第5話 水の精 〈5〉
文字数 8,455文字
水面が夕陽に照り輝いている。
水鳥たちは一塊りになって羽を休め、それ以外の鳥たちは山の塒 へ帰って行く時刻。
解き放たれるのは遊女たちである。
ナミはとある池の畔 にやって来た。
大内裏 の東北、鴨川に濯ぐ二つの川の交わる辺り。
いつもここから始める。
ここは故郷の海とは比べ物にならないくらいちっぽけな溜池ではあるが。それでも、水には違いない。 ナミは水の側 にいるのが大好きなのだ。何処よりも心が安らぐ気がする。
だが、運悪くその日は先客がいた。平生、自分が好んで立つ辺り、柳の木の下に被衣 姿の美しい影──
(これは、今日は場所を変えねば……)
即座にナミは思った。お互いの仕事の邪魔をしあう愚は犯すまい。争いは避けたが賢明じゃ。
ところが、さっさと往き過ぎようとした時、佇む被衣の袖が揺れて呼び止められた。
「おい、ナミ……!」
その声にギョッとして足を止める。
「婆沙 丸か? まあ! おまえ様は私を驚かしてばかりじゃな?」
またしても異形。先夜は貴人 で、今日は同業遊女 ときた。田楽師とは聞きしに勝る変わった輩 である。
「フフ、これ はおまえが置いて行った小袖だよ。返しに来た。それから、あの夜の代金も。おまえは俺から何も取らずに去っただろう?」
命すら 、な?
「代金はいらぬ」
ナミは頬を染めた。それともこれは夕陽の照り返しだろうか?
「それにしても、婆沙丸、どうしてここがわかった? 私がいる場所が、何故、おまえ様にわかったのじゃ?」
訝しがる娘に、田楽師の情報網を見くびるなよ、と婆沙丸は笑う。
「俺たちには俺たちの伝手 があるのさ」
婆沙丸が娘の容貌を詳細に伝え、捜してくれるよう方々の仲間に頼んだところ、早速、『似た遊女が近くの池の畔に立つ』と池浚 いを生業にする西京の清目 から情報が入った。それを田楽屋敷まで直接言って来たのは、やはり西京に住む声聞師だった。
「いつもここに立つのか?」
「大概は。それから閑院 、右獄 に松尾社 ……」
「ナミらしいな! 皆、川に近い。神泉苑 には放生池 があるし。なるほど、どれも水の側 だ」
そう言えば、初めて出会った戻り橋は言わずと知れた一条堀川の畔だ。それ故、最初はその周辺を必死で捜し回ったのを婆沙丸は懐かしく思い出した。
「だが、変だな? 俺があんなに捜したのに、どうしてあっち では会えなかったんだろう? 最近、戻り橋界隈へは来ていないのか?」
「あそこはもうよい。二度と……行きたくはない……」
「?」
ナミが落ち着かなげにキョロキョロと周囲を気にし始めたのを見て婆沙丸は悲しくなった。
(可哀想に。いつも見張られていると思って安らぐことがないのだな?)
思えば、あの夜もそうだった。俺の手を引いて、あんなに懸命に走って──
「安心しろ、ナミ、今日は誰に見られたところでどうということはないさ。そのためにこんな格好で来たんだ。ほら!」
被衣の影で悪戯っぽく片目を瞑って見せる婆沙丸。
「遊女同士 立ち話をしたぐらいで誰が気にかける? よくある光景じゃ!」
「そうは言っても──長くはダメじゃ。私はもう行く」
「待て」
婆沙丸は素早く娘の手を掴んだ。腕輪の赤い珠が鈴のように鳴った。
「今日、俺は大切な話を伝えに来たんだ。よく聞けよ、ナミ。俺はおまえを 逃がしてやる 」
「──……」
驚いて目を瞠った、その顔のなんと美しいことか……!
