第25話 野馬台詩~やまとし~〈4〉
文字数 6,162文字
「黄鶏代人食……これは黄鶏が人を逆に喰らうということ。黒鼠喰牛腸……これも、まんまだ、黒鼠が牛の腸を喰らう。要するに弱者の逆転を言っている、面白くも何ともない。お、帰ったのか、婆沙 丸?」
一日中、未来詩と格闘していた橋下の陰陽師。辟易した様子で詩篇を写し取った巻物から顔を上げた。
気分転換とばかり、西ノ京、秋津丸の住処から戻った弟の田楽師に纏いつく。
「それで、何か収穫はあったのか?」
「いや。具体的には何も。ただ──」
婆沙丸は浅紅色の唇をキュッと噛んだ。
今日、秋津丸の弟に抱いた違和感をどう伝えたものだろう?
遺骸が身につけていた物について執拗に尋ねてきたあの声……喉元へ伸びて来た白い指……
「おや? 何だそれは?」
陰陽師の目が興味深そうに、婆沙丸が腕に抱えている包みの上で止まった。
「え? ああ、これか。秋津丸の形見としてもらい受けてきたのじゃ」
巻いてあった絵を広げて見せる。
「これが、中々良い絵なのじゃ。秋津丸が愛でていたらしく愛用の厨子の横に貼られていた。成澄も一目見て気に入って──」
「ほう?」
有雪はその絵を今、初めて見た。と言うのも、皆がこれを見ていた時、この男は一人勝手に動き回って、例の離れを探っていたからだが。
「……野を走る馬の絵、か?」
「何処に飾ろう? あの、縁に近い壁がいいかな? 庭から陽が射して……馬たちが一層生きているみたいに見えるはず。おい、放せよ、有雪?」
しかし、陰陽師はその絵を握って放さなかった。
爛爛と輝く双眸……
「野……野 の馬 ……? 何処かでそんな言葉を……」
次の瞬間、陰陽師があげた叫び声の大きさに婆沙丸は尻餅を付いた。
「そうか!わかったぞ !」
藤原光俊は思わず振り返って闇を透かし見た。
高倉通りから二条大路に出る辺り。
何処 からか幽かに笛の音が流れて来る。
その調べは遠く天上に輝く月から零れているように少壮の三位 には思えた。思はずため息して、
「美しい夜であることよ……」
「まことに」
傍らで、静かに頷く若い武士。
自邸での宴の後、風流だから歩いて帰ると言って聞かない三位を父の命で護衛を兼ねて同道して来た。
「もう私の屋敷も近い。ここで結構です。どうぞ、お戻りになられよ」
貴人は満足げに笑った。
「御父君には大層世話になっております。今後ともどうぞ宜 しくとお伝えください」
「勿体無きお言葉。こちらこそ今後とも宜しくお付き合い願います。我等はこの京師 では新参者故、貴方様のような尊き御方のお力添えが何よりありがたいのです」
深く頭を下げる若武者。頭を上げしな、ふと気づいたという風に、ツイッと白い指が藤原三位の襟元を掠めた。
「糸屑が……」
貴人は全く気にかけなかった。が、闇から別の手が伸びてガッチリとその白魚の指を掴んだ。
「そこまでだ!」
「あ?」
そのまま背中に腕を捻じ曲げられて若武者は喘いだ。
「な、何をする?」
闇よりも更に濃い蛮絵の黒衣。検非遺使尉 ・中原成澄である。
その片方の手には未だ朱塗りの笛が握られている。先刻、響いていた笛の主も然り、この男。
「藤原三位光俊様、お下がりください。この者、少々危険なモノ を有しております故……」
「やや?」
藤原光俊が後退ったのを確認してから、成澄は厳然として若武者に命じた。
「さあ! 手の内のモノをそっとここへ移せ」
袋を差し出したのは夜目にも艶やかな装束の田楽師。
「き、貴様等……?」
若武者は歯噛みした。
「何の理由あってこんな無礼な真似をする? 私の名は大里太郎師宣 である!」
