第62話 鄙の怪異 〈8〉

文字数 1,995文字

 闇…… 

 暗闇から突然、有雪は抜け出た。

 ―― おぎゃー おぎゃー

 爽やかな風が吹いて来た。
 その風に有雪は憶えがあった。
 川風……
 毛穴にすら染み付いている匂い。
 遡れば、母にさえ繋がる匂い。
 そうだ。生まれ落ちた朝も、俺はこの匂いを嗅いだ。この風(・・・)に吹かれて……

 ―― 生まれた!
 ―― 男の子じゃ! 玉のような美しい男子(おのこ)じゃぞ!

 ああ、優しい風が俺の頬を撫でる。
 その風よりも優しい、儚げな――これは母者の手か?

 ―― 見せて

 母の声。
 臍の緒を切られて、今、俺は母の胸に乗せられる。

 ―― 良かった、生きている……無事生まれた……
 ―― そうじゃ! この子は強い子じゃ! 未来のずっと先まで行くぞ!
 ―― どんなことがあっても生き延びる!

 ―― 名は、雪と。雪踏み分けて君を見んとは、の雪じゃ……

 取り上げた周囲の歩き巫女たちの笑い声が弾ける。

 ―― なんと!
 ―― 強い子じゃ、と言うておるのに、そのような儚い名を付けるのかよ?
 
 かぶりを振る母の黒髪が俺を掠める。

 ―― 雪は儚くはない。何より、清くて美しい。
     汚れたもの全て……覆い尽くす強さを……

     ゆきまる……


「雪丸!」
 気づくと雪丸は一人、川風に吹かれて河原に立っていた。
「うまいものじゃな?」
「ふん、このくらい――」
 川面を滑って飛ぶ石を見て褒めたのは蛮絵装束の屈強な検非遺使である。

 (これは別の夢だ。今、俺は夢の世界を彷徨っている……?)

 おや?

 川原の土手に可愛らしい少女が見える。
 しきりに地面を引っ掻いて絵を描いている。
「うまいものじゃな!」
 今度、嘆息するのは自分だった。
 描かれた束髪の男を見て、
「ほう? これは俺か? でも、俺はこんなに優しげではないぞ? フフ……」
 だが、少女は手を止めようとはしなかった。
 小さな手に握られた木の筆。それを動かして一心不乱に絵を描き続ける。
「!」
 有雪の視線が止まった。

 木の筆(・・・)? 
 違う、よく見ろ。この子の(・・・・)使っているものは(・・・・・・・・)――



「――」
 目が醒めた。そこは犬飼の小屋。
 昨夜は、急死した犬の死骸を検分した後、受領の邸には戻らずここで休むことにしたのだ。
 横には検非遺使と犬飼がそれぞれ思い思いの格好で眠りこけていた。




「殺人者がわかっただと? それは本当か?」
 日が明けてから。
 漸く起きて来た成澄と犬飼は有雪の言葉に目を瞬いた。
「ああ、わかった」
「では、即刻、絡め取りに行こうではないか!」
 いきり立つ検非遺使に返事もせずに、有雪は小屋の戸を開けると歩き出した。
「?」
「?」
 怪訝そうに顔を見合わせる成澄と犬飼。
 とはいえ、二人はすぐに後を追いかけて来た。


「受領の屋敷へ戻るのか? 殺人者はそこにいる?」
 川縁りを歩きながら成澄が訊いてきた。
「いや。この辺りでいいだろう」
 足を止め左右を見回す有雪。
 少し離れた土手に少女はいた。
 今日も地面に絵を描いて遊んでいる。
 有雪はゆっくりと近づいた。
「モモ、その筆を見せてくれぬか?」
 ニッコリ笑って少女は差し出した。
「――」
 ただの筆ではない。
 少女が使いやすいように太さも長さも加減して、丁寧に削り出してある。
 それをクルクル回して前後左右、詳細に調べた後、最後に有雪は鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
 険しかった顔が漸く緩む。
「ありがとう、もういいよ、モモ」
 返されたそれで、すぐまた少女は絵を描きだした。
「一体、何だと言うんだ?」
「その木の棒がどうかしたのか?」
 口々に問う成澄と犬飼。答えようとした有雪の視線が揺れて、ちょうどこちらへ歩いて来る人影の上で止まった。
「おう、飛騨丸!」
 方向からして受領の邸からやって来たと見える。
 昨夜の騒動の折りこの牛飼いは邸にはいなかったが、朝の内に戻ったのだろう。
「甥っ子の様子はどうだ?」
 成澄が気さくに声をかけた。
「昨日はおまえがいない間、邸中、狂ったように走り回って凄い騒ぎだったんだぞ」
「安芸丸から聞きました。今朝は、資賢(すけかた)様はまだお休みのようです」
「また、母者に差し入れか? 親孝行だな!」
 今日も、牛飼いは手に小魚を数尾下げていた。
「牛の世話が終わったので、他にはもうすることもありません。少しの間、行って来てもよろしいでしょうか?」
「おう、遠慮はいらぬ。行って来い、行って来い」
 豪快に笑う隻眼の検非遺使に頭を下げて、通り過ぎようとした飛騨丸を橋下の陰陽師が呼び止めた。
「おまえだな、飛騨丸? 受領一家を殺したのは?」




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