夕焼けの最後の光の中で婆沙丸はつくづくと嘆息した。
一生忘れまい。これが……これが 俺が初めて愛した女なのだ……
ナミ ……俺の本妻 よ……! ※本妻(こなみ)・古語
とはいえ、当の娘の喜びの表情は直ぐに翳った。
「無理じゃ。いくら婆沙丸でも。いくら田楽師でも……」
「どうしてわかる?」
「だって、もう何度もやってみたから。その都度失敗した。館 からは逃げ出せてもこの広い京師 からは出られない。いつも結局、羅城門に行き着く前に館殿 の従類に捕まる。それに──」
ナミの声が震えた。
「万が一、京師から逃げ出せたとしても……その先の道がわからない……」
故郷の海までは遠過ぎる。
項垂れる娘の耳元に田楽師はそっと顔を近づけると、
「馬鹿だな? 今まで失敗したのはおまえが一人 だったからさ。今度は違うぞ。俺がいる 」
「何と言った?」
「俺 がおまえ を、おまえの故郷まで連れてってやる! しかも、今回は何処から見たって大丈夫という……完璧な筋書きまであるのだぞ!」
五月二十日は庚申 の夜であった。
この日は人間の身中に住む〈三尸 〉という蟲が宿主 の悪行を天帝に告げに行くので、それを見張って夜通し起きている習慣が広く京師 に伝わっていた。
深更 ── ※深更=真夜中
大内裏 は藻璧門の辺りで突如、凄まじい音が鳴り響いた。
高声、歓声、板を打ち鳴らす音……!
簓 に編木子 、鉦 、太鼓、鼓、笛、銅拍子……!
言わずと知れた〈田楽的狂乱 婆沙 〉の出現である。
信心深い都人 は、これぞ世に伝え聞く百鬼夜行かと恐れ慄 いて、門を固く閉ざし屋内に逃げ籠った。
片や、モノを知る都人は流行 りのそれ、〈夜田楽〉と察したらしく、いざ参加せんとどっと通りへ繰り出して来た。
これら衆生を飲み込んで喧騒はますます激しくなるばかり。
京師の治安を預かる検非遺使も一斉に現場に急行した。
平生、従者を厭う成澄もこの夜ばかりは火長・看督長 以下、配下の衛士を引き連れて黒馬を駆って馳せ参じた。
衛士たちの翳す松明 で大宮大路は昼と見紛う明るさだ。
「おう! これは……!」
先の正月の修二会 のごとく自身が加わって舞い歌えないのが口惜しくて、馬上、成澄は思わず歯噛みした。
それほどの気宇壮大な狂乱ぶり……!
まさにその渦の中心にいるのが狂乱丸に率いられた新座一門の田楽師たち、そして、懇意の異形の仲間達だ。
声聞師、巷の陰陽師、歩き巫女は言うに及ばず、俗に呼ばれるところの河原者、傀儡師に清目 に放免……常日頃、蔑まれる日陰者の朋輩 一同、憂さを晴らすべく相集った次第。
『百人は欲しい』と言った婆沙丸だったがそれを遥かに凌駕する人数が、今宵、我も我もと駆けつけてくれたのだ。
取り締まる側の成澄も予 てからの示し合わせ通り、焚きつけるように立ち回ったので騒動は静まる気配がない。遂に院御所や里内裏の殿上人まで見物に出て来た。
その中にはよほど慌てたと見えて烏帽子を被っていなかったり、裸足の者までいた。
そうこうする内にも田楽の人波は膨張し続け、うねりは高倉通りから東洞院、二条大路と溢れて、地震 のごとく地響きしつつ、とうとう礫 まで飛び交う事態となった。
さて──
かかる一帯が狂乱すればするほど、そこ以外の場所は闇に沈むのが道理。
その完璧な闇の中、一条は戻り橋の袂 に婆沙丸はナミの手を引いて立っていた。
風に乗って兄たちの繰り出す喧騒が怒涛のように伝わって来る。
「な?」
細工は流流、とばかり振り返った婆沙丸。
「俺が言った通りだろ、ナミ? これで今夜、京師中の全ての耳目 はあそこ 一点に集まる。それ以外はガラ空きじゃ!」
万全を期して逃走経路は堀川小路を選んだ。これは、水の側が落ち着くというナミを思いやってのこと。ここから真っ直ぐ東の市を駆け下るのだ。
「婆沙丸、私、なんと礼を言っていいか──」
「水臭いことを言うな。礼などいらぬ」
「でも、本当に良いのか? 私なんかのためにこうまでしてくれて……」
眼前の田楽師は娘が初めて見る地味な朽葉色の水干 姿だった。
「田楽師さえやめていいなんて……」
弟が再び京師に戻らないことを双子の兄は察していた。
昨夜、夜田楽の成功と旅の無事を祈り酌み交わした餞 の宴で、狂乱丸は言った。
『何も言うな、婆沙丸。わかっている。後の始末は俺と成澄で全て上手くやるさ』
『兄者……』
横を向いた兄の頬に燦めくものがあった。
『それにしても──有雪の奴! 返す返すも腹が立つ。あいつの卜した〈美しい出会い〉は俺にとっては〈悲しい別れ〉ではないかよ? だが……こうなったら京師一の田楽師、この狂乱丸の名にかけて意地でも盛大な〈美しい別れ〉に仕立ててみせよう!』
それから、兄はこうも言った。
『婆沙丸、おまえは器用でどんな芸もすぐ憶えた。だから、海辺に行けば行ったで、漁や船乗りの技 もすぐ身につくだろうよ。俺は何の心配もしていないぞ』
ナミに目を戻すと頻 りに腕輪をまさぐっている。
「これにも礼を言ったところじゃ」
「そうだな。元を正せば全てはそのお守りのおかげだものな!」
あの日夕焼けの端の上で二人を出会わせてくれた……!