「おうよ! 貴様、名前ならまだ他にも持っていよう? そうだな、……〈暗殺者〉はどうだ? 昨今続いた京師の要人に死をもたらしたのはおまえ なれば」
「悪足掻きはやめるんだな!」
検非遺使に付き従う田楽師は二人いた。
まず一人、匂うがごとき白菊の色目の水干姿が言う。
「おまえとおまえの養い親、大里八郎師重 一党の悪事は露見している!」
続けて、もう一人、こちらの色目は蘇芳菊。
「とにかく、早いとこ隠し持っている凶器 を出せっ! おまえだって、そういつまでも自らの手の中に持っていたくはないはず」
ここで田楽師兄弟の声が重なった。
「蟲使いだった兄と違って、それの扱いにはさほど自信はなかろう、蜻蛉 丸よ?」」
「ウッ!」
大里師宣=蜻蛉丸の顔色が変わった。
ガックリと地面に膝を突く。開いた手の内よりポトリと一匹、小さな虫が落ちた。
蜘蛛だ──
「気をつけろよ!」
俊敏な動作で素早く袋を被せる田楽師に検非遺使は警告した。
「そいつに噛まれると高熱を発し……奇怪極まりない譫言 を喋り続けた挙句、ついには息絶えてしまうとか」
「で、では、昨今流行っている面妖な病いとは──」
後ろへ退いていた三位、年若い参議は思わず、前に踏み出して袋を覗き込んだ。
「こ、この蜘蛛が?」
「その通り! 流行病はその毒蜘蛛と……我等が仕業よ!」
最早ここまで。観念して蜻蛉丸は叫んだ。
「この蜘蛛は、大陸から帰国した僧が持ち帰ったものじゃ。僧は向うで、更に遠い南国の商人から譲り受けたそうな。最初はただ珍しがって飼っていたらしい」
が、野心を抱く武蔵国出身の新興の武士、大里八郎師重の手に渡ってから様相は一変する。
養子となっていた蜻蛉丸は虫好きの兄を思い出した。兄なら上手く飼育してもっと増やせるに違いない。そして、大里家の出世を邪魔する、障碍 になる人物の元へ送り込んだらどうだろう?
一方、その兄、秋津丸は長いこと自分は唐渡りの珍しい蜘蛛を育てているだけだと思っていた。
西ノ京の屋敷の、庭の離れは飼育小屋だったのだ。
蚊帳の中で毒蜘蛛たちは順調に増えて行った。そして、大里父子は当初の計画通り毒蟲を狙い定めた要人の元へ送り始める。賄賂が効かず清廉な貴人が相次いで死んで行ったのはこの為である──
「想像以上に上手く事は運んだ。兄さえ──」
地に顔を伏せて蜻蛉丸は呻いた。
「兄さえ気づかなければ……!」
だが、やがて、自分の育てている蜘蛛の恐ろしい力を秋津丸は知ってしまった。
おぞましい姦計に加担したことを悟った心優しい秋津丸は、真実を告げる決心をして正義の人と信頼される検非遺使・中原成澄の元へ走ったのだ。
「秋津丸を殺した のも、おまえだな?」
空に架かる月よりも密やかな声で検非遺使は質した。
「仕方がないさ」
答えた蜻蛉丸も静かな声だった。
「兄は真実を告げて罪を償うと言って聞かなかった。だが、このことが露見すれば我等──俺と養父 は身の破滅だ。折角ここまで成り上がったのに? ままよ、取り敢えず兄者の口さえ封じれば良い。そうすれば、万が一、虫を見られただけでは、誰も何も気づかないはずだから」
検非違使と会う約束をした兄が、〈証拠〉として生きた蜘蛛 を持ち出すはずはない、と確信していたと弟は言った。
「兄者はこの蜘蛛の恐ろしさを熟知していた。安易に持ち出して巷に逃す危険は犯すまい。増えたら大変なことになるもの。とはいえ、死骸なら証拠として持ち出すかも」
心底不思議そうに蜻蛉丸は首を傾げる。
