第1話 水の精 〈1〉

文字数 3,423文字

        


「まさか、おまえ、本気で信じているのか?」
 半ば呆れて狂乱(きょうらん)丸が訊いた。
「勿論!」
 弟の婆沙(ばさら)丸が頬を膨らませて答える。
 処は京の一条堀川橋の(たもと)
 時は崇徳帝が天皇位にあった最後の年、保延(ほうえん)七年(1141)。
 清水坂の桜も咲き散った遅い春である。
 田楽師の婆沙丸が居候の陰陽師から『橋で〝美しい出会い〟をするぞ』と卜占を授かったのは昨日のことだ。それで今日一日、暇を見つけては──暇でなくとも無理やり時間を割いてまで──こうして橋の周りをウロウロしている。
 そんな弟を兄は嗤った。
僻事(ひがごと)じゃ! 有雪の占いなんぞ当たった(ため)しはないぞ。所詮あいつは橋下(はしした)似非(エセ)陰陽師さ。さてと、もう日も暮れるから俺は行く。ったく、双子だというのにおまえの気が知れぬわ」
 気が知れないのは兄者の方だ、と婆沙丸は思った。
 では、狂乱丸は〝美しい出会い〟と聞いて胸ときめかないのだろうか? 
(俺は違う……!)
 兄の遠目にも派手な装束が橋の向こうへ消えるのと入れ違うように、カッと日輪が燃え落ちて辺りは夕焼けに染まった。
 それがまた、ついぞ見た憶えもないほどの見事な夕焼けで、婆沙丸は思わず目を細めて見蕩れていたところ──ハッとした。
 別名〈戻り橋〉とも呼ばれるこの橋の袂、ちょうど自分の立っている目の前の地面に煌めくものがある。
 最初、夕焼けの残滓(ざんし)かとも見紛った。そのくらい真っ赤な珠を連ねた……
「……腕輪か、これは?」
 婆沙丸は拾い上げてつくづくため息した。
「美しい! 誰が落として行ったものやら……」
 今まで見たことのない石だった。小粒で血のように赤い。
 今度の田楽の際、身につけたらどんなに素敵だろう? 髪に飾っても映えるだろうな?
 婆沙丸は一人北叟笑(ほくそえ)んだ。
これ(・・)を拾っただけでも占いは効があったというものだ。兄者は羨ましがるぞ。)
 と、背後でパタパタと鳥の飛び立つような音がした。
「?」
 まだ消え残る夕映えの中、橋の上、娘が一人、袖を翻してあっちに走りこっちに走りしていた。
 婆沙丸が暫く動かなかったのは、拾った美しい腕輪を落とし主と思しきその人に返すのを惜しんだせいではない。
 見蕩れていたのだ。
 女人を美しいと思って見蕩れるのは、勿論、この時が初めてだった。
 自身、垂髪に綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣装を誇る美しい田楽師兄弟として昨今都で持て囃されている婆沙丸ではある。
 橋の上の娘は年の頃十五、六。
 最初に聞いた足音を鳥の羽ばたきと勘違いしたせいもあって、ほっそりしたその姿が婆沙丸には(くぐい)を思わせた。 *鵠=白鳥
 腰に零れる柔らかな黒髪。小袖の上に重ねた(うちぎ)の色は紅梅。
 それにしても、こんなにも娘が照り輝いて見えるのは夕焼けのせいばかりではあるまいな……
「もし」
 とうとう婆沙丸は声をかけた。
「何か探し物か? ひょっとして、これか?」
「まあ!」
 娘はよほど驚いたらしく、暫く身動(みじろ)ぎもせず、差し出された婆沙丸の掌を凝視していた。
「ありがとうございます。見つからなかったらどうしようかと思っていた……」
「大切なものと見える。さては愛物(こいびと)からの贈り物か?」
「まさか!」
 娘の笑い声を聞けて婆沙丸は幸せだった。
 波のさざめきに似て清らかで涼しげな響き……
「これは母から授かったお守りじゃ」
 娘は折れそうなほど細くて白い手首に急いで腕輪を嵌めた。
 宝珠は収まる処に収まったのである。
(俺の手首や髪ではこうは輝くまい……)
 婆沙丸はこっそり微笑んだ。
 夕焼けは既に色褪せて周囲には薄闇が溶け出している。それでも、娘と娘の腕にだけ煌めきは残っていた。
「何処のどなたが存じませんが、本当にありがとうございました。では」

