第107話 白と赤 〈9〉
文字数 3,566文字
「それにしてもよくここがわかりましたね?」
「この間、送って来た時にちゃんと道を憶えたさ。またいつでも戻って来られるれるように」
「まあ! それは何故?」
「おまえに会いたいからに決まっているだろう?」
「か、からかわれては困ります。本当に貴方様は面白いお方じゃ」
狂乱丸がサンを訪ねてやって来たそこは現在の京都市右京区に当たる。
この辺りは古くは〈山背 〉と書いた。当時の都・平城京から見て〝奈良山の背 〟に位置するからである。延暦13年(794)、平安京命名の際、桓武 天皇自ら『山河が襟帯して自然の城を成す』として〈山城〉に改称された。以来240年余、今なお山城は桓武帝の感慨そのままに緑深き地である。
「俺はあまり来たことがなかったが――美しい処だな!」
「今は季節柄、冬枯れで裸木も多いですが新緑の頃は緑に塞がれます」
「だろうな」
折り重なる木立の中に立派な寺社が点在する。
「神社に厄介になっているというから探し回ったぞ」
誇らしげにサンの笠が揺れた。
「どれも皆、一族の神社です」
肩を並べて歩いて来た道を振り返って狂乱丸が訊いた。
「おまえの社は何を祀っているのだ?」
「萬機姫 様を。機織 りの神様です。我が一族は機織りを広めたと伝わっています」
「ああ、だからか。おまえの仕事は糸紡ぎなのだな」
「でも、機織りだけではありません。我が一族は大昔、大陸を彷徨 った後、百済 を経てこの日の本ヘ至ったとか」
心底嬉しそうに祖先の来歴を娘は話した。
「変転の歳月、様々な国で習得した技術を持ち運んだので時の帝が喜び、姓と土地を賜り、このように現在に至るまで繁栄しているのです」
「ほう? 機織りの他にどんな技を有していたのじゃ?」
興味を抱いて狂乱丸が問う。
「例えば、土木技術。嵐山の大井川の堰 ――〈葛野の大堰 〉は我等が先祖が築きました」
「そりゃ凄い!」
「この」
目の前の寺をサンは指差した。
「蜂岡 寺は最古の寺だとか。聖徳太子様からお預かりした仏像を一族の秦河勝 が安置したのが始まりと聞いております」
「その太子とやらは厩 の前で生まれたんだろ? それから、物凄く耳が良かったらしいな?」
以前、橋下の陰陽師から聞かされた薀蓄を思い出す。それにしても、と田楽師は感嘆した。
「サンは寺社やその由来ついて詳しいんだな?」
「神社で育ちましたから。ほら、あちらの大酒 神社は」
差し伸ばした方角を見て狂乱丸が吹き出した。
「そう言う名か、大酒!?有雪 が聞いたら狂喜乱舞しそうな名じゃ!」
「有雪様?」
「おっと、こっちの話だ。ウチの禄でもない居候さ。酒に目がなくてな。ふうん? 大酒というからには酒の神様なんだろ?」
サンは少々困った様子で頷いた。
「そうともいいます。でも、本当の酒の神様は嵐山の松尾神社の方。ここからは離れていますが、あちらこそ間違いなく酒造りの神様を祀っています。酒作りも一族の持ち込んだ技なれば。我等の祖の名は〈酒公〉と言って酒瓶の中で育ったと伝えられているんですよ」
今度こそ狂乱丸は大笑いをした。
「こりゃあ、どうしても有雪のためにお参りして行かねば」
「私も毎日ここで父母のことを祈っています」
「え?」
「大酒は大避が元々の字だそうです。災いを避ける の〈避〉――だから父母のご加護を祈願しています」
「おまえは両親の顔も知らないと言ってなかったっけ?」
「はい。私の醜さに恐れをなして生まれたその日に神社へ預けたそうで、私は顔はおろか名も知りません」
でも、と娘は笠に手を置いて四方を見回した。
「一族の暮らすこの地の何処かに両親はいます。息災に長生きして欲しいと願っています」
「似ているな」
狂乱丸はしみじみと息を吐いた。
「俺も5歳の時、父母と別れた。もう二度と会うことはないだろう」
「まあ、そうなんですか?」
「じゃ、俺も! 父母のために祈ろう!」
二人は並んで手を合わせた。
先に顔を上げた狂乱丸、まだ祈っているサンを肩越しに見つめて、
「思ったとおり、おまえは優しい子だな、サン」
「え?」