「あの日、俺は兄の死体を懸命に調べた。そうして、ちゃんと 見つけたんだ ! 秋津丸が隠し持っていた蜘蛛の死骸を俺は回収した。だから、とりあえずは安堵していたのに。なのに、どうして、おまえたちはこの凶器、蜘蛛のことを知った ?」
「《野馬台詩》よ」
いつの間に現れたのか、白衣の陰陽師の声。
「秋津丸は別に紙片を隠し持っていたのだ。蜘蛛の死骸ばかり探していたのでおまえは見落としたな? いや、存外、最悪の場合を考えて──秋津丸は幾つも 〈証拠〉を用意していたか……」
「?」
まだよく意味が飲み込めず眉を寄せる蜻蛉 丸に陰陽師は護法のごとく一片の紙を放った。
「見ろ! これがそれ──秋津丸がその手に握っていた紙片。記してあったのは《野馬台詩》」
「おお! 吉備真備が唐より持ち帰ったというあの予言詩じゃな?」
藤原三位が思わず声を上げる。
「私も読んだことはあるが、難解な詩よの? では、おまえはあれを解読したのか?」
橋下の陰陽師は首を振った。
「今回、重要だったのは詩の内容 にあらず。題そのもの にあった!」
「?」
「最初、私は三位殿もおっしゃった通り、あの難解で複雑怪奇たる詩句に翻弄され時間を取られてしまった。が、何のことはない。《野馬台詩》を〝やまとし〟と呼んではならないのだ。
《野馬》はそのまま〝のま〟なのだ!」
蜻蛉丸を見つめて陰陽師は言う。
「知っているか? 《野馬》とは古語でそのものズバリ〝蜘蛛〟を言う。
だから、《野馬台詩》は〝のまとし〟……言い換えれば〝蜘蛛と死〟だな?」
「あ」
「おまけに──もっと教えてやろうか?」
こうなると博覧強記のこの男、止まらない。
「そもそもおまえ達兄弟の名な、秋津丸に蜻蛉丸よ? それが古語でともに〝陽炎 〟を意味し、その陽炎の語がまた〝蜘蛛〟を意味する。どうだ? このことは今回の事件に絡んで皮肉にも恐ろしい偶然の一致だな?」
「あはは……はははは……」
玻璃のように澄み切った声。突然、蜻蛉丸が笑い出した。
「あはははははは……」
暫く武者姿の若者は笑うのを止められなかった。
存分に笑った後、唐突に言った。
「あの絵を描いたのは私です。秋津丸に頼まれて」
田楽師の、どうして区別できたのだろう? 弟の方をしっかりと見据えて蜻蛉丸は言うのだ。
「私の唯一の取り柄は絵を描くことだった。風流な兄は誰よりそれを喜んで、いつも褒めてくれたものだ。そんな兄を喜ばせようと虫の絵は色々描いて来たけれど──」
その日、〈馬の絵〉を頼まれて蜻蛉丸は少々吃驚した。
蜻蛉丸が唐渡りの珍しい蜘蛛を飼育してみないか、とこれを持って行った際、秋津丸の方もニコニコして言って来たのだ。
── 珍しい蜘蛛か? ふうん? 飼ってみるかな。
でも、その代わり と言ったら何だがおまえも私の願いを聞いてくれるかい?
── 私にできることなら。
── おまえにしかできないよ。新しい絵を描いて欲しい。但し、絵柄については要望がある。
── へえ?
「偶然じゃない 。
虫が好きで……本も好きで……博学だった兄はハナから知っていたんだ。〝野馬〟が〝蜘蛛〟と同じ意味を持つことも、そしてまた、私たち兄弟の名 が同じく〝蜘蛛〟に通じることも、何もかも……!
だからこそ、あの日、蜘蛛を持ち込んだ弟に、その暗合を面白がって〈馬の絵〉を描かせた」
──馬 だって? 蜘蛛の絵じゃなく?
── そうじゃ、馬さ! 描けるか?
── 勿論、描けるよ。検非遺使や近衛が乗ってるあの、馬だろ?
── いや、飼われているのじゃなくて、野を走っている自由な馬がいいな!
それも二頭、仲良く……
「数まで細かく指定してきた。そうか? 今思うと、私たち のことだったんだな?
