第106話 白と赤 〈8〉

文字数 2,686文字

《古事記》は景行(けいこう)天皇の御代、皇子であるヤマトタケルの物語の中にそれはある。
 
 東征して蝦夷(えみし)たちを打ち破り、彼の地の荒ぶる神々を(ことごと)く平定したヤマトタケル。その後、恋に墜ちた尾張国の姫、ミズヤ姫との婚礼の宴で、白い衣装に身を包んだ美しい姫をよくよく見ると、なんと、その白い衣に点点と赤い血の染みがあった。
 
「純白の花嫁装束に赤い血。
 あまりにも鮮烈な描写ではないか!」
 
「それで、ヤマトタケルはどうしたのだ?」
 身を乗り出した中原成澄(なかはらなりずみ)に薄く笑って有雪(ありゆき)は応えた。
「誰かさんに似て剛毅だからな、ヤマトタケルは。そのまま婚礼を決行したさ」
 安堵の息を吐いた友の顔を見つつ付け加える。
「だが、その後のヤマトタケルは災難続きだ」
 
 このミズヤ姫の(しとね)に〈草薙(くさなぎ)の剣〉を置いたまま――置き忘れたとも言われているが――伊吹(いぶき)山の神との戦いに挑む。結果は火を見るよりも明らかだった。素手のヤマトタケルは完膚なきまでに打ち負かされた。毒気に侵され、敗走中に氷雨を浴び、病になって……
 辿り着いた三重(みえ)の村で亡くなった。
 有名な歌、

 《  (やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山(こも)れる 倭し(うるわし )

 は、都を遠く離れて死ぬことの無念を詠った絶唱である。
「息を引き取った場所の地名、三重(・・)は毒のせいで足が三重(さんじゅう)に折れ曲がったから付いた名だとか」

「そんな……」
 少年仏師も検非違使も、ともに息を飲んだ。
「ヤマトタケルといえば英雄だぞ。そのくらいは俺でも知っている。だが、最期にそんな悲惨な目にあっていたとは」
 ブルッと逞しい肩を震わせる検非遺使尉(けびいしのじょう)
 その後で改めて訊いた。
「それでは、おまえが見た、夢の中の赤は〈血〉で間違いないのだな?」
「多分な。白と赤。白い衣に散る赤い染み。それから思いつく情景はここだけじゃ」
「で? つまり? 結局のところ佳樹(よしき)が伝えたかったことは何なのだ? 神代の時代にあったこと、それに関係した凶事ってわけか?」
 有雪の端正な顔が歪む。
「だから、そこまではまだわからないのだ。どうも俺の博識が邪魔をして答えを絞り込めぬ」
 橋下(はしした)の陰陽師は真顔でこれを言っている。
「いずれにせよ、良からぬこと……禍々(まがまが)しいことが起こる、その警告であることに代わりはないみたいですね?」
 仏師の天衣丸(てんねまる)も神妙な顔で頷いた。
「なあ、ひょっとして」
 暗い声で検非違使が問い直す。
「狂乱丸に関わることじゃないだろうな?」
 烏帽子(えぼし)に手をやりながら、ゆっくりと、
あいつ(・・・)に良くないことが起きるとか……そういう話ではないのだろうな?」
「どうかな」
 有雪は否定も肯定もしなかった。
「夢の中の舞人が美しかったから、だから、狂乱丸に見えただけかも知れぬ。今の段階ではなんとも言えぬ」
「おまえの見た夢の中で、その場(・・・)にいたのは狂乱丸だけじゃないようだが?」
 背後に描かれた人影を成澄は指差した。
「ああ。そのとうり、他にまだ数名いた」
「皆、美しかったか?」
「そうだな。美しかったと思うよ」
 腕を組みながら、改めて有雪も天衣丸の描いた絵を覗き込んだ。
「俺は狂乱丸を見知っていたから、または、似ていると思ってこの一人に目を留めたが、他の舞人たちも皆、馨しい麗人だったな」
 ふと顔を上げる。
「なんだ? それがどうした? 気にかかることでもあるのか?」
「いや――」
 何か言い出そうとして、だが、口を噤む成澄だった。

 

 カラカラカラカラ
 
 回る糸車。
 その糸車の音より更に(ひそ)かな音がする。
 誰かが歌を歌っている。


 カラカラカラ
 
 回れよ回れ糸車
 長く丈夫な糸を紡げ
 強さは決して切れぬほど
 長さは我が身を覆うほど
 幾重にも幾重にも
 哀れなこの身に巻きついて
 生まれ変わらせておくれ
 いつか我が身に羽が生え 空の彼方へ帰れるように

 回れよ回れ糸車
 長くて丈夫な糸を紡げ……


「サン!」
 
 息は詰まるかと思った。
 糸車を繰る手を止めてサンは声のした方を振り返った。
 薄暗い小屋。唯一ある床の隅の小窓から覗き込んだその顔は――

「狂乱丸様!?」

「やっと見つけた! こんな所にいたのか? 〝(やしろ)〟と言うから境内を駆け巡ったぞ?」
 明るい声は続く。
「それにしても、いつもこの小屋で働いているのか? 暗すぎるよ。目に悪いだろう?」
「幼い時からの仕事なれば……慣れております。糸車を回すのに目は使いませんもの。糸は指で繰るんです」
「ふうん、そういうものか? ところで、湯浴みと寝る時以外、笠をつけているという言葉は嘘じゃなかったんだな?」
 笑い声が響いた。
「出で来いよ、サン」
「え?」
「今日は、寒いけれどよく晴れて気持ちが良い日和だぞ。一緒に散歩でもしよう!」
 美しい田楽師は誘った。
「出ておいで、サン!」
「こ、困ります。私、仕事があるし、それに、それに」
「じゃ、いいよ。おまえが出て来るまで、俺はここを動かないから。ずっとこうして、おまえの繰る糸車の音と……おまえの歌声を聴いていることにする」
 小声で付け加えた。
「俺はそれでもいいんだよ」
「そんな! それも困ります!」
 小屋の戸が軋んで、娘が姿を現した。刹那、ユラリと体が揺れる。
「あ?」
「おっと」
 手を差し伸ばす狂乱丸。
 (よろ)けた娘を難なくその胸に受けとめた。
「ほらな? 俺の言ったとおりだろう? こんな暗がりに籠っているから、いきなり出て光に射抜かれるのじゃ」
 サンの目が(くら)んだのは、外の陽差しのせいなのか。それとも、田楽師自身の放つ目映(まばゆ)い微笑のせいなのか?
「何処へ行きたい?」
 しっかりと抱きかかえながら狂乱丸は訊いた。
「おまえが望む処なら何処へでも連れて行ってやるぞ?」
 
 何処へも行きたくない。

 サンは心の中で呟いた。
 
 ただ、こうして……
 このまま貴方様の腕の中にいたい。
 これが夢なら、どうぞこのまま、時を止めて。
 萬機姫(よろずはたひめ)様!
 そして、我が神、
 大辟(おおさけ)大明神様……!



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