第43話 小蕾(しょうらい)〈6〉
文字数 3,665文字
夜になって、険しい顔でやって来た成澄 を見て、狂乱 丸は言った。
「俺を追捕しに来たな、成澄?」
罪状は天下の執政・左大臣藤原頼長 の娘を殺した罪……
成澄は笑った。悽愴な笑いだった。
「違うさ。むしろ、謝りに、だ」
俺も知らなかったのだ、と検非遺使尉 は前置きしてから、教えてくれた。
頼長の姫君は命幾ばくもない身だった。
田楽を自邸の庭で舞わせたのも、もはやいつ儚くなっても仕方がないと宣告された娘を思えばこそ、天下に悪左府と呼ばれる男の悲しい親心だった。
「姫は生まれつき心の臓に欠陥があったとか。もはや加持祈祷も聞かぬ、いつ阿弥陀様がお迎えに来ても不思議ではない状態であったと。だから、今日の出来事はおまえには一切関わりはない」
「関わりがないことはないだろう?」
青白い頬ながら狂乱丸はきっぱりと言った。
「姫は、俺が飛礫 に当たるのを避けさせようと無理をした。あんなに全力で走ったがために──それが命取りになった……」
それにしても、何故?
狂乱丸は訝 しんだ。
何故、あんなに早く、御簾 の後ろにいた姫が、誰よりも先 に飛礫の飛来に気づいたのだろう?
まるで、知っているように俊敏な動きだった……
「あのな、ここだけの話、恋した男の腕の中で死んだことを父君は喜んでおられた。だから、この話はこれまでだ」
「──」
まるで 、知っていたような だと?
狂乱丸はハッとした。身を翻 して自室に駆け戻る。
「あ、おい、狂乱丸? 俺の言ったこと、ちゃんと聞いていたのか──」
「まさか……」
文机 の周りを懸命に探す。
有雪 にもらったはいいが、気にもかけず、それっきり放ってあったあの袋……
何処にもなかった。机の周囲だけではなく室中を捜したが、結局見つけることはできなかった。
改めて、机の上にポツンと乗っている文 に目をやる。
「──」
その時、庭で影が動いた。いつ舞い戻ったのか橋下 の陰陽師 が立っていた。
急いで文を掴むと狂乱丸も庭へ跳び降りた。
「有雪! あの袋の中には何が入っていた? 石だろう?」
有雪は答えない。
「おまえ、ハナから、あんな袋、俺が放って置くとわかっていたな? あれは俺に見せるためのものじゃなかったんじゃないのか?」
狂乱丸は裸足のまま詰め寄った。
「あの袋を誰が見るか おまえはわかっていたのだろう?」
「さあな」
「いいさ、とぼけてろ! 明日、芳心 丸を呼び出して問い質してやる! きっとあいつが、この姉君の文を届けた際、部屋に入って袋を持ち帰ったんだ!」
そして? 姉君に渡した。危険を告げる袋だと言って。
中にあるもの──石──を姫は見た。石……飛礫の暗合と姫は読んだ。祭りとなれば印字打ちも起ころう。だから、予 め気を配って警戒していたのだ。
そうして、誰よりも早く動くことができた……
「芳心丸め! いらぬ真似をしたものじゃ! 明日会ったら、ただじゃ済まさぬ!」
「無理じゃ。芳心丸には会えないさ。まだ気づかないのか?」
陰陽師は言った。
「芳心丸など存在しない」
「貴様! この期に及んでまた、あれは物怪 だったなどと吐 かすのかよ?」
悲しげに有雪は首を振った。
「芳心丸は春苑 姫じゃ」
「え?」
「おまえに惚れていた姫はな、死ぬ前に何としてもおまえの傍 にいたいと俺に頼み込んだ。
それで、少年ならまだしも拒絶されないだろうと俺が知恵を貸して、童形になったのさ。
言うまでもなく、〝芳心丸〟の名を授けたのも俺じゃ。いい名だったろう? あれは姫にぴったりだったな!」
「何てこった……」
力が抜けてしまって狂乱丸はその場に膝を突いた。
「クソッ、それでは、俺は……俺は、姫にまんまと騙 されたわけか……」
「お互い様だろう?」
呵呵 笑う陰陽師だった。
「おまえ だって、姫を騙したくせに。婆沙 丸のふりをして──いや、違う、おまえに化けた婆沙丸のふりをして姫に会いに行った……」
狂乱丸は微苦笑した。
「あの時は、本当に姫が打ちのめされて俺を諦めるか、この目で見届けたかったからな。だが、そんな非情な真似、婆沙丸にはできないだろう? あいつには絶対無理だから、俺が行ったまでじゃ」
(そうか? 姫が芳心丸でもあったのか……?)