あの絵は私たちの写し絵だ。結局、兄が望んだのは、あの絵のごとく兄弟仲良く、楽しく、自由に生きること。それだけ……」
何事か考える風に暫く闇を見つめていた蜻蛉丸が、再び口を開いた。
「兄は蜘蛛 じゃあない 」
取り巻く一同を眺め渡して微笑んで言った。
「秋津丸は透き通った羽を持つ爽やかな蜻蛉 だった。
それを罠に誘い込んで……挙句の果てに頚 き殺した私こそが……私だけ が蜘蛛だ! 醜い……毒蜘蛛……」
蜻蛉丸の頭が不気味にガクッと折れた。
兄の時同様、細い、赤い糸が唇から滴り、白い顎を伝って首筋、そして胸へと流れ落ちる。
「しまった! 舌を噛んだな?」
検非遺使が飛びついて抱え起こした時には、一条の赤い雫は迸 って数多の糸となり地に注いだ。
それは見る見る双子の足下まで拡がって行った。
狂乱丸と婆沙丸はそっと足を曳いて、その赤い蜘蛛の巣から逃れた。
秋津丸を殺めた後、蜻蛉丸は兄が育てた蜘蛛たちを全て養子先の屋敷へ移したと思われる。
思われる、と記したのは、その夜、時を移さず衛士を率いた成澄が門前に到着した時、既に大里師実の屋敷は夜空に火の粉を散らせて炎上していたから──
新興の大里氏の野心も、おぞましい外つ国の毒蟲も、屋敷もろとも灼熱の火に焼かれて灰になってしまった。
結局、この年、京師 の人々の記憶に残ったのは、数人の清廉な要人の相次ぐ病死と、この大火事くらいのものだった。
それはそれで悲劇ではあったが──とはいえ、病いも火事も、京師ではどの年にもあるありふれた出来事に過ぎない。
「秋津や蜻蛉がその読みから〈陽炎〉と同義なのは容易にわかる。だが、何故、蜘蛛が〈陽炎〉を意味するのか? 答えは、連中の吐く糸にある。古代の人は、あの白いキラキラした糸を見て陽炎を連想したのさ!」
例によって勿体ぶって有雪が講釈を垂れている、一条堀川の田楽屋敷。
すっかり秋めいた空の下、一同縁に出て久方ぶりに音曲を楽しんでいるところ。
「それはわかったさ」
編木子 を鳴らす手を止めてうんざりした体で狂乱丸が言う。婆沙丸が続けて、
「では、蜘蛛を〈野馬〉と言うのは何故じゃ? どこも似ておらんぞ?」
「いや、だからな、元々陽炎を野馬と読んだらしい。それで、陽炎が野馬だから、蜘蛛も野馬となって……要するにだな、陽炎、野馬、蜻蛉、蜘蛛、次第にごっちゃになって……まあ、言葉なんてものはそんなもの さ!」
最後は曖昧に終わるのもいい加減なこの男らしかった。
「おい、信じないのか? 俺の言ってることは真実だぞ! 現に菅原道真も歌の中で『糸を乱る野馬は草の深き春……』なんぞと陽炎を野馬と呼んで──」
「もういいよ」
「蜘蛛が空を飛ぶのを知っているか?」
ひたすら笛を吹き続けていた検非遺使、唐突に唇から笛を放すと、
「晩秋の晴れた昼、澄んだ風に乗って蜘蛛は空を飛ぶのだと。透き通った糸を吐きながら。その糸を指に絡め取ると幸せになれるとか……」
「ふうん」
「その糸は、勿論、赤くはないんだろ?」
あれ以来、すっかり蜘蛛が嫌いになった兄弟だった。
第六話 野馬台詩 ── 了 ──
一日中、未来詩と格闘していた橋下の陰陽師。辟易した様子で詩篇を写し取った巻物から顔を上げた。
気分転換とばかり、西ノ京、秋津丸の住処から戻った弟の田楽師に纏いつく。
「それで、何か収穫はあったのか?」
「いや。具体的には何も。ただ──」
婆沙丸は浅紅色の唇をキュッと噛んだ。
今日、秋津丸の弟に抱いた違和感をどう伝えたものだろう?
