第79話 呪術師 〈9〉

文字数 3,988文字

 その日、神泉苑(しんせんえん)の大池の周囲は〈術比べ〉をこの目で見ようという都人で埋まった。
 元々ここは桓武帝が平安京遷都と同時に内裏の南に広がる沼沢を開いて作った由緒ある禁苑――帝の庭園――である。
 二条通りから三条通りまで南北約500m東西約240mに及ぶ広大な敷地。
 大池と中嶋の二つの池を中心に、釣殿、滝殿、唐風の東屋に楼閣と美々しく整えられ、歴代の帝や貴人が舟遊びや花見を楽しんだ。
 また、雨乞いの霊地、御霊会の霊園としても名を馳せた。
 とはいえ、平安末のこの頃には見る影もなく荒れ果て、都市の中の不気味な魔境と化していた。築地塀は崩れ落ち、野犬が徘徊し、『死骸充満、糞尿汚穢』と二条河原落書(らくしょ)に記されている。
 その廃園も今日ばかりは往年の隆盛を取り戻したかのような賑やかさである。
 かの空海が祈雨の〈術比べ〉の際、呼び寄せた竜神が今直住み着いていると伝わる大池の(ほとり)
 先ず〈真実の呪術師〉アシタバが風を切って進み出た。
 溢れかえった群衆に向かって両手を挙げる。
「お集まりの皆様! 本日は、このアシタバ、真実の呪術師が特別な術をご覧に入れましょう!」
 借り出された異形の輩、目にも艶やかな装束を纏った一群が車に乗せてガラガラ運んできたのは大きな木箱だ。
 地面に下ろされたそれをアシタバは中を開けて群集に(さら)した。
「これなるはご覧の通り――何の変哲もないただの箱。ここに入れるは……こちら!」
 同じく異形の風体ながら、目の醒めるような長身の男に手を引かれて現れた娘の姿たるや……!
 刹那、衆人は声を失った。
 これから行われる世にも奇妙な〈術〉のことを喪失して、眼前の娘の妙なる美しさに目を奪われる。
 彼方此方でため息が漏れた。
「ほう?」
「おおお?」
「ひゃあ!」
 射千玉(ぬばたま)の黒髪、雪白の面、柘榴色の唇……
 伏せた睫毛に滲む琥珀の瞳……
 天女が舞い降りたような儚げなその姿こそ久遠(くおん)に見惚れていたいところである。
 が、無慈悲にも呪術師は男の手から娘を奪い取るや、箱の中に押し込んだ。
 思わず悲鳴を上げる衆人。
「ああ!」
「きゃあ!」
「なんと……!」
「さあ、とくとご覧あれ! これから私の〈念〉で、この娘をここではない場所に一瞬で飛ばして見せましょう!」
 娘を入れた箱に錦の布をすっぽり被せる。異形の輩たちも娘を封印するかのよう数珠繋ぎに箱を取り巻いた。
 呪を唱えだすアシタバ。

「オーン、オーン、オーン……」
 
 今日動かすものは普段の鳥目や紐や餅の類ではない。
 さすがに大事(おおごと)と見えてアシタバの額から汗が滴り落ちた。
「オーン、オーン、オーン……」
 固唾を飲んで見つめる衆人。
「キエエエイ!」
 一声叫んで、布を払い、蓋を開ける――
「おおおおーーーっ?」

 中は空。
 絶世の美少女の姿は煙のごとくの消え失せていた。

「見よ、あそこ!」
 アシタバが振るった腕の先、
 群集の背後、今花盛りの(おうち)の大樹の上に出現した影こそ、まさに、先刻箱詰めされた娘ではないか!
 一瞬、冴え渡る静寂の後、ドウッと津波のように感嘆の声が広がった。

「うおおおお――――……!」

 池の(はた)の木箱から、その樗の樹まで、走って行ける距離ではない。
 まして、箱に入れられ呪が唱えられた時間を考えれば、不可能だった。
 これはもう奇跡、神業と呼ぶほかない。
 
 紫の花を零して樹の上から下ろされた娘。
 異形の輩に周囲を守られ、ゆっくりと群衆の間を呪術師アシタバの元へ戻って来た。
 その間、〈念〉で飛ばされた娘を間近に見ようと衆人は色めき立った。吾も吾もと先を争い、押し合いへし合いして美少女へ押し寄せた。
「これは……!」
「さっきの娘じゃ!」
「箱に入れられた娘じゃ!」
「同じ娘だぞ!」
「今度こそ――もっとよく見せろ!」
「美しいのう?」
「おお?」
 人垣を縫って再びアシタバの横に立った娘に万雷の拍手が鳴り響く。
 真実の偉大なる〈念〉の術と、はたまたこの世に二人とはいないだろう絶世の美女の姿に、その日、神泉苑へ足を運んだ都人は心から酔い痴れたのだった。

 さて、法師は……

 こちら法師・真済(しんぜい)は用意した護摩壇の前でせわしなく印を結び、呪文を唱え、香を振りまき……

 そもそも、術の性質が違う。
 法師の方は今日一日の間に雨を降らせられるかどうかだ。
 群集に混じって様子を眺めていた橋下の陰陽師、肩の烏を撫でながら呟いた。
「やれやれ、かつて行われた〈術比べ〉では、負けそうになった僧が独鈷(どっこ)で己の頭を砕き、その脳髄を護摩の炎へ投げ入れて祈祷した末、見事逆転したというのもある」
 有雪は苦笑した。
おまえさん(・ ・ ・ ・ ・)もそのくらいしなくては太刀打ちできそうもないぞ?」
 雨をもたらすと言う戌亥の方角を首を捻って窺うもののそこには爽やかな初夏の青空が広がっているばかり。
 雨雲など陰も形もなかった。

