第38話 小蕾(しょうらい)〈1〉

文字数 2,384文字

 ただ酒をしこたま飲んでいい気分で夜道を歩いていた有雪(ありゆき)
 道の先に見慣れた後ろ姿を見留めた。
(……狂乱(きょうらん)丸ではないか? どうしたんだ、一人で今頃?)
「おい、狂乱丸!」
 聞こえなかったらしい。
 田楽師は足を止めることなくスタスタと歩いて行く。
「相変わらず愛想のない奴だな。おい、待てと言うのに……!」
 それほどの距離とは思えなかったのだが、辻で見失ってしまった。
 立ち止まって四方を窺うと──いた、あそこだ! 
 有雪も意地になって駆け出した。無視されたまま放っておけるかよ。
(今度こそ、捕まえてやる……)
 夜からの宴だったせいで──いずれも胡乱な一条橋界隈を根城とする陰陽師仲間の飲み会である──いつもは肩に乗せている白烏は田楽屋敷の自室に置いて来た。有雪はそのことを口惜しく思った。
 あの護法がいたなら、先回りして飛ばして、狂乱丸の鼻先を掠めて驚ろかせてやれたのに。
 だが、仕方がない。自分の足で追いかける他ない。
 やっと追いついて、細い肩に手を置いて振り向かせた。
「狂乱丸!」
 だが、振り返ったその顔は全くの別人だった──
「え?」
 射千玉(ぬばたま)の垂髪、円らな瞳、紅い頬。
 確かに美少年だが狂乱丸ではなかった。
「これは失礼。人違いをしたようじゃ」
「──」
 少年は何も言わず歩み去った。
 有雪は訝しんだ。
(しかし、こんな夜更けに従者も連れず一人で歩き回るとは。さっきの狂乱丸もそうだが、今のもいい度胸だな……)
 天狗に拐われても知らぬぞ?
 苦笑して、顔を上げて、驚いた。
 目の前に川がある。
「え? こんな処に?」
 待てよ、そもそも俺は何処を(・・・)歩いていたんだっけ? 
 珍しいな、道に迷うとは。きっと安酒のせいじゃ。悪酔いしたかな?
 戻ろうとして(きびす)を返した時、その川の(ほとり)に狂乱丸が蹲っているのが見えた。
「!」
 今度こそ、本物の(・・・)狂乱丸だった。
 あの冴え冴えとした横顔……
(まさか……)
 刹那、冷たい汗が橋下の陰陽師の背中を伝った。
 呼び戻さねば……!
 あの川を絶対に(・・・・・・・)渡らせてはならぬ(・・・・・・・・)
 何故って、あの川(・・・)は……
 だが、声が出ない。

 ── 狂乱丸様!

 叫んだのは自分ではなかった。



「狂乱丸!」

 有雪は飛び起きた。
 見慣れた天井の染み。そこは一条堀川にある田楽屋敷の自分の室だった。
 夢だったのだ。
 再び横になる。こんなことは慣れっこだった。
 実は有雪は夜、まともに寝た試しがなかった。曰く、色々なモノが邪魔をしに来るから。
 だから、毎夜、しこたま酒を喰らってはウトウトするか、それでダメなら起きて過ごす。
 いきおい昼寝ばかりする破目になるが仕方がない。
 検非遺使(けびいし)が呆れ果てるほど、いつも座敷にひっくり返っているのはそのせいである。
 有雪は目を閉じた。
 と、また声が響いた。

 ── 狂乱丸様!

「わかったよ」
 呟くと諦めて、夜具を跳ね飛ばした。


 月は皓皓(こうこう)と照っている。こんどこそ本物の夜道だ。
 その月下を歩いて行くと、廃屋と思しき邸の四足門の前に美々しい牛車が止まっていた。
 中に人影がある。(すだれ)越しでも有雪にははっきりと見て取れた。
 腰に流れる射千玉の髪。円らな瞳、紅い頬……
「ほう? おまえ(・・・)かよ? 今宵、俺を呼んだのは?」
 観念して、陰陽師は言った。
「言ってみろ。で? 俺の眠りを妨げてまで叶えて欲しいおまえの願いとは、何じゃ?」



「頼む! この通りじゃ!」

 一夜明けた一条堀川の田楽屋敷。
 座敷の床に額を擦りつけて懇願しているのは有雪である。
「ならぬ」
 にべもなく首を振る狂乱丸。
「いい加減にしろ、有雪。おまえ、ここを安宿か何かと勘違いしているんじゃないだろうな? 
 大体、おまえ自身が住み着くのだって許した覚えはないのに──この上、もう一人だと?」
「そこを何とかと頼んでいるのじゃ。こやつ──芳心(ほうしん)丸と言うのだ。せめて、四、五日で良い。置いてやってくれ!」
 ひれ伏す(ちまた)の陰陽師の横に畏まって座っているのは、人品卑しからぬ美少年である。
 射千玉の垂髪、黒曜石の瞳、紅い頬。蕾紅梅の水干が何とよく似合っていることよ……!
 ギロリと狂乱丸は睨めつけた。
「ふん、どうせ家出したどこぞの御曹司とかだろう? ならぬ! 他所へ行け!」
「まあまあ、兄者。日頃、()の高い有雪がこうまで必死に頼んでいるのだ」
 見かねた弟の田楽師が助け舟を出した。
「数日というのだから、そのくらい良いではないか?」
「甘いわ、婆沙(ばさら)! その数日が命取りじゃ。有雪を見てみろ。こやつ、いつの間にか入り込んで……今では主の如き振る舞いではないか!」
「だからさ」
 婆沙丸は耳打ちした。
「ここは有雪に〝貸し〟を作っておくのじゃ。さすればあいつも、これ以上無礼な振る舞いは慎むはず」
「──」
「その上、あの有雪がこれほど懇願しているのだ。よほどの理由(わけ)があるのだろう。
 我等〈異形の(うから)〉、困った時は助け合わねばな。何処かの検非遺使も言っておったぞ。縋って来た人間に手を差し伸べないような冷たい人間は嫌いだ、と。まさか、兄者はそんな人非人とは違うよな?」
「ウッ」
 苦虫を潰したような顔に狂乱丸はなった。が、とうとう(うべな)った。
「し、仕方ない。泊めてやる。だが、四、五日だからな? それ以上はなしだぞ!」
 大仰に平伏してみせる有雪だった。
「ハハー、ありがたき幸せ!」

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