遺骸が身につけていた物について執拗に尋ねてきたあの声……喉元へ伸びて来た白い指……
「おや? 何だそれは?」
陰陽師の目が興味深そうに、婆沙丸が腕に抱えている包みの上で止まった。
「え? ああ、これか。秋津丸の形見としてもらい受けてきたのじゃ」
巻いてあった絵を広げて見せる。
「これが、中々良い絵なのじゃ。秋津丸が愛でていたらしく愛用の厨子の横に貼られていた。成澄も一目見て気に入って──」
「ほう?」
有雪はその絵を今、初めて見た。と言うのも、皆がこれを見ていた時、この男は一人勝手に動き回って、例の離れを探っていたからだが。
「……野を走る馬の絵、か?」
「何処に飾ろう? あの、縁に近い壁がいいかな? 庭から陽が射して……馬たちが一層生きているみたいに見えるはず。おい、放せよ、有雪?」
しかし、陰陽師はその絵を握って放さなかった。
爛爛と輝く双眸……
「野……
次の瞬間、陰陽師があげた叫び声の大きさに婆沙丸は尻餅を付いた。
「そうか!
藤原光俊は思わず振り返って闇を透かし見た。
高倉通りから二条大路に出る辺り。
その調べは遠く天上に輝く月から零れているように少壮の
「美しい夜であることよ……」
「まことに」
傍らで、静かに頷く若い武士。
自邸での宴の後、風流だから歩いて帰ると言って聞かない三位を父の命で護衛を兼ねて同道して来た。
「もう私の屋敷も近い。ここで結構です。どうぞ、お戻りになられよ」
貴人は満足げに笑った。
「御父君には大層世話になっております。今後ともどうぞ
「勿体無きお言葉。こちらこそ今後とも宜しくお付き合い願います。我等はこの
深く頭を下げる若武者。頭を上げしな、ふと気づいたという風に、ツイッと白い指が藤原三位の襟元を掠めた。
「糸屑が……」
貴人は全く気にかけなかった。が、闇から別の手が伸びてガッチリとその白魚の指を掴んだ。
「そこまでだ!」
「あ?」
そのまま背中に腕を捻じ曲げられて若武者は喘いだ。
「な、何をする?」
闇よりも更に濃い蛮絵の黒衣。
その片方の手には未だ朱塗りの笛が握られている。先刻、響いていた笛の主も然り、この男。
「藤原三位光俊様、お下がりください。この者、少々
「やや?」
藤原光俊が後退ったのを確認してから、成澄は厳然として若武者に命じた。
「さあ! 手の内のモノをそっとここへ移せ」
袋を差し出したのは夜目にも艶やかな装束の田楽師。
「き、貴様等……?」
若武者は歯噛みした。
「何の理由あってこんな無礼な真似をする? 私の名は大里太郎
「おうよ! 貴様、名前ならまだ他にも持っていよう? そうだな、……〈暗殺者〉はどうだ? 昨今続いた京師の要人に死をもたらしたのは
「悪足掻きはやめるんだな!」
検非遺使に付き従う田楽師は二人いた。
まず一人、匂うがごとき白菊の色目の水干姿が言う。
「おまえとおまえの養い親、大里八郎
続けて、もう一人、こちらの色目は蘇芳菊。
「とにかく、早いとこ隠し持っている
ここで田楽師兄弟の声が重なった。
「蟲使いだった兄と違って、それの扱いにはさほど自信はなかろう、
「ウッ!」
大里師宣=蜻蛉丸の顔色が変わった。
ガックリと地面に膝を突く。開いた手の内よりポトリと一匹、小さな虫が落ちた。
蜘蛛だ──
「気をつけろよ!」
俊敏な動作で素早く袋を被せる田楽師に検非遺使は警告した。
「そいつに噛まれると高熱を発し……奇怪極まりない
「で、では、昨今流行っている面妖な病いとは──」
後ろへ退いていた三位、年若い参議は思わず、前に踏み出して袋を覗き込んだ。
「こ、この蜘蛛が?」
「その通り! 流行病はその毒蜘蛛と……我等が仕業よ!」
最早ここまで。観念して蜻蛉丸は叫んだ。
「この蜘蛛は、大陸から帰国した僧が持ち帰ったものじゃ。僧は向うで、更に遠い南国の商人から譲り受けたそうな。最初はただ珍しがって飼っていたらしい」