「いつも自分のことより他人のことを考えている」
「よしてください。誉められるようなことではありません。だって、私は」
首を振る娘。黒い領巾 も左右に靡いた。
「他に祈るものがないんですもの」
領巾の向こう、くぐもった娘の声が響く。
「もし、私も普通の体に生まれていれば、他の娘と同じに神様に祈る事はいっぱいあったでしょう」
素敵な人と巡り会わせてください。
巡り会ったなら、今度は、恋を成就させてください。
それから? どうか、大好きなその御方と夫婦 になれますように。
そうして? 丈夫な赤ん坊をお授けください。
やがて、その子が健やかに育ちますように……
「次から次へと願い事は尽きません。でも、今の私が祈れるのは父母のことくらいです」
「何故? おまえも恋人の出現や、恋の成就を祈ればいいじゃないか?」
サンは笑った。
だがそれは狂乱丸の聞きたかった笑いではなかった。
引き攣った 掠れ声。
「そんなこと! ハナから諦めています。私のように醜い娘を愛してくれる男の人などいるはずがない」
「それは違う。サンは間違っている」
狂乱丸が遮った。
「美醜など関係ない。人は皆一皮向けば白いシャレコウベさ」
「貴方様はご自分がお美しいからそんなことを言えるんです」
「うん、その通りじゃ。俺は見た目が美しい。それがどうした?」
人差し指を立てて狂乱丸は言った。
「俺は美しいが、中身はひどい男だぞ」
「!」
次の瞬間、サンは笑い出した。それこそ、狂乱丸が聞きたかった、あの声。
底なしの明るい、光に満ちた笑い声だ。
太陽の陽射しようなにキラキラしたさざめき。
「アハハハハ……」
「笑ったな、サン!」
ああ! この声を聞きたかった……!
「アハハハ……だって、貴方様、本当に面白いんですもの! ああ、可笑しい! 美しいが中身はひどい? ご自分でそんなこと言うなんて……」
「俺の言いたかったのは、顔の美しさに惑わされてはならぬということ。うわべの美しさなど本当の美しさではない。その証拠が俺だというわけさ。自分のことだからよくわかる。だから、俺が本当に大切に思うのは……求めているのは……真実の美しさじゃ」
「真実の美しさ……」
ハッと息を飲む音がした。
「そうだ。言い換えれば魂の美しさ」
田楽師は笠を被った娘に真向かうと言い切った。
「サン、おまえはそれを持っている。だから、おまえこそ美しい娘じゃ!」
「どうした、サン?」
返事がない。
「な、なんだ? おまえ、泣いているのか? どうした?」
狼狽して、ただもう周囲をグルグル廻る美少年だった。
「俺はおまえを笑わせたくて……何よりおまえの笑い声を聞きたいと願っているのに……」
どれくらい経っただろう?
漸く途切れ途切れの声が返って来た。
「貴方様は……本当に……おかしなことをおっしゃる御方です」
「だったら、笑えよ? 笑ってくれよ?」
「笑っております」
「嘘つけ」
とっさに採った娘の手、指先まで巻いたその布が湿っている。垂らした領巾の裾から狂乱丸は手を挿し入れた。
「あ」
優しく頬の涙を拭う。
ただそれだけのこと。
「私の顔をご覧になりたいですか?」
震える声でサンは訊いた。
「貴方様は私に大変優しくしてくださいました。だから、貴方様がお望みなら……私……今すぐにでも素顔をお見せします」
「馬鹿なことを言うなよ!」
叱咤に似た声が飛ぶ。
「いつ誰がそんなことを言った?」
領巾から手を抜き取りながら、
「俺はおまえの顔などどうでもいい。俺が好きになったのはおまえであって、おまえの顔じゃないからな」
柔らかな声に戻って、京師一と讃えられる田楽師は囁いた。
「それに、始めて会った時から、俺には見えているよ。おまえが」
「私が?」
「そうさ。顔とか髪とか手足ではなくて……
おまえそのもの ――おまえの全て が。
だから、金輪際、顔など見なくともよい」
双子の田楽師の兄、狂乱丸の恋の話を綴って――
ひとまずここでこの平安時代の警官、検非違使秘録の筆を止めます。
また幾つか、お話が溜まったら、再開するつもりです。
その時は、よろしくお願いいたします!
