第24話 野馬台詩~やまとし~〈3〉
文字数 4,993文字
さて、翌日。
非番ということでそのまま田楽屋敷に泊まり込み、ゆっくりと朝寝をした中原成澄。
遅い朝餉の後で、もう少し秋津丸の身辺について調べてみようと言い出した。この辺りいかにも検非違使である。得体の知れない《野馬台詩》の解読は有雪に任せて自分は現実的な線から迫ってみようと思い立ったようだ。己の職業と地位を最大限利用して秋津丸がかつて勤めていた寺を探し出し、そこの人たちに色々話を聞いてみようと提案する。
「どうだ、おまえたちも一緒に来てくれないか?」
捜索は自分がやるが稚児たちにいざ話を聞く段になったら、強装束の自分などより双子たちの方がよかろう。
「仲間意識というやつ。おまえたちなら親近感が湧いて向こうも話し易かろう?」
美しい田楽師兄弟を眺めつつ微笑む成澄だった。
「そういうことなら──兄者一人で充分だろう? 今日は俺は遠慮しとく」
他にやることがある、と言って婆沙 丸は辞退した。
日頃から成澄を慕う兄に気を廻して、と言うことばかりではなかった。
実際、婆沙丸は婆沙丸で自分なり にやりたいことがあった。
もう一度、じっくりとあの〝馬の絵〟を見てみたい。
別にどこがどうというのではないが、何か気になって仕方なかった。
兄たちを送り出してから、一人、秋津丸の住居、西ノ京へ向かった。
住人のいなくなった屋敷は森閑としていた。
婆沙丸自身は、生きていた 秋津丸とは結局一度も会わずに終わった。だから、どんな声で話し、どういう表情をしたのかはついぞ知らない。知っているのは、骨の音だけ。
あれは幼い日、野を走った時に聞いた、体を掠める木々の枝の音のようでもあり、また、せせらぎに裸足で浸かった際の、水底の小石の軋む音のようでもあった。
(なあ、秋津丸よ? 俺の聞いたおまえの音 が骨の折れる音と言うのでは余りに哀し過ぎる……)
元々狂乱・婆沙の兄弟は山国の出である。巡業の途上、美しい双子というので先代師匠・犬王の目に止まり買い取られたのだ。そんな婆沙丸の脳裏に子供の頃の山の景色が蘇った。
足を浸した冷たい流れの中には河骨 の黄色い花が揺れていたっけ?
その可憐な花びらと、恐ろしい名の由来となった白い茎……
秋津丸を思う時、どうしてか、その花を思い出してしまう。
秋津丸がもし、何か伝えたかったのなら、そして、それを果たせずに死んでいったのなら、せめてもの供養に婆沙丸はそのこと をはっきりさせてやりたいと思った。
「秋津丸よ、おまえは一体、何を伝えたかったのじゃ?」
再度、厨子の横の壁に貼られた絵の前に立った婆沙丸。改めて、詳細に観察する。
材質は梶の枝皮が原料と思しき〝紙〟で、特別高価な品と言うわけではない。
そこに描かれているのは牧を駆ける二頭の馬だ。どちらも白馬である。
誰の筆かはわからない。秋津丸自身が描いた、ということもあり得る。
この絵を見た途端、『野に遊ぶ馬』と成澄は言ったが、その通り、生き生きと描けている。
「フム、馬が二頭、野山を走っている。一頭は大きく、その背後、やや遠景にもう一頭か──む?」
物音にハッとして振り向くと真後ろに蜻蛉 丸が立っていた。
婆沙丸も驚いたが蜻蛉丸の方も同様に、ひどく驚いた様子だった。
「また、いらっしゃっていたのですか?」
「失礼」
婆沙丸は率直に詫びた。
「今日も勝手に上がってしまって。どうしてもこの絵がみたくなって──」
構いませんよ、と蜻蛉丸は笑った。部屋に入って来て婆沙丸の隣に立った。
「何なら、差し上げましょう。兄の形見……と言っては何ですが、気に入った人にもらってもらえば兄も喜ぶはず」
蜻蛉丸は手を伸ばして素早く絵を壁から剥ぎ取った。
「あ」
「いいんです。ちょうど良かった。私がここへ来たのも兄の遺品を整理しようと思ったからです。と言って、大したモノはありませんが」
「兄上は一人でここに住んでいたのですか?」
「さあ、私はよく知りません」
言葉を濁らせる。聞いてくれるな、という思いが滲 んでいた。
それは仕方がない。婆沙丸は蜻蛉丸の対応が理解できた。寺童出身の美しい秋津丸がどういう風に暮らしを立てていたかは察するに余りある。弟としては触れて欲しくない話題に違いない。
刹那、この弟 は兄について何を何処まで知っているのだろう、という疑問が過 ぎった。暮らし向きのことばかりではなくて。
自分は狂乱丸のことなら何でも知っている。兄弟とはそういうものではないのか?
