第52話 眠り姫 〈9〉

文字数 3,088文字

「?」
 布留佳樹は目を開けた。見慣れぬ天井──
 
 (しまった? 油断している間にいつのまにか、また姫の夢に取り込まれた?)

「すわっ!」
 跳ね起きた純白の袖を、こちらは同じ色とは思えぬ薄汚れた袖が押さえる。
「落ち着けよ」
「こ、ここは?」
「田楽屋敷じゃ。よほど疲れていたと見えるな?  おまえさん、酔いつぶれて寝ていたのさ」
 周囲を見廻すと、床に盃が転がっている。その向こう、座敷の中央に置かれた酒桶は、布留自らが持ち込んだ極上のそれである。
「……そうだった。私たちはここで、明日の〈追儺の祭祀)の成功を寿いで酒盛りをしていたのだったな」
 改めて、座り直すと、訊いた。
「他の者はどうした?」
「川へ行った」
「子供らと遊びにか?」
「いや、それは婆沙丸だけ。
 川は川でも、狂乱丸と成澄はもっと山の方。鞍馬の辺りへ夏の夜の風情を味わいに行ったわ」
 言葉を切って、有雪は薄く笑った。
「まあ、どんな風情かは知らぬがな」
「おまえは行かなかったのか?」
「俺? 俺はこっち(・・・)の風情の方が良い」
 盃を揺らしてみせる橋下の陰陽師。
「こんな美味い酒、滅多に飲めるわけではないからな! 流石に帝の陰陽師は違う!
 いつも、こんな極上の酒を味わっているのか?」
「羨ましいか?」
「当たり前だ。大いに羨ましいよ!」
「……変わってやっても良いぞ」
「え?」
 次の瞬間、帝の陰陽師は立ち上がると純白の水干を脱ぎだした。
「おわっ! なっ? ま、待て! さっきのは冗談じゃ、俺は──」
 たじろぐ有雪に構わず、アッという間にカザミまで脱いで上半身を曝す布留佳樹。
「見ろ」
「酔っているな? だが、これはやり過ぎ──」
「いいから、見ろ! 何が見える?」
「え?」
「鱗が……あるだろう?」
「!」
 確かに。背中の中央にびっしりと鱗が広がっている。
 (かさ)の一種なのかも知れないが、見れば見るほど、〈鱗〉としか言い様がない。
「これが、全ての元凶よ」
 帝の陰陽師は哂った。
「俺は布留家の正当な血ではないわ。
 その俺が、嫡男の義兄(あに)を差し置いて今の地位にあるのも、この呪われた鱗のせいじゃ。
 見たろう? 先刻の必要以上に恭しい布留一族の態度を。
 俺は年がら年中、あんな冷血な連中と過ごしているのだぞ。布留の邸は宛ら氷の邸じゃ」
 布留家は代々陰陽師を生業にしているが、最高位・帝の陰陽師=蔵人所陰陽師の座にあるのはこの佳樹だけである。
 それ故、日々、下にも置かれぬ丁重な扱いを受けているものの、そこには微塵の情愛もなかった。
 むしろ、憎悪と嫉妬が蜷局(とぐろ)を巻いている……
 なまじ人の心が見える分、佳樹には辛かった。
「こんなもの──」
 背の鱗に爪を立てて布留は言う。
「授からずに生まれていたなら、俺はいつまでもノンキに母者の元におられたものを。
 そうだな、そうしたら今頃は俺も、おまえと同業の〈巷の陰陽師〉になっていたかも」
 自分は何もいらなかったのに。位階も、名も、家も、力も。
 布留佳樹は吐き捨てた。
「布留の家にはな、遠く神代の頃から、この鱗を持った人間が生まれつくのだそうだ。
 必ずしも嫡流に生まれるとは限らない。だが、一世代に必ず一人、現れる。
 布留家では、その〈鱗持ち〉をその代の長とするのが習わしじゃ。
 しかも、始末の悪いことに、見た目だけじゃない。〈鱗持ち〉には必ず強い霊力が備わっている」
 布留は嘆息した。
「俺の母者は白拍子だった。だから、父など何処の誰かわからないものを……」
 この鱗を持っていたばかりに、それを聞きつけた布留家の家司がある日やって来て、有無を言わさずに本家の邸へと連れて行かれたのだ。
「5歳だった。あの日以来、母には会っていない。まあ、いいこともあるか?」
 自嘲気味に喉を鳴らした。
「俺の中で、母者はいつまでも、別れた5歳の日に見た、若い姿じゃ」
 盃に新しい酒を満たしてやりながら、有雪が言う。
「おまえさん、他人の夢にはズケズケと押し入るのによ? ほら、成澄の時のようにさ。
 そんなに会いたいのなら、何故、母の元へ行かぬ? 母の夢に入ればよかろう?」
 言った後で、笑った。
「おっと、こりゃ、愚問か。現実は知りたくない。悪夢以上に恐ろしいものな?」
 帝の陰陽師は意外にも、素直に頷いた。
「母が死んでしまっていたら? もうこの世の人でなかったら? 夢を探って、それを知るのが辛いのだ」
「……死んだばかりの人の夢なら入れるぞ」
 唐突に言う有雪だった。
「まだ、その思いの残滓が残っている間は、な。だが、死んで、長く時が経った者では無理だ。
 死んで久しい者は、もう夢も見ないから、夢には入れぬ道理じゃ」
 今度、相手の盃に酒を注ぐのは布留佳樹だ。
「ほう? 何故わかる?」
「何度も試みたから。無理だった」
 満たされた盃を一気に飲み干して、橋下の陰陽師は口を拭った。
「俺の母は河原で俺を産み落とすとすぐ果てた。
 それで、物心つくと母に会いたくて、夜毎探ったが──静かな無に行き当るばかりじゃ」
「そうか。だが、霊たちは見えるだろ? あいつらだって死んでいるのによ?」
「見えるな。煩くやって来る霊たちは、あれさ、恨みつらみを有している者なのさ」
「ああ、やっぱりな。おまえもそう思うか?」
 また継ぎ足して、蔵人所陰陽師は首を振った。
「見たいものは見ることができず、見たくないものは見える……こんな力いらなかったなあ」
「同感」
 掲げ合った盃に何かがツイッと煌めいた。
 顔を上げると、座敷の天井近く、明滅する小さな光。
 二人の陰陽師はくぐもった声で笑い合った。
「なんだ? 誰かの魂かと思ったら……」
「迷い蛍かよ……」


