第九十五話・拒絶の理由

文字数 2,007文字

 元の生活に戻るか否か。
 選択を迫られ、さとるは息を飲んだ。

「元の生活に戻るのであればご自宅までお送りします。しかし、戻りたくないのであれば、君達兄弟を『死んだこと』にする必要があります」
「……」
「生きていると知られれば、さとる君はともかく、未成年であるみつる君は母親の元に帰さなくてはなりません。あやこさんには親権があります。あちらから要求されれば従わざるを得ません。もし縁を切りたいのであれば、この混乱した時期のうちに死亡したことにしてしまったほうが話が早いです」

 真栄島(まえじま)の言いたいことは分かる。
 書類上死ねば親から解放される。爆撃の被害に遭ったことにしてしまえば遺体が無くても怪しまれない。こんな手段を選べるのは今だけだということも。

「その場合、オレ達の戸籍はどうなるんすか」
「あやこさん側に死亡の記録だけを残して、実際には別に移すことになります。その際、名字は変更した方がいいかもしれませんね」
「……」

 無戸籍になるわけではない。みつるの将来に悪い影響が無いのであれば、さとるに異論はない。

「もう一つの選択肢として、みつる君だけをあやこさんの元に帰すという道もあります」

 その道を選んだ場合、みつるとは会えなくなる。
 もし自分というサポートが消えたらどうなるか。こんな事態になる前から何度も何度も想像してきた。その度に一人で逃げ出したくなる気持ちを無理やり抑え込んできた。

「……弟と話をしてきてもいいですか。オレが勝手に決めるわけにはいかないんで」
「もちろん。後悔のないように、よく話し合ってください」

 会議室から出て通路を歩く。
 シェルターからはどんどん人が減っている。江之木(えのき)親子も自宅に戻った。残っているのは、新たに外部に用意される施設に移る人達と職員、怪我や持病で入院している人達のみ。知った顔が減る度に、帰る場所が定まらない不安に襲われる。

 家が無くなったわけではない。
 家族が亡くなったわけでもない。
 何もかも失くした人も少なくない中で、自分の気持ちだけを優先して良いものか。自分だけが我慢すれば済むのではないか。こんな事態になったことで、もしかしたら母親は変わってくれたのではないか。そう期待する気持ちも僅かにあった。

 考えがまとまらないうちに与えられた部屋の前に辿り着き、深呼吸をしてからさとるは扉を開けた。

「にいちゃん、おかえり!」
「ただいま、みつる」

 井和屋(いわや)兄弟に与えられているのは家族用の部屋で、左右の壁際に二段ベッドが置かれ、中央にはテーブルがある。みつるは本を読んでいたが、兄の姿を見てすぐに栞を挟んで本を閉じた。

「顔色悪いよ。具合悪いの?」
「あー……いや、大丈夫」

 どう切り出したものか分からず、さとるはみつるの向かいの椅子に腰を下ろし、深い溜め息をついた。

「りくと君、帰っちゃったね」
「そうだな」
「遊びに来てって言ってくれたけど、僕、飛多知(ひたち)市行ったことない。にいちゃんは行ったことある?」
「あるよ、電車でだけど」
「そっかぁ」

 元気のない兄の気を少しでも紛らわせようと、みつるが話し掛ける。気を使われているのが分かり、さとるも笑顔を取り繕った。

 江之木親子の自宅は飛多知市にある。さとる達の住む馬喜多(まきた)市のすぐ隣の市だが、もし死んだことにして違う場所に移り住んだ場合、簡単には行けなくなる。母親に見つからないようにするためには出来るだけ離れた地域に住む方がいい。新たに用意される施設も地元からはやや遠いという。

「あのさ」
「うん?」

 ぐるぐる考えても答えは出ない。
 さとるはようやく腹を括って口を開いた。

「母さんは生きてる。家も無事だって」

 兄からの報告に、みつるは表情を硬くした。

「そう、なんだ……」

 母親が生きていたと聞いて、みつるは笑顔を見せなかった。さとるも真栄島から聞いた時に、素直に『良かった』と思えなかった。
 弟の反応を見ながら話を続ける。

「家に帰るか、施設行くか、どっか別んとこ行くか。どうするか決めないといけないんだ。……みつるはどうしたい?」
「どうしたい、って」
「また前みたいに母さんと暮らしたいか?」
「……ッ」

 みつるは青褪め、首を横に振った。
 こんな反応を示すのは予想外だった。今まではさとるが実家の分の家事も代わりに済ませ、金を渡していた。あやこは昼間はパート、夜は飲み歩く生活で、家には寝に帰るだけ。みつるに辛く当たるようなことはなかったはずだ。
 しかし、みつるは母親を拒絶した。

「絶対やだ。戻りたくない」
「なんで」
「お母さんなんか嫌い。会いたくない。お母さんがにいちゃんを苦しめてきたの、僕知ってるんだよ。だから、ずっと前から大嫌いだった」
「みつる……」

 泣きながら母親への憎悪を吐き出す弟の手を握り、宥めるように何度も肩を撫でる。困惑するさとるの顔を見て、みつるはまた涙を流した。

「でも、いちばん嫌いなのは、にいちゃんに迷惑かけてばっかの僕なんだ……」
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登場人物紹介

堂山ゆきえ(31歳)


保護政策推進計画『協力者』

保険代理店に勤務

昨年モラハラ夫と協議離婚

シングルマザー

娘のみゆき(2歳)と2人暮らし

安賀田まさし(48歳)


保護政策推進計画『協力者』

自動車部品メーカー勤務の会社員

妻ちえこ(50歳)と2人暮らし

難病の妻の看病のため勤務時間減少

そのため、社内での立場は弱い

多奈辺さぶろう(59歳)


保護政策推進計画『協力者』

工事現場の交通誘導員

孫のひなた(8歳)と2人暮らし

息子夫婦と妻を亡くしている

おっとりしていて争い事を嫌う

井和屋さとる(20歳)


保護政策推進計画『協力者』

昼間は工場、夜は居酒屋で働く

実家から出て1人暮らし

毎日弟の世話をしに実家に立ち寄る

母親から搾取されている

真栄島のぼる(59歳)


保護政策推進課『勧誘員』

穏やかな老紳士


三ノ瀬りん(31歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

常に明るくポジティブな性格

とある趣味を持っている

右江田しんじ(29歳)


保護政策推進課『勧誘員補佐』

独身、1人暮らし

高身長の強面のため教師の夢を断念

三ノ瀬を先輩として慕っている

杜井やえか(39歳)


保護政策推進課『勧誘員』

夫と死別、子どもと2人暮らし

キャリアウーマン風

葵久地れい(27歳)


保護政策推進課『情報担当』

独身、実家暮らし

長い黒髪、メガネ

情報収集、情報操作が得意

アリ(年齢不詳)


保護政策推進課『技師』

日系二世

トレードマークは入れ墨

船の操縦、車の改造を担当

江之木まさつぐ(39才)


保護政策推進計画『協力者』

会社員

りくと(14才)と二人暮らし

妻とは死別

多奈辺ひなた(8才)


保護政策推進計画『保護対象者』

多奈辺の孫娘、小学生

両親を交通事故で亡くしている

祖父と二人暮らし

井和屋みつる(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

さとるの弟、中学生

母親と二人暮らし

育児放棄気味の母より兄が好き

江之木りくと(14才)


保護政策推進計画『保護対象者』

江之木の一人息子、中学生

母親はりくと出産時に死亡

みつるとは塾で友達になった

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