だが、これからは、と婆沙丸は思うのだ。もうそんなものに頼らなくてもよいぞ。俺が一生おまえを守ってやる……!
「さあ、行くぞ、ナミ。道は長い」
「はい」
二人は闇の中に一歩踏み出した。
恐怖はなかった。真っ暗だが闇が夜明けを孕んでいると知っていたから。
闇のこの黒 は無 ではない。種子の中の黒。明日の実りを約束する、ぎっしりと詰まった希望の黒だ……!
「よし、走れ──!」
次の瞬間、闇の一部分が薄く揺れて二人の行く手を塞いだ。
「?」
目を凝らして透かし見て、それが何か見極めるまで婆沙丸はなお暫く時を要した。
緑の闇──秘色の直衣 に夏蟲の指貫 。
「あなたは……中御門の若殿……?」
装束を貸してくれたあの藤原雅能 だった。
「〈水の精〉に会いたがった可愛い田楽師よ。どうだ、願いは叶ったのか?」
公達 は悲しげに嘆息して、 ※公達=貴族の若者
「〈水の精〉を見つけた暁には一言私にも知らせて来るものと楽しみに待っていたのだが?」
「あ、その節はお世話になりました」
婆沙丸は深々と頭を下げた。
「ただ、今は──御覧の通り時間がない。私たちは先を急いでいるのです。今回の事柄の詳細は検非遺使の中原成澄様にお聞きください。中原様が全てを説明してくださるはず。結局、〈水の精〉は存在しなかったのです。ともあれ、私はこれで。行くぞ、ナミ!」
ナミの手を取って驚いた。
あの、いつも鳥のように軽やかな娘が岩のように固まって動かない。
白い喉から悲鳴が漏れた。
「キャーーーー!」
あの夜と同じだ 。
あの夜、〈あははの辻〉を切り裂いた悲鳴──
「ナミ? どうした? 来い!」
「いや……ダメ……その男……」
「え?」
戸惑う婆沙丸。一方、藤原雅能は笑った。
「やはり、見ておったな ?」
「何の話だ? ナミ? 雅能様? え?」
「その女をこのまま行かすわけにはいかぬな。大切なものを見知った女なれば……」
「──?」
「まだわからぬのか? 田楽師風情 にしては頭が切れると感心したものだが、買い被りであったか、婆沙丸?」
躙り寄りつつ、絵巻から抜け出たような若い貴人は言った。
「〈水の精〉は存在するぞ。この世を甘く見てはならぬ。おまえが思っているほど娑婆 は単純でも清浄でもない。厭離穢土 ……魑魅魍魎 の世界なれば」
雅能は直衣の袖をまさぐって妙な塊を取り出した。
それこそ、結んだ縄。いつも死人の傍らに落ちていたと言う、あれ──
「ほうら!おまえのために 今夜も用意したぞ?」
「では……まさか……〈水の精〉とは……」
「いかにも、この私よ!」
全ては自分がやったこと、と雅能は微笑んだ。
「幾人もの若い貴人を襲い、その美しい顔を削ぎ、命を奪い、縄を置いた……」
あの夜、〈あははの辻〉で予てから狙い定めていた朋輩の源実顕 を襲った時、たまたま闇の中にいて一部始終を目撃してしまったのがナミだった。その際、発した恐怖の叫びこそ婆沙丸と成澄が聞いたそれ だったのだ。
「まさか近くに遊女がいたとは思いもしなんだ。その場で始末しようとしたが、思いの他早く近づいて来る松明 に虚を突かれ、まんまと遊女に逃げられた上、あの場は私自身の身を取り繕うのが精一杯……」
雅能は遊女と田楽師を順に指差しながら、
「私の顔を見た女が生きている限り安心はできないと憂慮していたが、幸いにもこうしておまえ が見つけてくれた。嬉しいぞ。おまけに、おまえときたら──」
公達は蛇を思わせる細くて赤い舌で唇を舐めた。
「殺しがいがある。今宵、貴人の装束でないのが惜しまれるが……私は既におまえのあえかな公達姿を見ているものな?」
「何故、こんな馬鹿な真似をする?」
思わず婆沙丸の口を突いて出た言葉だった。
これを聞いて雅能は狂喜した。
「おお! そうだった! おまえは〈水の精〉に会ったら、そのことをぜひ訊いてみたいと言っていたものな?」
理由などない 、と大納言の息子は言明した。
「私は昔から自分と同じ 美しい者たちを見るとたまらなくなる質 でな。滅茶苦茶にしてやりたくなる。ただそれだけのこと。おまえが案じたように苦悩などしておらぬ。いや、むしろ──今は無上の喜びを感じるな!
