第57話 鄙の怪異 〈3〉
文字数 2,285文字
緑濃い山があり、蕩蕩と川が流れ、早苗は風に靡き……
広がる青田を縁取るように今盛りの菖蒲、躑躅、夾竹桃の花々が咲き競っている……
犬飼の住む鄙 は絵に描いたごとく長閑 で美しい土地であった。
ところで、有雪は、見え隠れしてついて来る娘の姿が気になって仕方なかった。
邑 に入ってから、ずっとまとわりついて、傍を離れない。
だが、そのことは敢えて口にしなかった。
「ここじゃ、ここじゃ」
「ほう? こりゃまた物凄い邸だな!」
成澄が感嘆の声を上げるのも無理はない。
受領 の住まいは鄙の邑とは思えない堂々たる四つ足門の豪邸だった。
門を潜ると舎人と思しき一人が飛んで来た。装束から見て牛飼い童だ。
この時代、牛飼いは〝童〟と呼ばれるが、成人である。
この職種もまた烏帽子を許されず、禿 頭の童形と定められていた。 ※禿=おかっぱ
《御堂関白記》や《左経記》、《中右記》等、当時の貴族の日記には、群衆の喧嘩の場面に必ず登場する牛飼い童。荒々しく血気盛んな性格の者が多かったようだが、眼前の青年は優しげな風貌だった。
年の頃は二十二、三か。
「あ、これは、犬飼殿!」
「おう、飛騨 丸! 今戻ったぞ!
資遠 様に頼まれた、都で名高い陰陽師、無事お連れした。
すぐにでも会わせたい。取り次いでくれないか?」
飛騨丸と呼ばれた牛飼いは顔を曇らせた。
「ご主人様はお留守でございます」
「え? 〈呪詛〉が恐ろしいとあんなに怯えて引き篭っていたのにかよ?」
「はい、急な客人を迎えに安芸 丸を連れて牛車で出て行かれました。
私は留守を仰せつかっております」
「どうする? 出直すか?」
問う有雪にアヤツコは首を振った。
「せっかくだ。出直すのも何なので──おまえには先に、奥方が亡くなった室 を見てもらおう。上がらせてもらうぞ、飛騨丸!」
「あ、はい」
「おお、これは凄まじい……」
犬飼が導いたそこは邸の西の対屋 。
「奥方の亡骸を運び出した後、悪霊が潜んでいるのではないかと恐ろしがって、誰も入ろうとしないのじゃ。だから、何も手をつけていない」
錦を散らしたごとく床に散乱した袿 の波。
豪壮な邸も然ることながら、これら装束を見ても、いかに受領が裕福かわかるというものだ。
これでは妬まれて、呪われても不思議ではないかも。
「この衣装の数! どこぞのお姫様だな!」
成澄が隻眼の目を瞠った。
「まさか、装束の重みで息ができなくなったわけでもあるまい?」
有雪らしい、これは皮肉である。そう言いながら室内をザッと一瞥した。
床に重なる装束は既に見た。それ以外の諸々 ──
几帳、二階棚、屏風等、家具調度の類から、貝桶、唐櫃、伏せ籠、漆塗りの角盥 。
都の貴人宅にある物は遜色なく揃っている。
琵琶から箏 の琴の楽器に至るまで……!
改めて、鄙に住むとはいえ、受領の雅びな暮らしぶりに思いを馳せる陰陽師と検非遺使だった。
「で、奥方はどんな様子で息絶えていたのだ?」
「飛騨丸に聞こう。最初に死骸を見つけたのは下仕えの女だが、俺が受領に呼ばれた時には既に実家へ逃げ帰った後だった。呪詛の巻き添えを食ってはと、他の舎人たちも同様に暇を取ってしまって──
だから、詳細を知るのは残っている牛飼いたちだけじゃ」
「牛飼いたちは豪気だからなあ!」
妙に納得する成澄。
犬飼は縁に出て飛騨丸を呼んだ。
「奥方様が亡くなっていた時の様子をできるだけ詳しく、この陰陽師殿に話してやってくれ」
「はい。下仕えの浅茅 様の叫び声を聞いてすぐ、私と安芸丸は駆けつけました。
そして、袿に埋まるようにして倒れている奥方様のお姿を見ました」
「それで、どうした?」
「ご主人様がいらっしゃるまで、ここに控えておりました」
ここ とは、今、牛飼いが膝を突いている場所、縁のすぐ下の庭のことだ。
「上には──邸には上がらなかったのか?」
「はい、もちろんです。私どもは許されておりませんから」
「それでは、この者に話を聞いても何もわからぬなあ」
「そんなことは俺が判断する。弟子のおまえはいらぬことを言わなくても良い。おとなしく控えていろ、ナリユキ 」
「グッ」
歯噛みする検非遺使を笑いを殺して眺めつつ、有雪は腕を組んだ。
「ふうむ、飛騨丸とやら。おまえたち牛飼いが駆けつけた時、奥方の室の襖は開いていたのか?」
「はい。浅茅様が開けられて、それで、惨状を発見されたようです」
「では、その召使が開けるまで室は塞がれていたのだな?」
「多分、そうだと思います」
「そりゃそうだろ! 犬飼も最初に言っていたじゃないか。『奥方は物忌の最中なのに新しい袿の試し着をされていた』と。そんなのこっそりやるに決まっているから、見られないように室の襖は閉じてて当然だ!」
