第19話 毘沙門天の使者 〈1〉

文字数 3,015文字

「遅いっ! 待ちかねて俺はとっくに戻って来たぞ!」
 言ってから、婆沙(ばさら)丸は兄の頬の傷に気づいた。
 康治元年(1142)。
 興福寺の悪僧十五名が時の摂政藤原忠通によって陸奥国へ配流されたのが八月なら、それからおよそ一ヶ月後の九月十七日。
 この日、今をときめく田楽師、狂乱・婆沙の兄弟は仔細あって鞍馬寺へ詣でたが、本堂から魔王殿へと足を伸ばした途中でお互いはぐれてしまった。
 鞍馬の山は深い。
 魔王尊の前で小半時ばかり待つには待ったが一向に姿を現さない兄に焦れて、そのまま一人で貴船を巡って家路についた婆沙丸だった。

 日暮れてから、漸く兄は帰って来た。
「……何かあったのか?」
 裂けているのは頬ばかりではない。ちょうど今しがた昇った立待月を背に戸口に佇む兄をよくよく見れば──
 いかにも田楽師らしい派手な装束、濃紅に紅葉を散らした水干の肩先や(たもと)が無残にちぎれているではないか。
「あったとも!」
 弟と違って冷静沈着の性。平生はきつく一文字に結ばれている唇が緩く解けて、目は虚空を泳いでいる。
「やあ! やあ! 厄介事なら俺に話してみろ、狂乱丸よ。不善の輩はこの成澄が絡め取ってくれるわ!」
 奥から大音声がして、左衛門府の官位を有しながら、例によって暇さえあればここ一条堀川の、通称田楽屋敷に入り浸っている検非遺使・中原成澄も顔を出した。
「うむ、それがな──」
 と言って、狂乱丸が語り出した、この日遭遇した奇異の事とはこうである。

 狂乱丸が弟とはぐれたと気づいたのは本堂の参詣を終えてすぐだった。
 だが、慌てるほどのことはない。
 北山の清涼な空気を胸いっぱいに吸い、どれが鬼が下敷きになった木だろうか? などと周囲の風景を一々楽しみながら護法堂から奥の院を経てゆっくりと山を下った。
 せっかちな弟はどこまで先に行ってしまったものやら、ついぞ出会えないまま、そうこうする内に気づくともう高野川と加茂川が交差する辺り、俗に言う〈出雲路〉である。
 その辻で、いきなり袖を取られた。
「石寿丸!」
 見れば、粗末な法衣を纏った僧である。一声叫んで狂乱丸に跳びついて来た。
 日頃、俊敏な田楽師とはいえ虚を突かれて、逃れる隙もあらばこそ……
「石寿! 探したぞ、石寿丸っ……!」
「は、放せ!」
「嫌じゃ! もう二度と手放すものか! 石寿丸! さあ、私と寺へ帰ろう。我等が授かり子も待ち侘びているぞ……!」
「人違いじゃ!」

        +

「すわっ! 辻獲りか?」
 大刀を引っ掴んで(しとね)から腰を浮かす検非遺使を弟の田楽師は制して、
「まあ、待て、成澄。兄者の話をひとまず最後まで聞こう」
 
        +

 余程興奮していると見えて僧は狂乱丸の言葉を聞こうともせず抗えば抗うほど渾身の力で押さえつけてくる。狂乱丸の美しい装束がちぎれ、頬が避けたのはこの時である。
「石寿丸! 石寿丸!」
「だから、俺の名は狂乱丸じゃ! せきじゅまる(・・・・・・)などではないわ!」
 ここで聡明な狂乱丸、はたと気づいて、朗々と田楽の歌を歌い始めた。
 流石に編木子(びんざさら)こそ持っていなかったが、この見事な歌声に僧は動きを止めた。
 暫くまじまじと己が腕の中の美童を見つめていたが、やがて、
「……おまえは……石寿ではない……?」
「わかったと見えるな? ならば、この手、放してもらおう」
「おお──」
 次の瞬間、僧は地べたに崩折れると声を上げて泣き始めた。

