男女。三人ともきっちりと背広を着ている。手には黒い手提げ鞄があり、いくつかの茶封筒が覗いている。
「私どもは県の保護政策推進課の者です。大事なお話がありますので、お宅に上がらせていただいても?」
見せられた身分証はしっかりした作りだ。県の職員が訪ねてきた理由は分からないが、年配の職員の物腰と口調は柔らかく、悪い印象はない。安賀田はそのまま「どうぞ」と中に招き入れた。
押入れから人数分の座布団を出し、居間に並べて座るように促すと、職員たちはにこりと笑って腰を下ろした。
「急にお訪ねして申し訳ない。今、大丈夫ですか」
「まあ、少しでしたら」
「ありがとうございます。では」
そう言って、年配の職員は若い男性職員から茶封筒を受け取り、その中身を座敷机の上に並べていった。勤め先の情報や妻の診断書、預金の残高証明。すべて個人情報だ。
「失礼ながら、安賀田さんのことを調べさせていただきました。難病の奥様がいらっしゃいますよね」
「……はい」
「難病なのに医療費の助成対象外で、自己負担がかなり大きいようですね。それに、発症してから奥様は以前のように動けなくなっている、と」
難病指定に入るという知らせならば、かかりつけの病院から連絡がくるだろう。わざわざ自宅に、それも帰宅時間を見計らったように県の職員が訪れた理由はまだ明かされていない。
「あの、それで、お話というのは」
「失礼しました。本題はここからです。……安賀田まさしさん、四十八歳。奥様のちえこさん、五十歳。約四年前に難病を発症し、一昨年以降は安賀田さんが家事を全て担っているとか。……頑張っておられますね」
「は、はあ……」
自分より年上の職員に労われ、安賀田は少し嬉しくなった。自分の頑張りが認められた気がしたのだ。
しかし、わずかに上向きになった気持ちは、次の瞬間に地に落とされた。
「安賀田さんには、
戦争で先陣を切って戦っていただきたい
と考えております」