」
歌うように雅能は続けた。
「それで、この楽しみ を誰にも咎められず、止めさせられることもなく続ける方法を考え出したのだ。
私の通う大学寮にほど近い冷泉院 にかつて出没したという〈水の精〉の話。
これを読んだ時は踊り出したくなるくらい嬉しかったぞ!
人間以外の──物怪 の仕業となれば、さしもの検非遺使どもも手が出せまい?
私はこれからもずっと、存分に、この秘密の楽しみを続けられるのだ……!」
惜しむらくは、と少々口惜しげに舌打ちする。
「この話を載せた物語集がまださほど世に知られていないこと。〈今昔物語集〉は未完ながら稀代の傑作じゃ! もっともっと多くの人に読まれるべきよ」
今度、直衣から引き出された雅能の手には、貴人の子が生まれた時、最初に与えられるという護刀 と思しき刀子 が握られていた。
「凶器のことを忘れていた……!」
咄嗟に婆沙 丸は叫んだ。
(この後に及んでツメが甘かった……!)
兄者も兄者じゃ!縄 の謎解きではあれほど拘 ってあれこれシツコク追求してきたのに、よりによって誰も──兄者も成澄も、当の俺も ──凶器については 見逃していた!
思えばナミは 刃物の類を一切持っていなかったのだから、その点に早く気づいていれば〈水の精〉が他にいることを察知できたはずだ。
だが、もう遅い、遅過ぎる──
一閃、白刃が煌めいて、婆沙丸は右肩に鋭い痛みを覚えた。
「クッ……」
「婆沙丸!」
それまで凍りついたように身動ぎもなかったナミが一声叫んで崩折れた婆沙丸に飛びつく。
「おお? そうじゃ、口封じが先じゃ!」
一転、公達の刃は娘に向けられた。
「私の遊 び……今宵の獲物は美しい田楽師。卑しい遊女 は川にでも打ち捨ててやる……!」
追われるままにナミは堀川の細い流れに滑り落ちた。
容赦なく藤原雅能 は刀子 を振って迫る。
水飛沫 の音を聞いて必死で体を起こした婆沙丸、間一髪、ナミと公達の間にその身を割り込ませた。
「早く逃げろ、ナミ!」
刃を握る貴人の腕を押さえながら、
「俺がこうしている間に……早く……!」
「で、でも」
「俺のことはいい。だが、おまえは……おまえだけは……」
「婆沙丸……」
「生きろ、ナミ!」
「い、いや────……!」
何度思い返しても婆沙丸はそれから起こった一連の事柄を上手く言葉にすることができない。
藤原雅能は見た目よりもずっと力があった。
既に肩に一太刀浴びている婆沙丸は、渾身の力で食らいついていたが、零 れる汗、滴 る血に、持ちこたえられず、もはやここまでと観念した。
その時 、背後で水柱が が上がった ……
体がフッと浮いて 、激流に飲み 込まれた ……
──何度繰り返そうと、つまりはそういう表現になる。
(これが津波 と言うものか ?)
