第三十二話・しがらみからの解放
文字数 1,909文字
先ほど
妙な居心地の悪さを感じたさとるは、多奈辺から目をそらして窓の外を見た。
視線の先にはゆきえの軽自動車があった。
これから移動せねばならないというのに、彼女はハンドル部分に凭れ掛かって顔を伏せている。それに気付き、さとるはすぐに右江田の車から降りた。
「あのっ
運転席側に回り込み、軽く窓を叩いて声を掛ける。ゆきえはすぐに顔を上げ、窓を開けて笑顔を取り繕った。
「ごめんなさい、ちょっと疲れたみたいで」
「足の怪我のせいですよね。運転すんのキツいでしょ。代わりますよ、俺」
「え、でも」
返事を待たずに運転席と後ろのドアを開ける。そして、ゆきえの身体を抱きかかえ、後部座席へと運んで座らせた。その時にちらりと左足を確認する。傷口を覆う手拭いに滲んだ血を見て、さとるは下唇を噛んだ。
「シートベルト、しといてください」
「え、ええ」
すぐに運転席に座り、座席の位置やミラーの角度を調整し、さりげなく後部座席のゆきえの様子を窺う。顔色が悪い。やはり運転を代わって正解だったとさとるは思った。
「それじゃ、俺ら先に
「分かった。みんなを頼むよ」
「はいッ!」
右江田のオフロード車を先頭に校庭から山道へ向かい、続けて
一人校庭に残った安賀田は、まずボロボロのセダンに乗り込んだ。パンクしていてスピードが出ない。ガタガタと揺れる車体に耐えながら、何とか軍用トラックの側に止めた。
軽自動車はまだ燃えている。その反対側、トラックにぴったり横付けするようにセダンを止めて給油口のキャップを外し、全てのドアを開け放った。
その際に、地対艦ミサイルが積まれたトラックを間近で見上げる。軍用車だけあって装甲が厚い。
だが、ミサイルを積んでいるトラックを壊すことは出来る。
自分のSUV車に乗り込み、アクセルペダルに右足を置く。
「……うまくいくといいが」
何気なく呟いた自分の声が少し上擦っていたことに気付いて、安賀田は苦笑いを浮かべた。じわりと滲む手のひらの汗をハンカチで拭い、再びハンドルを握り直す。
もう帰れなくていい。
安賀田はそう考えていた。
大きな仕事を任せられ、喜びを感じた。仲間の命を預かり、陣頭指揮を執り、計画を実行した。まだ成果は出せていないが、久々のやりがいのある大仕事に気力が満ち溢れていた。
戦争一歩手前の情勢という話は本当だった。例え自分たちの働きで多少改善されたとしても、日本が他国と緊張状態にあるという事実は揺るがない。
それを知りながら元の生活に戻れるはずがない。
平穏な日常に戻れるとしても戻りたくなかった。
もし日常に戻れば、あの生活が待っている。
上司から疎まれ、同僚から蔑まれ、部下からも冷たい視線を向けられる。家に帰れば難病の妻ちえこがいる。彼女の病は自分の罪の証のように思えてならなかった。家事や病院への送迎は苦にならないが、苦しむちえこの姿を見ている時間が何より辛かった。
ちえこを安全なシェルターに預けた今、安賀田にはもう何の心残りもなかった。
あとは目の前にあるミサイルを破壊するだけ。
彼を縛るものはもう何もない。
「は、はは……」
思い切りアクセルを踏み込み、安賀田は車をトラックへと突っ込ませた。動く限り、何度も何度もぶつかっては退がるを繰り返す。バンパーが外れ、ボンネットがひん曲がってもエアバッグは作動しなかった。改造時にアリが外していたのだろう。
そのうち、先に燃えていた軽自動車が激しく爆発し、セダンに燃え移った。トラックの運転席からも煙が上がり始めた。
それを見て、安賀田の心の
「ははははは! 私は、……オレは自由だ!!」
とうとうSUV車の前面がトラックにぶつかった衝撃で潰れ、エンジンルームから火の手が上がった。炎は荷台の筒……ミサイルが格納されている部分を包み、激しく燃え盛った。