第68話 夏越しの祭り 〈5〉

文字数 3,652文字

 有雪が予想していたよりも早く、成澄は戻って来た。

「どうした? 装束は見つからなかったのか?」
 成澄は濡れた祭祀用の白装束のままだった。
「ああ」
「まあいい。歩いているうちに乾くさ。では、行こう」
「……ああ」

 だが。
 邑境(むらざかい)には何十人もの邑人が待ち構えていたのである。
「あ! これは――」
 有雪は歯噛みして、傍らの検非遺使を睨みつけた。
「おまえ? あれほど俺が注意したのに……見つかったな(・・・・・・)?」
「違う、見つかってはおらぬ」
 成澄は首を振った。
「明かしただけだ」
「何?」
「一緒に来ないかと……一緒に逃げようと……誘ったのだ、カサネを」
「馬鹿が!」
 流石に有雪は激怒して成澄の胸ぐらを掴んだ。
「それで? 拒否されたのだな? 挙句に? 見ろ、通報までされたんだぞ!」
 激しく揺さぶりながら陰陽師は罵った。
「人の好意――奮闘をむざむざ台無しにしおって! 
 今日という今日は……俺は……おまえのその〝優しさ〟を呪ってやる!」
「違う」
「何が違う? この(うつ)け検非遺使!」
「優しいんじゃあない。弱いんだ……」
「!」
 邑人の一群がドッと駆け寄る前に検非遺使はその場に膝を折った。
「弱い人間なのだ、俺はよ……」



 今度押し込められたのは崖を削って作った岩牢だった。
 郷内で罪を犯した人間を閉じ込める場所だという。
 太い樺の木で組んだ格子の扉が取り付けられている。
 今度こそ、容易には逃げられそうになかった。

「我々、郷の者はこの習わしを連綿と続けて来た。たった一度を除いてはな。
 だから、今年も完遂する。逃げ得は許さない。
 おまえ(・・・)が、トウヤでないことなど、もはや問題ではないわ。
 おまえ(・・・)が、一旦身代わりを引き受けた以上、最後までやり遂げてもらうまでじゃ!」
 牢の中の成澄に向かって邑長(むらおさ)は蹶然と言い切った。
「明日の夜、もう一度、祭りを執り行う」
「待て!」
 一緒に放り込まれた有雪が格子に飛びついて呼びかけた。
 その背に衛門太刀(えもんのたち)はもうなかった。取り押さえられた際、流石に没収されてしまった。
 尤も、この状況下では、剣などあったところでどうしようもなかったが。
「邑長とやら! 今、『たった一度を除いては』と言ったな?
 その、祭りを執り行わなかった年はどうなったのだ?」
 暗く笑う邑長。
「知れたこと。蛇神様の怒りに触れて、郷内一帯、凄まじい災厄に見舞われた。
 何万という(イナゴ)が襲来して……空を黒く塞ぎ……稲を食い尽くした……」
 邑長はカッと双眸を瞠って道破した。
「我々は二度とあのような恐ろしい目に合いたくはない……!」
「くそっ! それは運の悪い偶然じゃ!」
 格子に取り付いて、なおも叫ぶ有雪。
「聞けよ、邑長! そんなのは偶々(たまたま)〝生贄を捧げなかった年〟と〝虫害〟が重なったに過ぎぬ!
 そんなこともわからぬのかよ? これだから鄙人はモノがわからないと言われるのだぞ? おい!」
 都の陰陽師の言葉が虚しく響く中、振り返ることなく邑長と郷内の邑役たちは去って行った。


「成澄様! 成澄様!」
 邑長たちが消えて行った闇の中から時を置かず声がした。
 カサネだった。
 美しい邑の娘は駆け寄ると格子に縋って泣き崩れた。
「お許し下さい、成澄様! 私にはああするしか(すべ)がなかった――」
 成澄は、背を向けたまま。牢の奥、岩壁を凝視して動かない。
「帰ったほうがいいぞ、娘さんよ?」
 薄く笑って有雪は警告した。
「この男が、どんなに人が良いとはいえ、流石に今度ばかりは許す気にはならぬだろうからな」
 肩を竦める陰陽師。
「だいたいよ、今更、謝ったところで何になる?
 こいつ(・・・)は、真心から、おまえを助けたいと思って呼びに戻ったのに。
 拒絶するのはともかく、せめて、何故、黙って邑から逃すことができなかった?」
「それは……同じ過ちを繰り返すことはできなかったからです」
 震える声が返って来た。
「さっき、お聞きになったでしょう?」
「何のことだ?」
「一度だけ、祭りをしなかった年のこと。
 あれは、私の母のせいです。母が、父を逃がしたから……!」