「あ!」
手に握っていた姫からの文に目をやる狂乱丸。
「それでわかった! この、歌の前の詞書 の意味。
〝とりかえばや〟は俺と婆沙丸のことだけじゃなく、姫自身のことも指していたのだな? 春苑姫と芳心丸……」
覗き込みながら有雪、
「まあ、理由はどうあれ、おまえはいいことをしたよ。替え玉に婆沙丸をやるよりはずっといい。
姫をこんなに喜ばせたのだから……!」
「?」
「おいおい、ちゃんと読んだんだろう? まさか、意味がわかってなかったのか?」
とりかえばや おきのうえ このぬのを
はるのその くれないにおう しょうらいの
かはらぬおもい とはぬきみはも
「おきのうえ、〈お〉と〈き〉の上を取り替えてみろ。それから、〈ぬ〉を〈の〉に取り替える」
言われた通りにして狂乱丸は読み上げた。
「 はるのその くれないにおう しょうらいの
とはのおもい かわらぬきみはも…… 」
すかさず橋下の陰陽師が解説した。
「かわらぬきみ……『あなたは入れ替わってはおられませんでした。ご自身でいらっしやいましたね?』か。
中々やるな、春苑姫? 取り替えても、二つとも情熱的な、恋の歌じゃ!」
春の苑 紅匂う小蕾 の 変わらぬ思い 問わぬ君はも
春の苑 紅匂う小蕾の 永遠の思い 変わらぬ君はも
── 私の永遠の恋心を本物の狂乱丸様 へ捧げます!
悪戯っぽく笑う姫の顔が見えた気がした。
薄紙を握ったまま立ち尽くす田楽師に、いつからそこにいたのか、検非遺使が、この男にしては信じられないくらい風雅な言葉を投げかけた。
「行ってやれよ、狂乱丸」
成澄は言った。
「今夜、夢で行ってやれ」
「?」
前に一度、成澄は有雪と話し込んだことがある。
三途の川を女は最初に契った男に背負われて渡ると言う、他愛ない伝承が平安のこの時代、流布していた。
ならば、誰とも契ることなく、あたら若い命を蕾のまま散らした娘たちはどうなるのだろう?
その可憐な足を冷たい水に濡らして、一人、渡れというのかよ?
「狂乱丸、おまえがおぶって渡らせてやれ……!」
深更。
有雪は辻で待っていた。
来た──
ヒタヒタと近づいてくる跫 。
果たしてその美少年は……
「芳心丸!」
有雪は名を呼んで引き止めた。
「その装束 はダメじや! 俺が授けた策だが、もういいよ。着替えておいで」
陰陽師は優しく笑って言った。
「大丈夫。狂乱丸はちゃんと待っておるわ。だから──着替えておいで」
パッと零れる紅色の微笑み。
言い終わると、有雪は踵 を返した。
が、一度だけ、好奇心を抑えられなくなって振り返った。
莟紅梅 の色目……その鮮やかな袿 を翻して駆けて行く少女の姿が見えた。
「……それでいい、その方が似合うぞ、春苑姫」
目指す先には、川の畔 で待つ田楽師の冴え冴えとした横顔。
もう二度と有雪は振り返りはしなかった。
サッサと足を運んでその場を去りながら、背中で、大層嬉しげな叫び声を聞いたのだった。
── 狂乱丸様ーーーーっ!