 気づくと婆沙丸は一人、相変わらず橋の袂に突っ立っていた。
 我に返ってつくづく自分を(なじ)った。
(馬鹿か、俺は!)
 何処のどなた(・・・・・・)か存じない(・・・・・)、などと言わせる前に名乗りを上げるべきだったのだ! それを呆けたままポカンと口を開けて微動だにせず佇んでいるとは。
 これでは自分の名を告げることはおろか、恋した娘の名もわからずじまいではないか!
 ── 恋をした(・・・・)
 その通り。
 婆沙丸は、今やハッキリと自覚した。
 橋下の陰陽師が卜した〝美しい出会い〟とは、まさにこのことだったのだ。


   何としても、再びあの娘に会いたい。
 翌日から婆沙丸(ばさら)は昨日にも増して橋とその周辺を彷徨い始めた。
 腕輪を落としたということは、娘は常日頃(つねひごろ)この付近を通っているのだと婆沙丸は考えた。ならば、絶対、この辺りで会えるはず。
 しかし、一日、二日と時は虚しく過ぎて行った。

 とうとう三日目も暮れてしまった。
 一条大橋も戻り橋周辺も厚い(とばり)に塞がれて、もうこうなっては今日はここを通る人とてあるまい。けれど婆沙丸は、京師(みやこ)に夜を告げる太鼓の音を聞いても娘を捜すのをやめて家路に着こうとはしなかった。
 腕を組んで橋の欄干に凭れ掛かると涼しい風が吹いて、切り揃えた自慢の黒髪を揺すって去った。
 宛ら、何かの前触れのように。
「……おや?」
 誰かがこっちへやって来る。松明(たいまつ)が上下して大きくなって来るのが見えた。
「もしや──」
「おう、婆沙丸!」
 期待に膨らみかけた胸がいっぺんに(しぼ)んだ。
 橋を渡ってやって来たのは愛しい娘とは似ても似つかぬ弓箭大刀を帯びた大柄な男。
「なんだ、あんたか?」
 婆沙丸は露骨にがっかりした。
「なんだ、はないだろう? 天下の検非遺使(けびいし)を捕まえて」
 猛々しい声とは裏腹にその顔は笑っている。
 この男、名を中原成澄(なかはらなりずみ)と言う。今は徒歩で従者も連れていないが(れっき)とした左衛門府の官位を有す検非遺使である。
 そもそも検非遺使とは──
 嵯峨帝の御代、設置された京師の治安を護る警察官であり、同時に裁判官でもある。
 代々武略・軍略に秀でた人材が任官されてきた。蛮絵と呼ばれる獣文様の黒装束。時が下るに従って長身の美男ばかり採用されたため『検非遺使は容貌第一』などと揶揄されるに至ったが。
 かの源義経の別称〝判官〟はこの検非遺使尉の別称である。
 さて。
 それほど花も実もある検非遺使と異形の(うから)の田楽師が懇意なのには理由(わけ)がある。
 この年の正月十三日。今でも都人の口の端に上る〈修二会(しゅにえ)の大騒動〉で知り合ったのだ。
 その日、由緒正しき正月行事の真っ最中、堂内に突如飛び入って、狂乱・婆沙の田楽を舞い歌ったのがこの兄弟。その姿と声の美しさについては現在に伝わる永観文庫『御修法記』に詳しい。
 さても、その乱舞の輪の中に中原成澄もいたのだ。
 取り締まるどころかこの検非遺使、持参の笛を吹き鳴らし一緒に舞い狂った──
 以来すっかり意気投合してしまった。
 成澄は屈強な体と精悍な容貌に似ず陽気で気さくな若者だった。明道系の家柄出身で大いに将来を嘱望されている。が、当人は出世や位階より浮かれ騒ぐことが何より好きで、非番で月の美しい晩などは山辺や河原に繰り出して酒を酌み交わしては舞い歌うのだ。相手が田楽師だろうと、細工師、声聞師の類だろうと、とにかく気さえあえば身分など全くこだわらぬ(たち)だった。
「成澄、悪いが俺は今夜はあんたに付き合ってる暇はない。人を捜してるんだ」
「らしいな。狂乱丸に聞いたよ。このところやたらとほっつき歩いているそうじゃないか。それで──これはどうしてもおまえに教えねばと思って急ぎやって来たのさ」
 これを聞いて婆沙丸はパッと目を輝かせた。
「では、俺が橋で会った娘について何か知っているのか?」
「いや、その娘とやらは知らないが……〈水の精〉についてなら知っているぞ」
「?」
 眉間に皺を寄せた険しい顔。こんな深刻な検非遺使を初めて目にして婆沙丸は少なからず吃驚した。
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