が、野心を抱く武蔵国出身の新興の武士、大里八郎師重の手に渡ってから様相は一変する。
養子となっていた蜻蛉丸は虫好きの兄を思い出した。兄なら上手く飼育してもっと増やせるに違いない。そして、大里家の出世を邪魔する、
一方、その兄、秋津丸は長いこと自分は唐渡りの珍しい蜘蛛を育てているだけだと思っていた。
西ノ京の屋敷の、庭の離れは飼育小屋だったのだ。
蚊帳の中で毒蜘蛛たちは順調に増えて行った。そして、大里父子は当初の計画通り毒蟲を狙い定めた要人の元へ送り始める。賄賂が効かず清廉な貴人が相次いで死んで行ったのはこの為である──
「想像以上に上手く事は運んだ。兄さえ──」
地に顔を伏せて蜻蛉丸は呻いた。
「兄さえ気づかなければ……!」
だが、やがて、自分の育てている蜘蛛の恐ろしい力を秋津丸は知ってしまった。
おぞましい姦計に加担したことを悟った心優しい秋津丸は、真実を告げる決心をして正義の人と信頼される検非遺使・中原成澄の元へ走ったのだ。
「
空に架かる月よりも密やかな声で検非遺使は質した。
「仕方がないさ」
答えた蜻蛉丸も静かな声だった。
「兄は真実を告げて罪を償うと言って聞かなかった。だが、このことが露見すれば我等──
検非違使と会う約束をした兄が、〈証拠〉として
「兄者はこの蜘蛛の恐ろしさを熟知していた。安易に持ち出して巷に逃す危険は犯すまい。増えたら大変なことになるもの。とはいえ、死骸なら証拠として持ち出すかも」
心底不思議そうに蜻蛉丸は首を傾げる。
「あの日、俺は兄の死体を懸命に調べた。そうして、
「《野馬台詩》よ」
いつの間に現れたのか、白衣の陰陽師の声。
「秋津丸は別に紙片を隠し持っていたのだ。蜘蛛の死骸ばかり探していたのでおまえは見落としたな? いや、存外、最悪の場合を考えて──秋津丸は
「?」
まだよく意味が飲み込めず眉を寄せる
「見ろ! これがそれ──秋津丸がその手に握っていた紙片。記してあったのは《野馬台詩》」
「おお! 吉備真備が唐より持ち帰ったというあの予言詩じゃな?」
藤原三位が思わず声を上げる。
「私も読んだことはあるが、難解な詩よの? では、おまえはあれを解読したのか?」
橋下の陰陽師は首を振った。
「今回、重要だったのは
「?」
「最初、私は三位殿もおっしゃった通り、あの難解で複雑怪奇たる詩句に翻弄され時間を取られてしまった。が、何のことはない。《野馬台詩》を〝やまとし〟と呼んではならないのだ。
《野馬》はそのまま〝のま〟なのだ!」
蜻蛉丸を見つめて陰陽師は言う。
「知っているか? 《野馬》とは古語でそのものズバリ〝蜘蛛〟を言う。
だから、《野馬台詩》は〝のまとし〟……言い換えれば〝蜘蛛と死〟だな?」
「あ」
「おまけに──もっと教えてやろうか?」
こうなると博覧強記のこの男、止まらない。
「そもそもおまえ達兄弟の名な、秋津丸に蜻蛉丸よ? それが古語でともに〝
「あはは……はははは……」
玻璃のように澄み切った声。突然、蜻蛉丸が笑い出した。
「あはははははは……」
暫く武者姿の若者は笑うのを止められなかった。
存分に笑った後、唐突に言った。
「あの絵を描いたのは私です。秋津丸に頼まれて」
田楽師の、どうして区別できたのだろう? 弟の方をしっかりと見据えて蜻蛉丸は言うのだ。
「私の唯一の取り柄は絵を描くことだった。風流な兄は誰よりそれを喜んで、いつも褒めてくれたものだ。そんな兄を喜ばせようと虫の絵は色々描いて来たけれど──」
その日、〈馬の絵〉を頼まれて蜻蛉丸は少々吃驚した。
蜻蛉丸が唐渡りの珍しい蜘蛛を飼育してみないか、とこれを持って行った際、秋津丸の方もニコニコして言って来たのだ。
── 珍しい蜘蛛か? ふうん? 飼ってみるかな。
でも、
── 私にできることなら。
── おまえにしかできないよ。新しい絵を描いて欲しい。但し、絵柄については要望がある。
── へえ?