「流石に日も暮れたな! 今日はこれまでじゃ!」
 ここ、一条橋の河原でも闇が流れ出した。
 婆沙丸が声をかけると、遊び尽くしたのか、子供たちも素直に頷いた。
「またねー、婆沙丸!」
「明日も遊ぼう!」
 三三五五、連れ立って帰って行く。
「おう! 気をつけて帰れよ!」
 自分も帰るべく踵を返そうとして、そっと袖を引かれた。
「あれ? おまえは──」
 この間、目隠し鬼をして遊んでいた時、間違って婆沙丸が捕まえた少女だった。
「あの、あの……」
 頬を染めて、懸命に少女は何か言おうとしている。
「こ、この間は……私を……仲間に入れてくれて……ありがとう」
「なんだ、そんなことか! 礼を言うほどのことでもない。それより」
 見ると、帰りかけた他の少女たちが足を止めて手招きしている。
「すずー! おいでよー!」
「早く、早くー!」
「一緒に帰ろー、すず!」
「すず、と言うのか、おまえ?」
 婆沙丸は可笑しかった。
 今、こうして声をかけられるまで、少女が一緒に遊んでいるのに全然気がつかなかった。
 つまり、そのくらい打ち解けてすっかり馴染んでいたのだ。
「じゃ、また次も、一緒に遊ぼうな、すず?」
 指切りの小指を出す。
「うん!」
 すずも満面の笑顔で小指を絡めた。
 そうして仲間の待つ土手へと駆け出した。
「おや?」
 少女の薄紅の袂から何かが落ちた。
「あの日一人で遊んでいた、玩具じゃないか」
 婆沙丸が拾い上げた時、闇に吸い込まれて子供たちの姿はもう何処にも見えなかった。
「きっと、母者の手作りだな? 大切なものだろうに……」
 
 まあ、いいか。明日、返してやろう。


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