第34話 鳥の痕 〈9〉

文字数 2,395文字

 鳥辺野(とりべの)の闇は深い。
 京師(みやこ)の東、鴨川を渡ったその先にある鳥辺山一帯を都人は〈鳥辺野〉と呼び習わしている。
 この山は葬送の地となっていて、貴賎を問わず京師の死人のほとんどはここへ運ばれた。
 そのせいか、夜は一段と闇が濃い。
 その濃密な闇の中、両手両足を縛られた(にお)は震えて立っていた。
 目も塞がれている。
 家で突然襲われたのは昨日の夜のことだった。
 気がつくと何処かの一室に転がされていて、既に両手両足は縛られ、目隠しもされていた。それからどのくらい時が経ったのだろう?
 先刻、いきなり抱えられ、馬に乗せられてここまで揺られて来たのだ。
 風が吹き抜けて行く。野外のようだ。その風に鳴る葉音や湿った草の匂いから夜らしいと、そこまでは推察できた。
 賊は馬からいったんこの場に鳰を下ろすと去った。
 遠退(とおの)いて行く蹄の音を鳰は聞いていた。
(……捨てられたのだろうか?)
 だが、体の自由を奪われたままでは逃げようにも逃げられない。だから、ずっと立ち続けている。
「待たせたなあ?」
 突然声がした。と、思う間もなく、両目を塞いでいた布が足元へ落ちる。
「?」
 眼前に覆面の男が立っていた。
「これが見えるか?」
 男は左右の手に持った紙を揺らせて見せた。
 月夜である。
 鳰は紙よりも、先に、素早く周囲に視線を走らせた。ここが何処か知りたかった。
 周りは木が茂っていて、自分と男の立っている辺りだけポッカリと空き地のようになっている。
 紙を翳す男の足元で龕灯(がんどう)の細い炎が揺れていた。それから鳥籠──
「こっちだ、これを見ろ!」 ※龕灯=鉄や銅製の光の漏れにくい灯火
 覆面の男が促す。
「読めるかい?」
 男の揺らす左右の紙は月の光に白白と浮き上がっている。
 鳰は首を振った。
「読めない」
「読めない……」
 鸚鵡返しに男は言って、笑った。ひどく嬉しそうだった。
「そうか、読めないか! 漢字だものな! では、教えてやる。これは〈唯〉、こっちは〈難〉だ」
 両手を突き出して二つの文字を鳰の鼻先に突き付けた。
「〈唯〉は承諾を意味する。〈難〉は難しいという字。つまり、拒否だな。私の愛を受け入れるならこっち、〈唯〉の紙を取れ。受け入れられないのなら、こっち〈難〉だ。さあ!」
「──……」
 両手を縛られているので鳰は選んだ紙を咥えた。神前の御籤を引く小鳥のように。

   〈 難 〉

 こんなやり方をして受け入れられるはずがない。
「おまえもか!」
 男の声は弾んでいた。喜びが体中から(ほとばし)っている。
「今までの娘たちの誰もがこれを選んだぞ! 〈難〉! そして──おまえも(・・・・)か!」
 男は龕灯から松明(たいまつ)に火を移しながら叫んだ。
おまえ(・・・)が自分で選んだのだ……!」
 男が翳す松明の炎に(たきぎ)の山が映し出される。
 そこにそんなものが積んであるのを今の今まで鳰は気づかなかった。
「!」
 松明を近づけて火を移すと瞬く間に薪は燃え上がった。
 囂囂(ごうごう)と燃え盛る火柱。その中に、男は無造作に鳥籠を拾い上げ、投げ入れた。
 キュッと何かが縮むような音。
 それから、同じように鳰を抱き上げると、投げ入れた。
「キャーーーーー……」


 刹那、黒い影が走って突風が巻き起こった。
 炎が割れて、巫女の体が宙に浮く。
 次の瞬間、巫女は夜露に濡れた冷たい草叢(くさむら)に投げ出されていた。
「そこまでだっ……!」
 宙を斬って舞い降りる黒馬。着地するや即座に手綱を引き絞って馬首を改める。
 見よ! 炎の上を飛んで、巫女を燃え盛る薪の山から掬い上げた検非遺使尉(けびいしのじょう)の勇姿……!
 即座に後ろの鞍から狂乱丸が飛び降りて横たわる巫女の元へ走った。
 髪の毛の焦げる匂い。巫女は失神している。
「大丈夫だ! 軽い火傷程度だ!」
 歩き巫女の命は救われたのだ。
「あ、待てっ!」
 検非遺使の怒号が飛ぶ。覆面の男が身を翻して木立の中へ走り去った。
 成澄も馬から飛び降りた。男を追って木々の間へ駆け込む。しかし、時、既に遅かった。
 灯りを捨てた男の体は深い闇に飲まれ、もはやその跡を負うことはできなかった。
「そこか、成澄?」
 遅れること数分、有雪の馬が突っ込んで来た。後ろに乗るのは婆沙丸である。
「に、鳰はどうした? 無事か?」
「大丈夫だ、間一髪、間に合った!」
「ふぅ……」
 安堵の息を吐いて陰陽師は馬を降りた。夜ということもあり肩に白い(カラス)は乗っていない。鳥は、今時分は陰陽師の自室の襤褸布の上でとっくに寝入っていることだろう。
「炎が幸いしたな?」
 愈々天を焦がして燃え上がる焚き火を振り仰いで長身の検非遺使は言う。
 闇の濃い鳥辺野で突然灯った明かり……
 男が松明を燃やした瞬間だった。そして、存外、その明かりに近かったこと。これは天の力、偶然の賜物である。
 一同が鳥辺野を探っていたのも確証があったわけではない。
 今回の〈鳥尽くし〉から、地名に入っている、その〝鳥〟の字に一縷の望みを託した、まさに、賭けだった。
 だからこそ、不審な炎を目にした瞬間、成澄は快哉(かいさい)を叫ぶと拍車して駆け出した。月光の降る道を炎を目印に駆けに駆けた──
「だが、奴は逃してしまった……」
 悔しそうに歯噛みする成澄の肩を叩いて有雪は呵呵笑う。
「気にすることはない。一番の懸念であった巫女は無事取り戻せたのだ。この上は何を焦る必要がある? 奴の所在ならわかっている。天下一の陰陽師、この有雪に解けぬ謎はない、読み取れぬ未来などないのだからな!」
 いつもの尊大な〈橋下の陰陽師〉に戻っていた。
 
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