「おまえは黙ってろ、ナリユキ」
「これは何事じゃ? おまえたち、人の邸で何をやっておる?」
ここで足音荒く入って来た人物があった。
「あ、これは資遠様? ご要望の都の陰陽師です。連れてまいりました!」
破顔して告げる犬飼だったが──
「おまえか? アヤツコとかいう奴は? 犬飼風情がでしゃばった真似をしたものじゃ!」
「?」
主 の資遠を押しのけて前に出たのは狩衣姿の青年だった。
広がる青田を縁取るように今盛りの菖蒲、躑躅、夾竹桃の花々が咲き競っている……
犬飼の住む
ところで、有雪は、見え隠れしてついて来る娘の姿が気になって仕方なかった。
だが、そのことは敢えて口にしなかった。
「ここじゃ、ここじゃ」
「ほう? こりゃまた物凄い邸だな!」
成澄が感嘆の声を上げるのも無理はない。
門を潜ると舎人と思しき一人が飛んで来た。装束から見て牛飼い童だ。
この時代、牛飼いは〝童〟と呼ばれるが、成人である。
この職種もまた烏帽子を許されず、
《御堂関白記》や《左経記》、《中右記》等、当時の貴族の日記には、群衆の喧嘩の場面に必ず登場する牛飼い童。荒々しく血気盛んな性格の者が多かったようだが、眼前の青年は優しげな風貌だった。
年の頃は二十二、三か。
「あ、これは、犬飼殿!」
「おう、
すぐにでも会わせたい。取り次いでくれないか?」
飛騨丸と呼ばれた牛飼いは顔を曇らせた。
「ご主人様はお留守でございます」
「え? 〈呪詛〉が恐ろしいとあんなに怯えて引き篭っていたのにかよ?」
「はい、急な客人を迎えに
私は留守を仰せつかっております」
「どうする? 出直すか?」
問う有雪にアヤツコは首を振った。
「せっかくだ。出直すのも何なので──おまえには先に、奥方が亡くなった
「あ、はい」
「おお、これは凄まじい……」
犬飼が導いたそこは邸の西の
「奥方の亡骸を運び出した後、悪霊が潜んでいるのではないかと恐ろしがって、誰も入ろうとしないのじゃ。だから、何も手をつけていない」
錦を散らしたごとく床に散乱した
豪壮な邸も然ることながら、これら装束を見ても、いかに受領が裕福かわかるというものだ。
これでは妬まれて、呪われても不思議ではないかも。
「この衣装の数! どこぞのお姫様だな!」
成澄が隻眼の目を瞠った。
「まさか、装束の重みで息ができなくなったわけでもあるまい?」
有雪らしい、これは皮肉である。そう言いながら室内をザッと一瞥した。
床に重なる装束は既に見た。それ以外の
几帳、二階棚、屏風等、家具調度の類から、貝桶、唐櫃、伏せ籠、漆塗りの
都の貴人宅にある物は遜色なく揃っている。
琵琶から
改めて、鄙に住むとはいえ、受領の雅びな暮らしぶりに思いを馳せる陰陽師と検非遺使だった。
「で、奥方はどんな様子で息絶えていたのだ?」
「飛騨丸に聞こう。最初に死骸を見つけたのは下仕えの女だが、俺が受領に呼ばれた時には既に実家へ逃げ帰った後だった。呪詛の巻き添えを食ってはと、他の舎人たちも同様に暇を取ってしまって──
だから、詳細を知るのは残っている牛飼いたちだけじゃ」
「牛飼いたちは豪気だからなあ!」
妙に納得する成澄。
犬飼は縁に出て飛騨丸を呼んだ。
「奥方様が亡くなっていた時の様子をできるだけ詳しく、この陰陽師殿に話してやってくれ」
「はい。下仕えの
そして、袿に埋まるようにして倒れている奥方様のお姿を見ました」
「それで、どうした?」
「ご主人様がいらっしゃるまで、ここに控えておりました」
「上には──邸には上がらなかったのか?」
「はい、もちろんです。私どもは許されておりませんから」
「それでは、この者に話を聞いても何もわからぬなあ」
「そんなことは俺が判断する。弟子のおまえはいらぬことを言わなくても良い。おとなしく控えていろ、
「グッ」
歯噛みする検非遺使を笑いを殺して眺めつつ、有雪は腕を組んだ。
「ふうむ、飛騨丸とやら。おまえたち牛飼いが駆けつけた時、奥方の室の襖は開いていたのか?」
「はい。浅茅様が開けられて、それで、惨状を発見されたようです」
「では、その召使が開けるまで室は塞がれていたのだな?」
「多分、そうだと思います」
「そりゃそうだろ! 犬飼も最初に言っていたじゃないか。『奥方は物忌の最中なのに新しい袿の試し着をされていた』と。そんなのこっそりやるに決まっているから、見られないように室の襖は閉じてて当然だ!」
「おまえは黙ってろ、ナリユキ」
「これは何事じゃ? おまえたち、人の邸で何をやっておる?」
ここで足音荒く入って来た人物があった。
「あ、これは資遠様? ご要望の都の陰陽師です。連れてまいりました!」
破顔して告げる犬飼だったが──
「おまえか? アヤツコとかいう奴は? 犬飼風情がでしゃばった真似をしたものじゃ!」
「?」