「この間、送って来た時にちゃんと道を憶えたさ。またいつでも戻って来られるれるように」
「まあ! それは何故?」
「おまえに会いたいからに決まっているだろう?」
「か、からかわれては困ります。本当に貴方様は面白いお方じゃ」
狂乱丸がサンを訪ねてやって来たそこは現在の京都市右京区に当たる。
この辺りは古くは〈
「俺はあまり来たことがなかったが――美しい処だな!」
「今は季節柄、冬枯れで裸木も多いですが新緑の頃は緑に塞がれます」
「だろうな」
折り重なる木立の中に立派な寺社が点在する。
「神社に厄介になっているというから探し回ったぞ」
誇らしげにサンの笠が揺れた。
「どれも皆、一族の神社です」
肩を並べて歩いて来た道を振り返って狂乱丸が訊いた。
「おまえの社は何を祀っているのだ?」
「
「ああ、だからか。おまえの仕事は糸紡ぎなのだな」
「でも、機織りだけではありません。我が一族は大昔、大陸を
心底嬉しそうに祖先の来歴を娘は話した。
「変転の歳月、様々な国で習得した技術を持ち運んだので時の帝が喜び、姓と土地を賜り、このように現在に至るまで繁栄しているのです」
「ほう? 機織りの他にどんな技を有していたのじゃ?」
興味を抱いて狂乱丸が問う。
「例えば、土木技術。嵐山の大井川の
「そりゃ凄い!」
「この」
目の前の寺をサンは指差した。
「
「その太子とやらは
以前、橋下の陰陽師から聞かされた薀蓄を思い出す。それにしても、と田楽師は感嘆した。
「サンは寺社やその由来ついて詳しいんだな?」
「神社で育ちましたから。ほら、あちらの
差し伸ばした方角を見て狂乱丸が吹き出した。
「そう言う名か、大酒!?
「有雪様?」
「おっと、こっちの話だ。ウチの禄でもない居候さ。酒に目がなくてな。ふうん? 大酒というからには酒の神様なんだろ?」
サンは少々困った様子で頷いた。
「そうともいいます。でも、本当の酒の神様は嵐山の松尾神社の方。ここからは離れていますが、あちらこそ間違いなく酒造りの神様を祀っています。酒作りも一族の持ち込んだ技なれば。我等の祖の名は〈酒公〉と言って酒瓶の中で育ったと伝えられているんですよ」
今度こそ狂乱丸は大笑いをした。
「こりゃあ、どうしても有雪のためにお参りして行かねば」
「私も毎日ここで父母のことを祈っています」
「え?」
「大酒は大避が元々の字だそうです。災いを
「おまえは両親の顔も知らないと言ってなかったっけ?」
「はい。私の醜さに恐れをなして生まれたその日に神社へ預けたそうで、私は顔はおろか名も知りません」
でも、と娘は笠に手を置いて四方を見回した。
「一族の暮らすこの地の何処かに両親はいます。息災に長生きして欲しいと願っています」
「似ているな」
狂乱丸はしみじみと息を吐いた。
「俺も5歳の時、父母と別れた。もう二度と会うことはないだろう」
「まあ、そうなんですか?」
「じゃ、俺も! 父母のために祈ろう!」
二人は並んで手を合わせた。
先に顔を上げた狂乱丸、まだ祈っているサンを肩越しに見つめて、
「思ったとおり、おまえは優しい子だな、サン」
「え?」
「いつも自分のことより他人のことを考えている」
「よしてください。誉められるようなことではありません。だって、私は」
首を振る娘。黒い
「他に祈るものがないんですもの」
領巾の向こう、くぐもった娘の声が響く。
「もし、私も普通の体に生まれていれば、他の娘と同じに神様に祈る事はいっぱいあったでしょう」
素敵な人と巡り会わせてください。
巡り会ったなら、今度は、恋を成就させてください。
