第一話・一人目、堂山ゆきえ 前編

文字数 2,099文字

 『ピンポーン』



 安っぽいチャイムの音が響く。

 それを聞いて、ベランダで洗濯物を取り込んでいた部屋の主は小さく溜め息をついた。手早くハンガーから服やタオルを回収してカゴに放り込み、外履きのスリッパを脱ぐ。

 平日の午後七時。とっくに日は落ちている。来客にしては遅い時間だ。

 モニター付きのインターホンなどない。玄関の扉越しに「どちら様ですか」と声を掛ける。そして音を立てないように靴を踏み、こっそりとドアスコープから向こう側を覗き見た。
 団地の通路の切れかけた電灯が照らしているのは、背広姿の男性二人と女性一人。手には鞄と大きな茶封筒を携えている。

「ああ、どうも。我々は県の保護政策推進課の者です。堂山(どうやま)ゆきえさん、ですね」
「はい、そう、ですけれども」

 県の職員と聞いて、ゆきえは首を傾げた。税金を滞納した訳でもないし、そもそも保護政策推進課というものに聞き覚えはない。だが名指しで訪ねてきた。人違いではなさそうだ。

 チェーンを掛けたまま扉を開けると、後ろに控えていた若くて体格の良い男性が隙間から身分証を差し込んで提示してきた。その身分証が本物か偽物かの判断は出来ないが、相手は複数人であり、女性も同行している。この訪問に際し、気が使われているのを感じた。

「突然押し掛けて申し訳ありません。差し支えなければ、中でお話させていただきたいのですが」
「……はあ」

 ゆきえは迷った。仕事から帰ってきたばかりで、これから夕食の支度をしなくてはならない。見知らぬ他人を家に入れることにも抵抗もある。かといって、このまま玄関先で話を進めて隣近所の住民に変に思われては困る。

 渋々ながらチェーンを外し、ゆきえは三人を招き入れた。
 靴だけで狭い土間はいっぱいになった。左側にトイレと浴室のドアがあり、正面には小さなキッチンと続きの居間。閉じたふすまの向こうにもう一つ部屋がある。

「お嬢さんがいるそうですが、どちらに?」
「……隣の部屋で寝かせてます。帰る途中で寝てしまって」
「そうでしたか。では、少し小さな声で」

 狭い居間に膝を突き合わせる四人。人数分の座布団などない。薄い絨毯の上に直に座っている。
 食卓代わりのローテーブルの上には子供の玩具。窓際にはさっき取り込んだばかりの洗濯物のカゴ。床には積まれた子供雑誌や通勤用の鞄、壁にはコートが掛けられている。散らかっているわけではないが、雑多な印象を受ける部屋だ。

 口を開いたのは年配の男性職員だ。温厚そうな初老の紳士で、三人の中で一番役職が上なのだろう。彼の落ち着いた態度と口調は、ゆきえの警戒心を徐々に解いていった。

「本日伺ったのは、堂山さんの今後についての話をする為です。お嬢さんの将来にも関わります」
「はあ」
「現在、日本が戦争直前の状況である、というのはご存知でしょうか」
「はあ、……えっ?」

 一瞬聞こえた不穏な言葉に、ゆきえは思わず顔を上げた。
 新聞は取っていないが、毎日テレビでニュースは見ている。数年前に近隣の国と険悪な雰囲気になったのは知っているが、その後は特に何も起きていないはずだ。

「混乱を避けるため、世間には情報を流しておりません。ですが確かに逼迫した状況にあります。間も無く日本は攻め込まれ、国土のほとんどが戦場となるでしょう」

 年配の職員が目配せすると、女性職員が茶封筒のひとつから紙束を取り出した。日本近海の地図と数枚の書類。地図の何箇所かに赤い印が付いている。本州の太平洋側にある小さな島々だ。

「この辺りに敵国の軍事施設が作られています」

 男性職員の言葉に、ゆきえは戸惑った。テレビにも流れていないような内容を、一般人である自分に伝える意図が全く分からないからだ。

「あの、待ってください。仮にそれが本当だったとして、何故私に言うんですか。警察でも自衛隊でもなんでもないんですよ?」
「分かっておりますとも。……堂山ゆきえさん、三十一歳。昨年ご主人と性格の不一致で協議離婚。慰謝料や養育費は貰っておらず、一人娘のみゆきちゃんを平日七時半から十八時まで保育園に預け、駅前の保険代理店で働いていらっしゃる」
「……」
「離婚の際に両家の親と絶縁。地元も遠方で頼れる親族や友人なし。これまで税金や公共料金の滞納なし。通勤用に軽自動車所持。日々の暮らしには困窮していないが、貯蓄ほぼなし」

 戸籍謄本。
 離婚調停書。
 税金の納入記録。
 雇用契約書。
 銀行の残高証明書。
 それらの写しがずらりと目の前に並べられた。

 全て事実だ。県の職員ならば戸籍や何やらは調べれば分かる。しかし、貯蓄の有無は銀行に問い合わせなければ分からない。普通ならば、本人または本人が委任した人物以外からの残高照会は認められないはずだ。

「……何が言いたいんですか」

 ゆきえは目の前の年配の職員を睨み付けた。
 年配の職員はまるで動じることなく、細い目を更に細め、口角を上げて微笑んでいる。貼り付けたような営業スマイルだ。後ろに控える若い男女の職員の方は慣れていないのか、やや緊張した顔付きで様子を窺っている。

「堂山さん。あなたには


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登場人物紹介

堂山ゆきえ(31歳)


保護政策推進計画『協力者』

保険代理店に勤務

昨年モラハラ夫と協議離婚

シングルマザー

娘のみゆき(2歳)と2人暮らし

安賀田まさし(48歳)


保護政策推進計画『協力者』

自動車部品メーカー勤務の会社員

妻ちえこ(50歳)と2人暮らし

難病の妻の看病のため勤務時間減少

そのため、社内での立場は弱い

多奈辺さぶろう(59歳)


保護政策推進計画『協力者』

工事現場の交通誘導員

孫のひなた(8歳)と2人暮らし

息子夫婦と妻を亡くしている

おっとりしていて争い事を嫌う

井和屋さとる(20歳)


保護政策推進計画『協力者』

昼間は工場、夜は居酒屋で働く

実家から出て1人暮らし

毎日弟の世話をしに実家に立ち寄る

母親から搾取されている

真栄島のぼる(59歳)


保護政策推進課『勧誘員』

穏やかな老紳士


三ノ瀬りん(31歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

常に明るくポジティブな性格

とある趣味を持っている

右江田しんじ(29歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

高身長の強面のため教師の夢を断念

三ノ瀬を先輩として慕っている

杜井やえか(39歳)


保護政策推進課『勧誘員』

夫と死別、子どもと2人暮らし

キャリアウーマン風

葵久地れい(27歳)


保護政策推進課『情報担当』

独身、実家暮らし

長い黒髪、メガネ

情報収集、情報操作が得意

アリ(年齢不詳)


保護政策推進課『技師』

日系二世

トレードマークは入れ墨

船の操縦、車の改造を担当

江之木まさつぐ(39才)


保護政策推進計画『協力者』

会社員

りくと(14才)と二人暮らし

妻とは死別

多奈辺ひなた(8才)


保護政策推進計画『保護対象者』

多奈辺の孫娘、小学生

両親を交通事故で亡くしている

祖父と二人暮らし

井和屋みつる(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

さとるの弟、中学生

母親と二人暮らし

育児放棄気味の母より兄が好き

江之木りくと(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

江之木の一人息子、中学生

母親はりくと出産時に死亡

みつるとは塾で友達になった

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