今夜くらいは誰にも邪魔されずにゆっくり眠りたいものだと橋下の陰陽師は思った。
+
この一連の事柄については《兵範記》に短い記述が載っている。
〈 仁平三年(1153)四月二十八、二十九日の条
藤原頼長の十四歳になる娘が田楽の見物中に倒れ、間もなく死亡した…… 〉
── 了 ──
☆本編内の漢詩は
元好問 の七言絶句「児輩と同 に未だ開かざる海棠を賦 す」から引用しています。
☆とりかえばや……は実は3つ。
有雪が行ったのは〈夢代え〉の呪術。不吉な夢を良い夢に取り代えました。
こんなことできるとは、ひょっとして有雪、案外凄い陰陽師なのかも?
「俺を追捕しに来たな、成澄?」
罪状は天下の執政・左大臣
成澄は笑った。悽愴な笑いだった。
「違うさ。むしろ、謝りに、だ」
俺も知らなかったのだ、と
頼長の姫君は命幾ばくもない身だった。
田楽を自邸の庭で舞わせたのも、もはやいつ儚くなっても仕方がないと宣告された娘を思えばこそ、天下に悪左府と呼ばれる男の悲しい親心だった。
「姫は生まれつき心の臓に欠陥があったとか。もはや加持祈祷も聞かぬ、いつ阿弥陀様がお迎えに来ても不思議ではない状態であったと。だから、今日の出来事はおまえには一切関わりはない」
「関わりがないことはないだろう?」
青白い頬ながら狂乱丸はきっぱりと言った。
「姫は、俺が
それにしても、何故?
狂乱丸は
何故、あんなに早く、
まるで、知っているように俊敏な動きだった……
「あのな、ここだけの話、恋した男の腕の中で死んだことを父君は喜んでおられた。だから、この話はこれまでだ」
「──」
狂乱丸はハッとした。身を
「あ、おい、狂乱丸? 俺の言ったこと、ちゃんと聞いていたのか──」
「まさか……」
何処にもなかった。机の周囲だけではなく室中を捜したが、結局見つけることはできなかった。
改めて、机の上にポツンと乗っている
「──」
その時、庭で影が動いた。いつ舞い戻ったのか
急いで文を掴むと狂乱丸も庭へ跳び降りた。
「有雪! あの袋の中には何が入っていた? 石だろう?」
有雪は答えない。
「おまえ、ハナから、あんな袋、俺が放って置くとわかっていたな? あれは俺に見せるためのものじゃなかったんじゃないのか?」
狂乱丸は裸足のまま詰め寄った。
「あの袋を
「さあな」
「いいさ、とぼけてろ! 明日、
そして? 姉君に渡した。危険を告げる袋だと言って。
中にあるもの──石──を姫は見た。石……飛礫の暗合と姫は読んだ。祭りとなれば印字打ちも起ころう。だから、
そうして、誰よりも早く動くことができた……
「芳心丸め! いらぬ真似をしたものじゃ! 明日会ったら、ただじゃ済まさぬ!」
「無理じゃ。芳心丸には会えないさ。まだ気づかないのか?」
陰陽師は言った。
「芳心丸など存在しない」
「貴様! この期に及んでまた、あれは
悲しげに有雪は首を振った。
「芳心丸は
「え?」
「おまえに惚れていた姫はな、死ぬ前に何としてもおまえの
それで、少年ならまだしも拒絶されないだろうと俺が知恵を貸して、童形になったのさ。
言うまでもなく、〝芳心丸〟の名を授けたのも俺じゃ。いい名だったろう? あれは姫にぴったりだったな!」
「何てこった……」
力が抜けてしまって狂乱丸はその場に膝を突いた。
「クソッ、それでは、俺は……俺は、姫にまんまと
「お互い様だろう?」
「
狂乱丸は微苦笑した。
「あの時は、本当に姫が打ちのめされて俺を諦めるか、この目で見届けたかったからな。だが、そんな非情な真似、婆沙丸にはできないだろう? あいつには絶対無理だから、俺が行ったまでじゃ」
(そうか? 姫が芳心丸でもあったのか……?)
