第6話 水の精 〈6〉

文字数 2,236文字

 傷も癒えて何とか歩けるようになった日。
 婆沙(ばさら)丸は兄を掻き口説いて堀川の川縁に赴いた。
 心配した成澄も蛮絵装束の袖を翻して駆けつけた。
 婆沙丸の田楽師らしい派手な水干の下にはまだ傷を縛った白布が覗いている。
 川風は童形の兄弟の垂髪をからかうように弄んでは吹き過ぎた。
 どうやら大風(あらし)が近づいている気配。京師(みやこ)も梅雨の季節である。
「兄者も俺の見たものは〈幻〉だと思っているのだろう?」
「まあな」
 狂乱丸は正直に認めた。
「庚申の夜田楽の日は蒸し暑くはあったが穏やかな日和で、俺も舞っていて突風に吹かれた記憶はない。まして、堀川は──」
 兄は川面に目をやって、
見た通り(・・・・)、鴨川などと違って、所詮、人が造った川(・・・・・・)だ」
 元来、堀川は名の示す通り、平安京造営の際、木材を運ぶべく整備された人工の運河(・・・・・)である。従って、過去、氾濫した記録もないし鉄砲水の類も考えられない。
 婆沙丸の言う、〈水柱〉や〈濁流〉、〈怒涛〉など起こり得るはずはないのだ。
 婆沙丸自身もそれはわかっていた。わかってはいたが──
 では一体、あの夜体験したあれ(・・)は何だったのだろう?
「決まっておる。その娘が真実の〈水の精〉だったからじゃ!」
有雪(ありゆき)!?」
 地から湧いて出たか、はたまた風が運んだか……したり顔で登場した、これが橋下(はしした)の陰陽師有雪である。
 もちろん無位無冠。住む場所にも困っていつの間にか田楽屋敷に居候の身。
 薄汚れた白装束姿で、肩にはどうやって手懐けたものやら白い(カラス)を乗せている。
 一見、白皙の貴公子然としているのだが、注意すべし。口を開いたが最後、何から何まで胡散臭い。
 今回も〈橋の上の美しい出会い〉の卜占の件で田楽屋敷の当主狂乱丸の怒りを買い、ずっと姿をくらませていたのだが。
「おまえ! まだ京師にいたのか? 金輪際、我等の前に姿を現すなと申し渡したはずじゃ! とっとと立ち去れ!」
 烈火のごとく怒って追い払おうとした兄を弟が制した。
「まあ、待て、兄者。話を聞いてみよう。有雪、おまえは今回の不思議な出来事について何かわかるというのか?」
「いかにも。聞けば、娘は難波津の出とか? フムフム……さもありなん。おまえたち無知な輩は知らないだろうが、あの辺りは神代よりも遥かな昔、〈水の民〉が移り住んだ土地と古書にはっきりと記されている」
 勿体つけて巷の陰陽師は続けた。
「〈隼人(はやと)〉と呼ばれたその水の民は古書曰く『()水を読み(・・・・)水を操る(・・・・)』とか。
 娘がその末裔であったなら、身の危険に(さら)されて……水を自在に操る先祖伝来の異能を咄嗟に具現したとて驚くには当たるまいよ」
「馬鹿馬鹿しい!」
 現実家の兄は吐き捨てた。
「聞いて損した。なあ、婆沙丸?」
 弟は川縁の石の間の赤い色に気づいてそちらへ駆けて行くところだった。
「これは──」
 糸が切れ無惨に飛び散ったナミの腕輪だ。
(ひょっとして……)
 婆沙丸は思った。水に浚われたあの刹那、自分が縋ったのはこれ(・・)だったかも知れない。
「正直言って、俺はおまえが京師に残って嬉しいぞ」
 だんだらの雲が走る不穏な空を長駆を反らして仰ぎ見つつ、検非違使が言う。
「おまえにはやはりその派手な装束が似合う。難波津で漁師なんぞするよりずっと良い」
「漁師なものか!」
 興奮して叫んだのは有雪だった。
 婆沙丸が大切そうに拾い集めている赤い石を一粒手に取るや、
「見ろ! これは〈海紅豆〉と言って……それはそれは珍しい木の実じゃ!」
 奪い返しながら婆沙丸が訊いた。
木の実(・・・)だと? 石ではないのか?」
「いやはや、全くモノを知らん連中だな! いいか、この実は大陸でしか採れない、それこそ唐渡(からわた)り宝じゃ! こんな貴重なものを身につけていたからには──その娘、海辺の富貴な貿易商の姫君だったに違いない!」
 陰陽師は心から口惜しそうに嘆息した。
「婆沙丸、おまえは難波津の長者の婿殿になり損ねたのじゃ! ああ、ほんに勿体ないことをしたものよ……」
「〈水の精〉と言ったり、〈長者の姫君〉と言ったり……やはり、おまえは口から出まかせの、橋の下が似合いの似非(えせ)陰陽師じゃ!」 
 今度こそ、狂乱丸は容赦なく有雪を蹴り上げた。

 目に付く限りの腕輪の欠片(かけら)を拾い集めた後も、婆沙丸はそれを握り締めたまま、中々川縁を動こうとはしなかった。
「今日は風が強い。傷に障るぞ? 帰ろう」
 とうとう兄が近づいて促した。
 それから、ふと思い出したように付け足した。
「なあ、婆沙丸よ? この川は(ささ)やかではあるが、ずっと流れて……難波津の海まで通じている。もし、おまえの愛しい娘が有雪の言う通り、真実の〈水の精〉ならば……この水の流れに乗って案外無事に故郷に帰りつけたかも知れぬぞ」
「ああ。俺もそれを考えていたところさ!」
 兄の精一杯の慰めだと知っていた。


          +

 さても、今、京師で評判の田楽師婆沙丸が左の小指にいつも赤い指輪を嵌めているのはこういうわけである。それから、それは石ではなくて実であると。


        《   第1話  了   》

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