 牢の中で二つの頭が揺れた。
 成澄と有雪が振り返って、真っすぐに娘の顔を見た。
「……父が、その年の〈神の従者〉に選ばれた時、私は乳飲み子、兄は三歳でした。
 父も母もまだ若い盛り――深く、愛し合っていたんです。
 母はどうしても父を殺したくなくて、それで、父を逃しました。
 物心ついてから、私に母は明かしました。どうせ、ただの言い伝えに過ぎないと思ったと。
 だから、そんな古い因習に大切な人の命を差し出す謂れはないと。
 でも、それは大きな間違いでした」
 鄙の娘は細い体をぶるっと震わせた。
「恐ろしい災厄が郷を襲って……
 三年前、息を引き取るまで、母はずっと郷内の人々に迫害され続けました……」
「――」
「その母の苦悩を目の当たりに見続けたからこそ、私……」
 カサネの声の調子が変わった。
「正直言って、私……今年、兄が選ばれた時、ホッとしたんです」

 ―― これで解放される……!

「逃げた父と逃がした母の罪を、兄を差し出すことで消し去ることができるって。
 何故、兄は黙って逃げたか、妹も一緒に連れて逃げるべきだと、成澄様、貴方様はおっしゃいました。
 あの時、それを聞いて、私ゾッとしました。
 兄さんが何故、そうしなかったのか、思い当たったんです」
 息も継がずにカサネは一気に言った。
「兄は気づいていたんです。兄を犠牲にして、漸く肩の荷が降りた、自由になる、と喜んでいる妹の思いが。
 だから、兄は黙ってさっさと逃げてしまった。私に知られたら、密告されるとわかっていたから」
 唇を噛んで言葉を止めた。
「兄にとって私は蛇神様と同じに見えたかも知れません。
 だって、命を取ろうと目を光らせて狙っているんですもの。
 恐ろしかったでしょうね? もはや、一日足りとも一緒に暮らすことができないくらい……」
 暫く黙った後で、視線を成澄に向けるとカサネはきっぱりと言った。
「血を分けた兄さえ差し出した、そんな私が、どんなに愛しいと思ったところで、旅人である貴方様を差し出さないわけには行きません」
 身を揉むようにして、更に続けた。
「貴方様を深く愛してしまって……この体が引き裂かれるようだったけれど……
 その痛みこそ、私に与えられた罰なのだと、私は思いました。
 蛇神様に試されているのだ、とも。
 今夜、貴方様が差し出した手を取って逃げていたら、どんな禍々しい災厄がこの郷を襲うことになるか、それこそ、予想もつきません。
 だから、やっぱり、ダメ! 私一人が幸せになんてなれないんです!」

「おいで、カサネ」

 牢の格子の間から手を出して成澄は娘を呼んだ。
「辛い思いをしたんだなあ、おまえ、カサネ?」
 優しく頭を撫でて成澄は言うのだ。
「だが、安心しろ。今年も災厄は来ない。
 何故なら、今年も、無事、祭りは決行されるから」
「成澄?」
「成澄様?」
「それからな、これだけは言っておくぞ、カサネ?
 これはおまえの役目(・・・・・・)ではなくて、俺の役目(・・・・)なんだよ。
 だから、おまえが苦しむ類のことではない。おまえが負い目に思う必要はないんだ」
 もう一度、娘の髪を撫で上げて成澄は言った。
「これからも、おまえは堂々生きていけばいい。わかったな?」
「なんてこった! おまえ、では、この悪習を受け入れると言うんだな? 邪神の祭りに身を捧げると?」
 有雪が両腕を振り回して喚いた。
「成澄! やはりおまえは強い男じゃ! それは認めてやる! だが、それ以上に、おまえは馬鹿じゃ!」
「何とでも言え! 俺はもう決めたんだ!」
 成澄は有雪の肩に手を置いた。
「それによ、こうなってはもはや、俺一人が助かったところでどうしようもないのだ。そんなこと、おまえだってわかっているだろう?」
 成澄は言い直した。
「いや、賢いおまえこそ、一番わかっているはずだ。
 おまえは骨を折って俺を助けてくれたが、俺だけではダメなのだ。
 皆が助からなければ何にもならない。
 だとすれば、後は簡単な勘定ではないか? 
 俺一人助けても幸せにならないが、逆に、俺一人の命で、カサネ始め、この郷一帯の人々の安泰が得られるのなら――それでいい」
 
 悪習であろうと(・・・・・・・)邪神であろうと(・・・・・・・)……

 橋下の陰陽師から手を放すと検非遺使はクルリと身を翻した。
 太い格子を掴んで大声で叫ぶ。
「おーい、祭りの責任者! 邑役殿よ! 来てくれ、話がある!」


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