川ですら泳いだ経験がなく、まして海など見たこともなかった山国生まれの田楽師は、虚しく拙い言葉を列挙するより他ないのだ。
あの時 、凄まじい水飛沫に体を持ち上げられて吹き飛ばされた。
その水の出処やそれが起こった原因など考える余裕はなくて、ただもう何かにしがみつこうとあがいたことまでは朧ろに憶えている。
実際、何かを掴んだ気がする。
(あれは何だったろう? 河原の石……?)
それを握り締めたまま、夜空なのか濁流なのか分かつ術 もない暗黒の奈落の底へ恐ろしい勢いで吸い込まれて行った──
「おお、気がついたぞ!」
「婆沙丸!」
目を開けるとそこに自分と同じ顔が心配そうに覗き込んでいるのが見えた。
「……兄者?」
起き上がろうとした途端、右肩に激痛が走って息を呑む。
「ウッ……」
「無理をするな。今、戸板を取りにやったから」
検非遺使が慣れた手つきで傷を縛っている最中だった。
「ハッ、ナミは何処だ? もちろん、ナミも無事なんだろうな?」
ぐるりを取り囲んでいる仲間たちの顔は一様に困惑している。
「それから、雅能様はどうした? そうか! 成澄、あんたが取り押さえてくれたんだな?」
「雅能様、だと?」
逆に検非遺使は吃驚して聞き返した。
「その雅能とは例の──〈あははの辻〉で襲われて命拾いした大納言の令息のことか? おまえ、あの公達と一緒だったのか? それはまたどうして?」
堪えきれずに兄も割って入った。
「一体、昨夜、ここで何があったと言うんだ?」
それこそ、婆沙丸 が聞きたいことだった。
兄と検非遺使が交互に語ったのは──
昨夜は、あの〈永長の大田楽〉に勝るとも劣らない、きっと後世の語り草になるであろう〈保延の夜田楽〉の成功に大いに満足して一条堀川の屋敷に引き上げて来た。もちろん、婆沙丸と遊女の逃亡も上手く行ったものと確信した。
それでそのまま夜を徹して祝宴を張っていたところ、夜明け頃、牛飼い童が『堀川沿いに婆沙丸が倒れている』と駆け込んで来た。
酔いも醒めぬままに半信半疑で出向いて、果たして、川の縁で血を流して昏倒している婆沙丸を発見したというわけだ。
一方、そこに駆けつけたものは誰一人として、続けて婆沙丸が語った、水柱が上がり、一気に濁流に押し流されたと言う体験談を本気にはしなかった。
皆、婆沙丸は夢を見ていたのではないかと怪しむばかり。
とはいえ、どんなに捜しても付近に、一緒に逃げた遊女の姿は見当たらず、そうこうする内に、中御門富小路に住する公卿の息子が庚申の夜、田楽見物に出たきり行方知れずになったという噂が漏れ伝わるに及んで――
件の夜 、何事かあった らしい 、と言うことは多少なりとも信じるようになった。
直衣に指貫姿の藤原雅能の死骸が鴨川は上鳥羽口でプカプカ浮いているのが見つかったのは、それから更に数日後のことであった。
遊女の方はついに見つからなかった。
水鳥たちは一塊りになって羽を休め、それ以外の鳥たちは山の
解き放たれるのは遊女たちである。
ナミはとある池の
いつもここから始める。
ここは故郷の海とは比べ物にならないくらいちっぽけな溜池ではあるが。それでも、水には違いない。 ナミは水の
だが、運悪くその日は先客がいた。平生、自分が好んで立つ辺り、柳の木の下に
(これは、今日は場所を変えねば……)
即座にナミは思った。お互いの仕事の邪魔をしあう愚は犯すまい。争いは避けたが賢明じゃ。
ところが、さっさと往き過ぎようとした時、佇む被衣の袖が揺れて呼び止められた。
「おい、ナミ……!」
その声にギョッとして足を止める。
「
またしても異形。先夜は
「フフ、
「代金はいらぬ」
ナミは頬を染めた。それともこれは夕陽の照り返しだろうか?