 種明かし、というほどのものは何もない。
 お読みの皆様お察しの通り、箱の中に入ったのは狂乱丸。
 蓋が閉じられると急いで(うちぎ)を脱ぎ、裏返して丈短く纏う。裏地は目を剥くほどに派手派手しい模様で仕立ててあった。(たもと)に隠しておいたこれまた目を引く奇抜な花飾りを髪につけると、布を掛けた箱の裏側から外へ飛び出し、そのまま、箱を取り囲んでいる異形の輩の中に紛れ込んだ。
 ただそれだけのこと。
 群衆の目は、既に樗の枝に出現した婆沙丸に釘付けだったから。
 付け足して言えば、却って目立つ衣装を纏ったところがミソである。
 人の目は時として地味なものより奇抜なものに騙される。
 艶やかなものほど、見て見ないものである。
 この日、有雪の采配で呪術師アシタバの周囲に配された異形の輩は〈術比べ〉に花を添える(いろど)りとしてではなく、むしろ、美少女(田楽師)を隠す装置として機能したのだ。

 かくのごとく呪術師アシタバは大成功を収めた。
 一方、京師には夜になっても雨は一滴も降らなかった。
 今回の〈術比べ〉、明らかにアシタバの勝ちである。
 都人は、口さがない京雀(きょうすずめ)に至るまで、アシタバを〈真実の呪術師〉だと誉め讃えた。 ※京雀=都の悪ガキ、シティボーイたち




「何にせよ、人助けはいい気持ちだ!」
 高々と杯を上げる検非遺使。当人、余程気に入ったのか未だ異形の風体(なり)である。
「いや、俺はこれから半年間、遠慮なく、浴びるように酒が飲めると思うと、ソレこそいい気持ちじゃ!」
 酒瓶から瀧のように喉へ流し込みながら陰陽師も気炎を上げる。
「なあ、なあ、どうだった、成澄? 今日の俺の姿?」
 まだ酒には口をつけていないはずなのに頬を染めて訊く狂乱丸だった。
「おうよ! 俺は今日と言う今日はつくづく見入ったよ、狂乱丸!」
「そ、そうか? そんなに良かったか?」
「ああ、改めて感心した! 婆沙丸と全く見分けがつかなかったぞ! 凄いなあ!」
「え?」
「いや、だからさ、誉めているんだ。おまえ、ほんとに弟とそっくりだな? 全く違うところがない! うわっ?」
 酒瓶の酒を頭から浴びせられた検非遺使の、その叫びである。
「な、何だ? 何を怒っている? 俺が何か悪いことを言ったか? おい、狂乱丸?」
 傍らの有雪、酒を飲む手は止めずに呟いた。
「……成澄よ、やはり、おまえは未来永劫イケテナイ男だよ」
「あははは」
 笑い声を上げる婆沙丸、ふと微かな音を聞き取って縁を振り返った。
 果たして庭先にマシラの姿。

「礼などはいいぞ」
 縁に出て来て、婆沙丸は微笑んだ。
「都を立つのか?」
 心の準備はできている。(はなむけ)の言葉は笑顔で言うものだ。
「道中、気をつけて行けよ」
「それが……」
 涙に顔を歪めたのは娘の方だった。
「申し訳ありません! 私たちは都を離れません。ここに居ることにします!」
「何だと!」
 叫んだのは兄の田楽師である。すっ飛んで来て弟の横に並んだ。
「それはどういうことじゃ? これが最後だというから、俺達は協力したんだぞ! おまえ、俺達を――」
 狂乱丸は言い直した。
「観衆のみならず、俺たちまでも(・・・)騙すのか?」
「兄者」
「流石にマヤカシの呪術師兄妹だけのことはある」
「申し訳ありません! 何と言われても――その通りです」
 ひたすら、頭を下げるマシラだった。
 続いて縁に出て来た成澄が察したように質す。
「兄のアシタバの意向か? あやつはどうあっても京師を離れようとしないんだな?」
 検非遺使の問いかけに呪術師の妹は消え入るような声で頷いた。
「……はい」

 
 ―― 都から去るだと? 馬鹿を言うのも大概にしろ!
    今日の〈術比べ〉でまた俺の名声は上がった! 
    明日からはもっと……我れも我れもと見物人が押し寄せるぞ? 
    そんな時におめおめと田舎になんぞ帰れるものか!



「欲に目の眩む人間は何処にでもいるものよ。さして驚かぬわ」
 別段、(なじ)るでもなく、座敷に座して盃を(あお)りながら橋下の陰陽師は言った。
 一方、兄の田楽師は身を翻すと吐き捨てた。
「はっきり言っておくぞ。今後のことは一切知らぬ。約束したのだからな? もう二度と我等を頼りにするなよ? この先どんな破目になろうとも」
 歩き出した足を止め肩越しに振り返って念を押した。
「たとえ、どんなことが起きようとも、な?」
「……」

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