「あ!」
手に握っていた姫からの文に目をやる狂乱丸。
「それでわかった! この、歌の前の
〝とりかえばや〟は俺と婆沙丸のことだけじゃなく、姫自身のことも指していたのだな? 春苑姫と芳心丸……」
覗き込みながら有雪、
「まあ、理由はどうあれ、おまえはいいことをしたよ。替え玉に婆沙丸をやるよりはずっといい。
姫をこんなに喜ばせたのだから……!」
「?」
「おいおい、ちゃんと読んだんだろう? まさか、意味がわかってなかったのか?」
とりかえばや おきのうえ このぬのを
はるのその くれないにおう しょうらいの
かはらぬおもい とはぬきみはも
「おきのうえ、〈お〉と〈き〉の上を取り替えてみろ。それから、〈ぬ〉を〈の〉に取り替える」
言われた通りにして狂乱丸は読み上げた。
「 はるのその くれないにおう しょうらいの
とはのおもい かわらぬきみはも…… 」
すかさず橋下の陰陽師が解説した。
「かわらぬきみ……『あなたは入れ替わってはおられませんでした。ご自身でいらっしやいましたね?』か。
中々やるな、春苑姫? 取り替えても、二つとも情熱的な、恋の歌じゃ!」
春の苑 紅匂う
春の苑 紅匂う小蕾の 永遠の思い 変わらぬ君はも
── 私の永遠の恋心を
悪戯っぽく笑う姫の顔が見えた気がした。
薄紙を握ったまま立ち尽くす田楽師に、いつからそこにいたのか、検非遺使が、この男にしては信じられないくらい風雅な言葉を投げかけた。
「行ってやれよ、狂乱丸」
成澄は言った。
「今夜、夢で行ってやれ」
「?」
前に一度、成澄は有雪と話し込んだことがある。
三途の川を女は最初に契った男に背負われて渡ると言う、他愛ない伝承が平安のこの時代、流布していた。
ならば、誰とも契ることなく、あたら若い命を蕾のまま散らした娘たちはどうなるのだろう?
その可憐な足を冷たい水に濡らして、一人、渡れというのかよ?
「狂乱丸、おまえがおぶって渡らせてやれ……!」
深更。
有雪は辻で待っていた。
来た──
ヒタヒタと近づいてくる
果たしてその美少年は……
「芳心丸!」
有雪は名を呼んで引き止めた。
「その
陰陽師は優しく笑って言った。
「大丈夫。狂乱丸はちゃんと待っておるわ。だから──着替えておいで」
パッと零れる紅色の微笑み。
言い終わると、有雪は
が、一度だけ、好奇心を抑えられなくなって振り返った。
「……それでいい、その方が似合うぞ、春苑姫」
目指す先には、川の
もう二度と有雪は振り返りはしなかった。
サッサと足を運んでその場を去りながら、背中で、大層嬉しげな叫び声を聞いたのだった。
── 狂乱丸様ーーーーっ!
今夜くらいは誰にも邪魔されずにゆっくり眠りたいものだと橋下の陰陽師は思った。
+
この一連の事柄については《兵範記》に短い記述が載っている。
〈 仁平三年(1153)四月二十八、二十九日の条
藤原頼長の十四歳になる娘が田楽の見物中に倒れ、間もなく死亡した…… 〉
── 了 ──
☆本編内の漢詩は
☆とりかえばや……は実は3つ。
有雪が行ったのは〈夢代え〉の呪術。不吉な夢を良い夢に取り代えました。
こんなことできるとは、ひょっとして有雪、案外凄い陰陽師なのかも?