「それにしても、婆沙丸、どうしてここがわかった? 私がいる場所が、何故、おまえ様にわかったのじゃ?」
訝しがる娘に、田楽師の情報網を見くびるなよ、と婆沙丸は笑う。
「俺たちには俺たちの
婆沙丸が娘の容貌を詳細に伝え、捜してくれるよう方々の仲間に頼んだところ、早速、『似た遊女が近くの池の畔に立つ』と
「いつもここに立つのか?」
「大概は。それから
「ナミらしいな! 皆、川に近い。
そう言えば、初めて出会った戻り橋は言わずと知れた一条堀川の畔だ。それ故、最初はその周辺を必死で捜し回ったのを婆沙丸は懐かしく思い出した。
「だが、変だな? 俺があんなに捜したのに、どうして
「あそこはもうよい。二度と……行きたくはない……」
「?」
ナミが落ち着かなげにキョロキョロと周囲を気にし始めたのを見て婆沙丸は悲しくなった。
(可哀想に。いつも見張られていると思って安らぐことがないのだな?)
思えば、あの夜もそうだった。俺の手を引いて、あんなに懸命に走って──
「安心しろ、ナミ、今日は誰に見られたところでどうということはないさ。そのためにこんな格好で来たんだ。ほら!」
被衣の影で悪戯っぽく片目を瞑って見せる婆沙丸。
「
「そうは言っても──長くはダメじゃ。私はもう行く」
「待て」
婆沙丸は素早く娘の手を掴んだ。腕輪の赤い珠が鈴のように鳴った。
「今日、俺は大切な話を伝えに来たんだ。よく聞けよ、ナミ。
「──……」
驚いて目を瞠った、その顔のなんと美しいことか……!
夕焼けの最後の光の中で婆沙丸はつくづくと嘆息した。
一生忘れまい。これが……
とはいえ、当の娘の喜びの表情は直ぐに翳った。
「無理じゃ。いくら婆沙丸でも。いくら田楽師でも……」
「どうしてわかる?」
「だって、もう何度もやってみたから。その都度失敗した。
ナミの声が震えた。
「万が一、京師から逃げ出せたとしても……その先の道がわからない……」
故郷の海までは遠過ぎる。
項垂れる娘の耳元に田楽師はそっと顔を近づけると、
「馬鹿だな? 今まで失敗したのはおまえが
「何と言った?」
「
五月二十日は
この日は人間の身中に住む〈
高声、歓声、板を打ち鳴らす音……!
言わずと知れた〈田楽的
信心深い
片や、モノを知る都人は
これら衆生を飲み込んで喧騒はますます激しくなるばかり。
京師の治安を預かる検非遺使も一斉に現場に急行した。
平生、従者を厭う成澄もこの夜ばかりは火長・
衛士たちの翳す
「おう! これは……!」
先の正月の
それほどの気宇壮大な狂乱ぶり……!
まさにその渦の中心にいるのが狂乱丸に率いられた新座一門の田楽師たち、そして、懇意の異形の仲間達だ。
声聞師、巷の陰陽師、歩き巫女は言うに及ばず、俗に呼ばれるところの河原者、傀儡師に
『百人は欲しい』と言った婆沙丸だったがそれを遥かに凌駕する人数が、今宵、我も我もと駆けつけてくれたのだ。
取り締まる側の成澄も
その中にはよほど慌てたと見えて烏帽子を被っていなかったり、裸足の者までいた。
そうこうする内にも田楽の人波は膨張し続け、うねりは高倉通りから東洞院、二条大路と溢れて、
さて──
かかる一帯が狂乱すればするほど、そこ以外の場所は闇に沈むのが道理。
その完璧な闇の中、一条は戻り橋の
風に乗って兄たちの繰り出す喧騒が怒涛のように伝わって来る。
「な?」
細工は流流、とばかり振り返った婆沙丸。
「俺が言った通りだろ、ナミ? これで今夜、京師中の全ての
万全を期して逃走経路は堀川小路を選んだ。これは、水の側が落ち着くというナミを思いやってのこと。ここから真っ直ぐ東の市を駆け下るのだ。
「婆沙丸、私、なんと礼を言っていいか──」
「水臭いことを言うな。礼などいらぬ」
「でも、本当に良いのか? 私なんかのためにこうまでしてくれて……」
眼前の田楽師は娘が初めて見る地味な朽葉色の
「田楽師さえやめていいなんて……」
弟が再び京師に戻らないことを双子の兄は察していた。
昨夜、夜田楽の成功と旅の無事を祈り酌み交わした
『何も言うな、婆沙丸。わかっている。後の始末は俺と成澄で全て上手くやるさ』
『兄者……』
横を向いた兄の頬に燦めくものがあった。
『それにしても──有雪の奴! 返す返すも腹が立つ。あいつの卜した〈美しい出会い〉は俺にとっては〈悲しい別れ〉ではないかよ? だが……こうなったら京師一の田楽師、この狂乱丸の名にかけて意地でも盛大な〈美しい別れ〉に仕立ててみせよう!』
それから、兄はこうも言った。
『婆沙丸、おまえは器用でどんな芸もすぐ憶えた。だから、海辺に行けば行ったで、漁や船乗りの
ナミに目を戻すと
「これにも礼を言ったところじゃ」
「そうだな。元を正せば全てはそのお守りのおかげだものな!」
あの日夕焼けの端の上で二人を出会わせてくれた……!