それから? どうか、大好きなその御方と
そうして? 丈夫な赤ん坊をお授けください。
やがて、その子が健やかに育ちますように……
「次から次へと願い事は尽きません。でも、今の私が祈れるのは父母のことくらいです」
「何故? おまえも恋人の出現や、恋の成就を祈ればいいじゃないか?」
サンは笑った。
だがそれは狂乱丸の聞きたかった笑いではなかった。
引き攣った 掠れ声。
「そんなこと! ハナから諦めています。私のように醜い娘を愛してくれる男の人などいるはずがない」
「それは違う。サンは間違っている」
狂乱丸が遮った。
「美醜など関係ない。人は皆一皮向けば白いシャレコウベさ」
「貴方様はご自分がお美しいからそんなことを言えるんです」
「うん、その通りじゃ。俺は見た目が美しい。それがどうした?」
人差し指を立てて狂乱丸は言った。
「俺は美しいが、中身はひどい男だぞ」
「!」
次の瞬間、サンは笑い出した。それこそ、狂乱丸が聞きたかった、あの声。
底なしの明るい、光に満ちた笑い声だ。
太陽の陽射しようなにキラキラしたさざめき。
「アハハハハ……」
「笑ったな、サン!」
ああ! この声を聞きたかった……!
「アハハハ……だって、貴方様、本当に面白いんですもの! ああ、可笑しい! 美しいが中身はひどい? ご自分でそんなこと言うなんて……」
「俺の言いたかったのは、顔の美しさに惑わされてはならぬということ。うわべの美しさなど本当の美しさではない。その証拠が俺だというわけさ。自分のことだからよくわかる。だから、俺が本当に大切に思うのは……求めているのは……真実の美しさじゃ」
「真実の美しさ……」
ハッと息を飲む音がした。
「そうだ。言い換えれば魂の美しさ」
田楽師は笠を被った娘に真向かうと言い切った。
「サン、おまえはそれを持っている。だから、おまえこそ美しい娘じゃ!」
「どうした、サン?」
返事がない。
「な、なんだ? おまえ、泣いているのか? どうした?」
狼狽して、ただもう周囲をグルグル廻る美少年だった。
「俺はおまえを笑わせたくて……何よりおまえの笑い声を聞きたいと願っているのに……」
どれくらい経っただろう?
漸く途切れ途切れの声が返って来た。
「貴方様は……本当に……おかしなことをおっしゃる御方です」
「だったら、笑えよ? 笑ってくれよ?」
「笑っております」
「嘘つけ」
とっさに採った娘の手、指先まで巻いたその布が湿っている。垂らした領巾の裾から狂乱丸は手を挿し入れた。
「あ」
優しく頬の涙を拭う。
ただそれだけのこと。
「私の顔をご覧になりたいですか?」
震える声でサンは訊いた。
「貴方様は私に大変優しくしてくださいました。だから、貴方様がお望みなら……私……今すぐにでも素顔をお見せします」
「馬鹿なことを言うなよ!」
叱咤に似た声が飛ぶ。
「いつ誰がそんなことを言った?」
領巾から手を抜き取りながら、
「俺はおまえの顔などどうでもいい。俺が好きになったのはおまえであって、おまえの顔じゃないからな」
柔らかな声に戻って、京師一と讃えられる田楽師は囁いた。
「それに、始めて会った時から、俺には見えているよ。おまえが」
「私が?」
「そうさ。顔とか髪とか手足ではなくて……
おまえ
だから、金輪際、顔など見なくともよい」
双子の田楽師の兄、狂乱丸の恋の話を綴って――
ひとまずここでこの平安時代の警官、検非違使秘録の筆を止めます。
また幾つか、お話が溜まったら、再開するつもりです。
その時は、よろしくお願いいたします!