「
虫が好きで……本も好きで……博学だった兄はハナから知っていたんだ。〝野馬〟が〝蜘蛛〟と同じ意味を持つことも、そしてまた、
だからこそ、あの日、蜘蛛を持ち込んだ弟に、その暗合を面白がって〈馬の絵〉を描かせた」
──
── そうじゃ、馬さ! 描けるか?
── 勿論、描けるよ。検非遺使や近衛が乗ってるあの、馬だろ?
── いや、飼われているのじゃなくて、野を走っている自由な馬がいいな!
それも二頭、仲良く……
「数まで細かく指定してきた。そうか? 今思うと、
あの絵は私たちの写し絵だ。結局、兄が望んだのは、あの絵のごとく兄弟仲良く、楽しく、自由に生きること。それだけ……」
何事か考える風に暫く闇を見つめていた蜻蛉丸が、再び口を開いた。
「
取り巻く一同を眺め渡して微笑んで言った。
「秋津丸は透き通った羽を持つ爽やかな
それを罠に誘い込んで……挙句の果てに
蜻蛉丸の頭が不気味にガクッと折れた。
兄の時同様、細い、赤い糸が唇から滴り、白い顎を伝って首筋、そして胸へと流れ落ちる。
「しまった! 舌を噛んだな?」
検非遺使が飛びついて抱え起こした時には、一条の赤い雫は
それは見る見る双子の足下まで拡がって行った。
狂乱丸と婆沙丸はそっと足を曳いて、その赤い蜘蛛の巣から逃れた。
秋津丸を殺めた後、蜻蛉丸は兄が育てた蜘蛛たちを全て養子先の屋敷へ移したと思われる。
思われる、と記したのは、その夜、時を移さず衛士を率いた成澄が門前に到着した時、既に大里師実の屋敷は夜空に火の粉を散らせて炎上していたから──
新興の大里氏の野心も、おぞましい外つ国の毒蟲も、屋敷もろとも灼熱の火に焼かれて灰になってしまった。
結局、この年、
それはそれで悲劇ではあったが──とはいえ、病いも火事も、京師ではどの年にもあるありふれた出来事に過ぎない。
「秋津や蜻蛉がその読みから〈陽炎〉と同義なのは容易にわかる。だが、何故、蜘蛛が〈陽炎〉を意味するのか? 答えは、連中の吐く糸にある。古代の人は、あの白いキラキラした糸を見て陽炎を連想したのさ!」
例によって勿体ぶって有雪が講釈を垂れている、一条堀川の田楽屋敷。
すっかり秋めいた空の下、一同縁に出て久方ぶりに音曲を楽しんでいるところ。
「それはわかったさ」
「では、蜘蛛を〈野馬〉と言うのは何故じゃ? どこも似ておらんぞ?」
「いや、だからな、元々陽炎を野馬と読んだらしい。それで、陽炎が野馬だから、蜘蛛も野馬となって……要するにだな、陽炎、野馬、蜻蛉、蜘蛛、次第にごっちゃになって……まあ、言葉なんてものは
最後は曖昧に終わるのもいい加減なこの男らしかった。
「おい、信じないのか? 俺の言ってることは真実だぞ! 現に菅原道真も歌の中で『糸を乱る野馬は草の深き春……』なんぞと陽炎を野馬と呼んで──」
「もういいよ」
「蜘蛛が空を飛ぶのを知っているか?」
ひたすら笛を吹き続けていた検非遺使、唐突に唇から笛を放すと、
「晩秋の晴れた昼、澄んだ風に乗って蜘蛛は空を飛ぶのだと。透き通った糸を吐きながら。その糸を指に絡め取ると幸せになれるとか……」
「ふうん」
「その糸は、勿論、赤くはないんだろ?」
あれ以来、すっかり蜘蛛が嫌いになった兄弟だった。
第六話 野馬台詩 ── 了 ──