第56話 鄙の怪異〈2〉

文字数 2,666文字

 犬飼は話を続けた。
 子供の時同様、品の良い端整な面貌。
 違っているとしたら、予想以上に逞しく成長した体躯と、日に焼けた肌の色くらいか。
 知り合った頃のこの男はほっそりとして華奢だった。
 額の傷──犬字──は、前髪を下ろしているので見えなかった。
「それでな、受領(ずりょう)が言うには、〈呪詛〉には〈呪詛返し〉が有効だそうだな?
 それを是非、やってほしいそうじゃ」
「──」
 薄汚れた白衣の腕を組んで黙ってここまで聞いていた橋下の陰陽師、やおら顔を上げると言った。
「確かに、その種の術はある。
 だが、今回の件、〈呪詛〉と決まったわけではないのだろう?
 余程のことがない限り俺たち陰陽師も〈呪詛返し〉には手を染めぬ。
 自分に返ってくるからな。危険なのじゃ」
「へえ! そうなのか?」
 
 《宇治拾遺物語》にこの種の説話が残されている。小槻茂助の話である。
 小槻茂助は大学寮の算博士だった。
 身辺に異常を感じ、陰陽師に相談したところ〈呪詛〉されたとわかった。
 陰陽師には即刻、家に閉じ篭るよう助言された。が、その教えを破り、引き戸から顔を出してたった一言、外の人間と話したために呪殺されてしまった。
 だが、この話の恐ろしいのは、ほどなく〈呪詛〉を仕掛けた側の人間も悶死したと記されていること。
 人を呪わば穴二つ。
 〈呪詛〉は、頼む方も、請け負う方も大きな危険を覚悟しなければならない。

「まあ、俺くらいの優秀な陰陽師になれば何のことはないがな!
 誤解するなよ? 俺は恐ろしくて言っているのではない。本当に〈呪詛〉かどうかわからないのに安易に手を出したくないだけじゃ」
 肩に戻った白い烏を撫でながら有雪は厳かな調子で、
「俺の結論を言おう。受領の家で死者が続いたのは、不幸な偶然が重なっただけじゃ。
 若くとも、酒を飲んでいる最中に突然死ぬことはままあるし、嬉しくて気が昂ぶり過ぎても人は死ぬ。
 奥方はそれさ。美しい装束に興奮し過ぎたのだ。
 帰って、受領にそう伝えろ。〈呪詛〉だの〈呪殺〉だの……
 この京師(みやこ)でもそうそうない話じゃ」
「なるほどなあ!」
「一件落着! そういうことで──せっかくだ、ここは再会を祝して我らも酒盛りと行こう!
 おまえもイケる口だったよな! どうした?」
 旧友の顔が未だ険しいままなのを見て、
「何だ、酒はダメなのか?」
「酒は大いに飲むさ! 唯、最後にもう一つ、教えてくれ。
 今回の件が〈呪詛〉の類でないとしたら、俺の犬は、何故死んだのだろう?」
「何?」
「実はな、息子と奥方の二人が死んだと同じ時期に、俺の大切な犬が三匹も死んでしまった。
 それも、元気だったのに、突然、悶死したのじゃ。受領の家族と全く同じ死に様だった。
 だから、受領同様、俺も今回の出来事に空恐ろしいモノを感じたのだが……」
 橋下の陰陽師は頭を掻き掻き嘆息した。
「おまえ、それを先に言えよ!」


「どう思う? やはりこれは〈呪詛〉なのか?」
 座敷から出て来た陰陽師の袖を掴んで、明らかに盗み聞きしていたらしい成澄が訊いてきた。
「確かに、犬を使う呪いはある」
 有雪は認めた。
 その最たるものが〈犬神〉。
 犬を首だけ出して地中に埋め、届かない所に餌を置いて怒り狂わせ、餓死寸前で首を斬る。
 更にその首を往来に埋めて、多くの人間に踏ませ、怨念を増幅させる。
 こうして出来上がった首を使って……
「俺はやらないがな」
「依頼がないだけだろう?」
「貴様!」
「まあまあ。で? おまえ、この後どうするつもりなのだ?」
「うむ。犬飼の住む(むら)へ赴こうと思う。
 ここは、この目で全てをはっきり見極めて──対処するさ」
 付け足した。
「あいつには借りがあるからな」
「どんな借りだ?」
「命を助けてもらった。それも二回も」
 思い出し笑いを浮かべる橋下の陰陽師。こういう時、この男は純粋に美男である。
「そういう理由(わけ)だから、俺は明日、早朝、旅立つからな。何だ?」
「決めた! その旅、俺も同道しよう!」
「え?」
「ご覧の通り、京師には狂乱丸たちもいないし、暇を持て余している身だ」
「って、おまえ、怪我の療養中だろ? だからこそ、使庁も休みをくれているというのに……」
「怪我なんて何処に居たって治る時は治るさ!」
 焦れったそうに検非遺使は右目を覆っている布を引っ掻いた。
「それに、道中は物騒だと聞くぞ。俺が護衛になってやろう!
 片目とはいえ、おまえなんぞよりは遥かに強いからな。どうだ、心強いだろう?」
「護衛か? それもいいが──」
 有雪はニヤリとした。


 翌日、早朝。
 朝靄(あさもや)に霞む田楽屋敷の門前で、犬飼は改めて礼を言った。
「今回の件、請け負ってくれて感謝するぞ、雪丸。ところで──」
 旅装を整えた陰陽師の横に立つ長身の男を繁繁と見て、アヤツコは訊いた。
 卯の花の色目、地味な水干姿だが、何処か違和感がある。
「そちらは?」
「うむ。これは私の護衛兼弟子である」
 勿体ぶって告げる橋下の陰陽師。
「名は──ナリユキじゃ」
「え?」
「ほう!」
 成澄の仰天の声は、犬飼の明朗な賛辞に吹き飛ばされた。
「一見、衛門府の武官のごとく立派な人物ではないか! 水干ではなく蛮絵装束が似合いそうじゃ!」
 犬飼はつくづく尊敬の目を旧友に向けた。
「これほどの弟子を持っているとはなあ!
 おまえは教養もあったし、機転がきいて、口も達者だった。出世するとは思っていたが……
 本当にその通りだったな!」

『おい、護衛兼弟子は、まあ良いとしてもよ』
 袖を引いて小声で訴える成澄。
『その、ナリユキって名はどうにかならぬか? 
 なんか……ぞんざいで嫌だ。成り行き任せってカンジで』
『何を言う? 師匠から一字もらうのは光栄と思え』
 呵呵笑った後で有雪は言い添えた。
「それによ、俺たちがこれから赴く(ひな)では、おまえの官位は高過ぎる。
 判官(ほうがん)なんぞという正体を知ったら鄙人は皆、恐縮して、真実なんぞ語ってくれなくなるのがオチさ」
「なるほど」
 実際、この辺りが本意か。ふざけているばかりでもなさそうである。
 こうして、三人は京師を旅立った。
 徒歩の旅である。
 この旅の間、白烏は自由に空を飛んでその姿を消している。
 これ以降、一々記述がないのはそのせいである。


   
 
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