第71話 呪術師 〈1〉

文字数 2,541文字

  
  ―― あれは何処の鐘じゃろう?
      たいそう美しい音色じゃ……

  ―― 鐘? 
      
      母上様は熱に冒されておいでじゃ。
      でも、大丈夫。明日にはきっと熱も下がって気分も楽になりましょう。
      だから、どうぞお気を強く持って……

  ―― ああ、また聞こえる。
      ほんとうにいい音色だこと……
      ほら、また。 
      おまえにも聞こえるでしょう?

 娘は耳を澄ました。そして、頷いた。
 
  ―― はい、母上様。
      いい音色じゃ。
      心が洗われるよう……

 戸が乱暴に開け放たれたのはその時だった。
 邸の従者たちがヅカヅカと押し入って来た

 病の母を守ろうと娘は小猿のように跳ね飛んで乱入者の行く手を遮る。

  
  ―― 何用じゃ、おまえたち?
      母上様をどうするつもり――

 
 大きな手に掴まれて娘は地面に突き飛ばされた。

  ―― きゃ――…… 


      卍

「〈真実の呪術師〉だと? 下らん」
 兄の田楽師は一笑に付した。
「そうは言うがよ、兄者、これは絶対一見の価値はあるぞ!」
 いつになく熱心に兄の袖を引く弟だった。
「何だ、何だ、朝っぱらから何の騒ぎだ?」
 白い(カラス)を肩に乗せた巷の陰陽師も顔を出す。
婆沙(ばさら)丸がまた下らん噂を聞きつけてきたのさ。何でも――」
 兄を押しのけて言葉を継いだ婆沙丸、
「念ずるだけでモノを自在に動かす〈真実の呪術師〉が現れたのさ! 東の市で話題を独占している! これはぜひともこの目で見ておかねば一生の悔いと言うものじゃ」
「愚かなことを」
 冷徹な兄は吐き捨てた。
「その種の手合いはマヤカシじゃ。芸の域ですらない。目が腐るわ」
「俺は行って見ようかな?」
 床からむっくりと起き上がったのは屈強な検非遺使だった。
 田楽屋敷と称される一条界隈のこんな胡乱な場所に衛門府官位を有すれっきとした官人が居る(と言うか横臥している)のは目の迷いと思われるかも知れない。
 が、現実である。
 昨晩の、飲めよ歌えよの宴そのままに酔いつぶれて投宿したのだ。何、いつものことである。
「ファーア、良く寝た!」
 掛けてもらった夜具代わりの綺羅綺羅しい(うちぎ)を跳ね除けて中原成澄(なかはらなりずみ)は言った。
「上手い具合に今日は非番だし、その呪術とやら、覗いて見るのも悪くない」
 少年のように目を輝かせている。
 この検非遺使尉(けびいしのじょう)、音曲狂いもさることながら、奇術や幻術――〝外術〟の類が大好きなのだ。 
  ※外術=現在で言う手品・マジック
「ええー?」
 田楽師兄の呆れた声に烏帽子(えぼし)に手をやりながら、
「あ、いや、何、実はよ、使庁にもその〈真実の呪術師〉の噂は届いている。今後の情勢把握のためにも、ここは一つ早急に当人を見ておくべきかも知れぬ」
「やった!」
 多くを言わさず飛びつく婆沙丸。
「そういうことなら、すぐに出かけよう! おっと、非番ならその蛮絵装束は着替えたほうがいいな。狩衣にしろよ、あの新しい青鈍(あおにび)色のやつ、良く似合うもの。そうして、仲良く並んで市を歩いたらさぞ楽しいだろうな! 『似合いの道行きじゃ』などと往来の者に冷やかされるはず! じゃ、兄者は留守番を頼んだぞ」
「……待て、婆沙」
 狂乱丸はむんずと弟の肩を掴んだ。
「コホン、気が変わった。そ、そういえば、たとえどのような芸だとて見聞を怠るべきではないと、我等が師匠犬王も言っていたものな? 俺も行くよ!」
 してやったりと向こうを向いて舌を出す婆沙丸。笑いを噛み殺しつつ小声で呟く。
「チェッ、相変わらず、素直じゃないんだから」
「皆が行くんなら、ならば、俺も行くとしよう。一人で残ってもつまらぬ」
 これは有雪。
 
 ともあれ――
 こうして仁平2年(1153)5月のその日、田楽屋敷の一行は仲睦まじく肩を並べて平安京は東の市へと繰り出したのである。



「まあ! 来てくださったのですね!」
 婆沙丸の言葉通り件の呪術師は話題を呼んでいると見えてその一郭は黒山の人だかりだった。
 人垣を掻き分けて駆け寄って来たのは年の頃、15、6の娘。
 山国育ちらしい赤茶色の髪、白い肌、零れるような瞳。
 膝の出た短い丈の小袖姿がむしろ野の花のようなその風貌を輝かせている。
「しかも、お友達もご一緒に? あ、ありがとうございます」
 一瞬、娘のまなざしが揺れた。
 それもそのはず。
 瓜二つの綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の美少年に、抜きん出て長身の美丈夫、肩に鳥を止まらせた白装束の麗人ときては、どう見ても奇怪な取り合わせである。
「はは、〝お友達〟などと言うシャレたものではないが。皆、俺の話を聞いて、どうしても〈真実の呪術〉を見てみたいと言うのでな」
「そうですか。どうぞ、楽しんでいってください。それでは、私は手伝いがあるので失礼します」
 深々と頭を下げると娘は小走りに去って行った。
「……なるほど、そういうことか!」
 瞬時に全てを察する兄だった。
「俺が素直でないなら、おまえは素直すぎる。というか、わかり易過(やすす)ぎる」
 兄の鋭い視線を感じ取って婆沙丸は頭を掻きながら抗弁した。
「た、たまたまなんだ! 昨日、道を歩いていて、声をかけられた。って言っても、俺だけじゃないぞ、道行く人、全てに懸命に呼びかけていたのさ、『真実の呪術を見てくれ』と」
 いったん息を告いでから小声で耳打ちした。
「あのコは呪術師の妹らしい。とはいえ、それ以外、俺だって何も知らぬ。名前すら訊いてはおらぬのだ。ただ路傍で声を嗄らして兄の宣伝をする、そのけなげな姿に――」
「――惚れたんだな?」
「……まあ、その……つまり……そうだ」
「ッたく、おまえはほんとに女に弱いな? 何度痛い目に合えば気が済む?」
「シッ、始まるぞ!」
 狩衣姿の検非遺使が声を上げた。
 
 さても、それはまことに奇妙な術であった。











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