だが、これからは、と婆沙丸は思うのだ。もうそんなものに頼らなくてもよいぞ。俺が一生おまえを守ってやる……!
「さあ、行くぞ、ナミ。道は長い」
「はい」
二人は闇の中に一歩踏み出した。
恐怖はなかった。真っ暗だが闇が夜明けを孕んでいると知っていたから。
闇のこの
「よし、走れ──!」
次の瞬間、闇の一部分が薄く揺れて二人の行く手を塞いだ。
「?」
目を凝らして透かし見て、それが何か見極めるまで婆沙丸はなお暫く時を要した。
緑の闇──秘色の
「あなたは……中御門の若殿……?」
装束を貸してくれたあの
「〈水の精〉に会いたがった可愛い田楽師よ。どうだ、願いは叶ったのか?」
「〈水の精〉を見つけた暁には一言私にも知らせて来るものと楽しみに待っていたのだが?」
「あ、その節はお世話になりました」
婆沙丸は深々と頭を下げた。
「ただ、今は──御覧の通り時間がない。私たちは先を急いでいるのです。今回の事柄の詳細は検非遺使の中原成澄様にお聞きください。中原様が全てを説明してくださるはず。結局、〈水の精〉は存在しなかったのです。ともあれ、私はこれで。行くぞ、ナミ!」
ナミの手を取って驚いた。
あの、いつも鳥のように軽やかな娘が岩のように固まって動かない。
白い喉から悲鳴が漏れた。
「キャーーーー!」
あの夜、〈あははの辻〉を切り裂いた悲鳴──
「ナミ? どうした? 来い!」
「いや……ダメ……その男……」
「え?」
戸惑う婆沙丸。一方、藤原雅能は笑った。
「やはり、
「何の話だ? ナミ? 雅能様? え?」
「その女をこのまま行かすわけにはいかぬな。大切なものを見知った女なれば……」
「──?」
「まだわからぬのか? 田楽師
躙り寄りつつ、絵巻から抜け出たような若い貴人は言った。
「〈水の精〉は存在するぞ。この世を甘く見てはならぬ。おまえが思っているほど
雅能は直衣の袖をまさぐって妙な塊を取り出した。
それこそ、結んだ縄。いつも死人の傍らに落ちていたと言う、あれ──
「ほうら!
「では……まさか……〈水の精〉とは……」
「いかにも、この私よ!」
全ては自分がやったこと、と雅能は微笑んだ。
「幾人もの若い貴人を襲い、その美しい顔を削ぎ、命を奪い、縄を置いた……」
あの夜、〈あははの辻〉で予てから狙い定めていた朋輩の
「まさか近くに遊女がいたとは思いもしなんだ。その場で始末しようとしたが、思いの他早く近づいて来る
雅能は遊女と田楽師を順に指差しながら、
「私の顔を見た女が生きている限り安心はできないと憂慮していたが、幸いにもこうして
公達は蛇を思わせる細くて赤い舌で唇を舐めた。
「殺しがいがある。今宵、貴人の装束でないのが惜しまれるが……私は既におまえのあえかな公達姿を見ているものな?」
「何故、こんな馬鹿な真似をする?」
思わず婆沙丸の口を突いて出た言葉だった。
これを聞いて雅能は狂喜した。
「おお! そうだった! おまえは〈水の精〉に会ったら、そのことをぜひ訊いてみたいと言っていたものな?」
「私は昔から
」
歌うように雅能は続けた。
「それで、この
私の通う大学寮にほど近い
これを読んだ時は踊り出したくなるくらい嬉しかったぞ!