「私の名は遍快(へんかい)と申します」
 少し落ち着くと、まだ涙声ながら僧は語り出した。
「元々は叡山で修行に励んでいたのですが、故あって山を下り、近くの廃屋同然の寺に住しております。 それでも信心の心は疎かにすることなく鞍馬への参詣も欠かしませんでした。
 さて、今を去る一月(ひとつき)ばかり前、その鞍馬詣での帰路、ちょうどこの辺りで美しい稚児と行き違ったのでございます。
 歳の頃は十六、七。この世のものとも思えぬあえかな面立ちとは裏腹に、その瞳は翳って、元は雅だったに違いない水干も血に汚れた憐れな姿。疲れ果てて足取りもおぼつかない様子に声をかけたところ、匂やかな眉を上げて稚児が申します。
『私の名は石寿丸。お仕えする僧に捨てられてしまいました……』
 聞けば、この石寿丸が心身を砕いて日夜仕えて来た僧侶が、新たに入って来た童に心変わりをして、以来、事あるごとに殴る蹴るの乱暴三昧。挙句の果てにとうとう打ち捨てられた由──
『頼るべき者も他には知らず、こうして道端に途方に暮れております』
 憐れに思った私は取りあえず稚児を伴なって自坊に帰りました。
 貧しくて稚児など養える身分ではありませんので、始めはどこぞの富裕の寺にでも紹介してやろうと思っておりました。かほどの美しさなら、どこの寺でも快く引き受けてくれよう、と」
 しかし、ことは予期せぬ方向へ──
「左様です。私は石寿を深く愛してしまいました。石寿丸の方も以前の主人に代えて、この私にそれはそれは真心を持って仕えてくれました。私たちは傾いだ荒れ寺で極楽浄土もかくやと言う満ち足りた日々を過ごしていたのです。ところが」

        +

「──ところが、その石寿丸とやらが行方を眩ませたんだな? よくある話だ!」
 婆沙丸が鼻を鳴らした。
「チェッ、当の僧の回想だから西方億万極楽浄土云々と霞がかかって麗しの日々だが、俺に言わせりゃ、この話ハナから怪しい。まず第一に、そんな目も綾な稚児なんぞが路頭に迷っているもんか。そやつ、きっと、阿呆で色欲な僧をだまくらかして寺に入り込み、仏像や宝をくすねる類の盗人(ぬすっと)に決まっておる」
 (すすき)(そよ)がせた朽葉色の袖を振って弟は兄をせせら笑った。
「全く! この話のどこが奇異(・・)なのじゃ? 日頃モノに動じない兄者にしては情けない」
 兄は気色ばんだ。一筋血の滲む頬を一層紅潮させて、
「盗人と言ったな、婆沙丸? ならば聞くが──見るからに貧相な僧について行くのはおかしいではないか? この稚児が盗人の類なら、もっと裕福な僧に目をつけようぞ」
 狂乱丸は更に続ける。
「おまえこそ、ちゃんと終いまで聞け。俺の話はまだ重要な部分が語られておらぬ。それこそ、稚児が出奔した理由じゃ。これから言うぞ、いいか、よく聞け、稚児が出て行ったのは子を産み落とした(・・・・・・・・)せいじゃ!」
「何と!」
 蛮絵装束の検非遺使が息を飲んだ。
 田楽師の弟も仰け反って、
「で、では、その稚児とやら……実は、女だったのか?」
 今度せせら笑うのは兄の番だった。
「馬鹿な。いくら清廉の僧とはいえ、男と女の区別はつこう。男が子を産んだから奇異なのじゃ」
「うむ。大体、〝十月十日〟の日数も合わぬわ。件の僧、稚児を引き入れて一ヶ月と言っておったぞ!」
 この際、いたく現実的な指摘をする剛直な検非違使は無視して、勝ち誇って狂乱丸は締め括った。
「かてて加えて、その赤子がただの赤子じゃあない。いや、ただ(・・)どころか──高価この上ない〈黄金〉だった……!」
「──……」
 もはや、こうなると、どこで驚いて良いのかわからなくなった婆沙丸と成澄だった。
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