人間以外の──
私はこれからもずっと、存分に、この秘密の楽しみを続けられるのだ……!」
惜しむらくは、と少々口惜しげに舌打ちする。
「この話を載せた物語集がまださほど世に知られていないこと。〈今昔物語集〉は未完ながら稀代の傑作じゃ! もっともっと多くの人に読まれるべきよ」
今度、直衣から引き出された雅能の手には、貴人の子が生まれた時、最初に与えられるという
「凶器のことを忘れていた……!」
咄嗟に
(この後に及んでツメが甘かった……!)
兄者も兄者じゃ!
思えば
だが、もう遅い、遅過ぎる──
一閃、白刃が煌めいて、婆沙丸は右肩に鋭い痛みを覚えた。
「クッ……」
「婆沙丸!」
それまで凍りついたように身動ぎもなかったナミが一声叫んで崩折れた婆沙丸に飛びつく。
「おお? そうじゃ、口封じが先じゃ!」
一転、公達の刃は娘に向けられた。
「私の
追われるままにナミは堀川の細い流れに滑り落ちた。
容赦なく
「早く逃げろ、ナミ!」
刃を握る貴人の腕を押さえながら、
「俺がこうしている間に……早く……!」
「で、でも」
「俺のことはいい。だが、おまえは……おまえだけは……」
「婆沙丸……」
「生きろ、ナミ!」
「い、いや────……!」
何度思い返しても婆沙丸はそれから起こった一連の事柄を上手く言葉にすることができない。
藤原雅能は見た目よりもずっと力があった。
既に肩に一太刀浴びている婆沙丸は、渾身の力で食らいついていたが、
──何度繰り返そうと、つまりはそういう表現になる。
(
川ですら泳いだ経験がなく、まして海など見たこともなかった山国生まれの田楽師は、虚しく拙い言葉を列挙するより他ないのだ。
その水の出処やそれが起こった原因など考える余裕はなくて、ただもう何かにしがみつこうとあがいたことまでは朧ろに憶えている。
実際、何かを掴んだ気がする。
(あれは何だったろう? 河原の石……?)
それを握り締めたまま、夜空なのか濁流なのか分かつ
「おお、気がついたぞ!」
「婆沙丸!」
目を開けるとそこに自分と同じ顔が心配そうに覗き込んでいるのが見えた。
「……兄者?」
起き上がろうとした途端、右肩に激痛が走って息を呑む。
「ウッ……」
「無理をするな。今、戸板を取りにやったから」
検非遺使が慣れた手つきで傷を縛っている最中だった。
「ハッ、ナミは何処だ? もちろん、ナミも無事なんだろうな?」
ぐるりを取り囲んでいる仲間たちの顔は一様に困惑している。
「それから、雅能様はどうした? そうか! 成澄、あんたが取り押さえてくれたんだな?」
「雅能様、だと?」
逆に検非遺使は吃驚して聞き返した。
「その雅能とは例の──〈あははの辻〉で襲われて命拾いした大納言の令息のことか? おまえ、あの公達と一緒だったのか? それはまたどうして?」
堪えきれずに兄も割って入った。
「一体、昨夜、ここで何があったと言うんだ?」
それこそ、
兄と検非遺使が交互に語ったのは──
昨夜は、あの〈永長の大田楽〉に勝るとも劣らない、きっと後世の語り草になるであろう〈保延の夜田楽〉の成功に大いに満足して一条堀川の屋敷に引き上げて来た。もちろん、婆沙丸と遊女の逃亡も上手く行ったものと確信した。
それでそのまま夜を徹して祝宴を張っていたところ、夜明け頃、牛飼い童が『堀川沿いに婆沙丸が倒れている』と駆け込んで来た。
酔いも醒めぬままに半信半疑で出向いて、果たして、川の縁で血を流して昏倒している婆沙丸を発見したというわけだ。
一方、そこに駆けつけたものは誰一人として、続けて婆沙丸が語った、水柱が上がり、一気に濁流に押し流されたと言う体験談を本気にはしなかった。
皆、婆沙丸は夢を見ていたのではないかと怪しむばかり。
とはいえ、どんなに捜しても付近に、一緒に逃げた遊女の姿は見当たらず、そうこうする内に、中御門富小路に住する公卿の息子が庚申の夜、田楽見物に出たきり行方知れずになったという噂が漏れ伝わるに及んで――
直衣に指貫姿の藤原雅能の死骸が鴨川は上鳥羽口でプカプカ浮いているのが見つかったのは、それから更に数日後のことであった。
遊女の方はついに見つからなかった。