昨今頻発した恐ろしい流行病 、それで亡くなった要人を〈殺人〉だと言い切った兄 。どういう人たちと交わり、何に関わっていたのか、弟 が全く知らないなど信じられない。
共に兄を持つ弟同士 という同胞めいた気安さも働いて、婆沙丸はもっとあれこれ訊いてみようと蜻蛉丸の顔を覗き込んだ。
「兄が死んだ時 、あなたは傍に いたんですよね ?」
「!」
瞳を捉えて、先に訊いてきたのは、意外にも蜻蛉丸の方だった。
「兄が死んだ時、あなたも傍にいたんですよね?」
「え? ……あ、はい。そうです」
「兄は……どんなだったんですか?」
「──?」
「つまり、どんな状態 だったのか、兄の最期の様子が知りたいのです」
真意を測りかねて戸惑っている婆沙 丸に蜻蛉 丸は更に言葉を重ねた。
「ありのまま を知りたい。できるだけ詳しくお教えください」
(できるだけ? 詳しく?)
婆沙丸の脳裏に秋津丸の最期の姿が鮮明に蘇った。
長い髪は扇みたいに千々に広がっていた。誰かが指を突っ込んで掻き乱したみたいに。
夏虫色の水干は裂けて肩が剥き出し、胸から、腹にかけても──
「何か身につけていませんでしたか?」
「え?」
「いえ、何か持っていなかったのかな、と。あの検非遺使様もその場にいたんですか? 検非遺使様は兄の遺体を検めて……何か見つけたのでしょうか?」
(こいつは……何が知りたいんだ?)
婆沙丸の心中で何かが一変した。
あの悲しい骨の亀裂音に似て、何かが軋み、何かが砕ける──
兄の死を悼む、というのじゃない。
こいつ は死に際して兄が身につけていた〈物〉の方を気にしている。そっちを知りたがっている。
唐突に、婆沙丸の頭の中でそれまで散らばっていた数個の欠片 が一枚の絵に繋がった。
暗い祠で通りすがりの下郎に襲われたと思っていたが──
違う ! 床に広がった髪や、裂けた衣……あれらは陵辱の痕ではなくて、何かを探した痕 なのでは?
秋津丸を殺した輩は秋津丸が持っていた(或いは、持っていると思った)何か を探したのだ。
婆沙丸は直感した。その〈何か〉こそ、当日、秋津丸が検非遺使の成澄に持って行くと約束した〈殺人の証拠の品〉なのだ……!
(では、やはり、あの紙片、《野馬台詩》こそ──)
いきなり蜻蛉丸の腕が婆沙丸の喉へ伸びた。
刹那、婆沙丸は仰け反って、その白い指から逃れた。
「何をするっ!」
「あ、驚かしたのなら謝ります。取ってあげようと思って、ホラ」
「?」
蜻蛉丸の手の中に蜘蛛が一匹蠢いていた。
「天井から伝って来たんですよ。あなたは考え事をしていて気づかないようでしたから」
きっと、あっち、離れからやって来たのでしょう、と秋津丸の弟は白い歯を見せて微笑んだ。
「あれ、どうしました? そんなに蜘蛛が苦手ですか? 顔が真っ青ですよ?」
「秋津丸? ああ、憶えているとも! ホント、いい奴だったな!」
稚児は心底楽しげな笑い声を響かせた。
公孫樹の木陰、池の畔 。とある名刹 の庭である。
秋津丸と蜻蛉丸がかつて仕えていた寺を探し当てるのにさほどの困難はなかった。
そこは京師 でも名の知れた大寺院。奉仕する稚児の数も多い。その中でも、秋津丸は人気者だったと言う。
「美しかったからなあ……」
つくづくと頷いた検非遺使を横目に見て、金紗丸と名乗ったその稚児は少々含みのある声で、
「それもあるけど──ちょっと変わってて、さ」
「?」
「面白い奴だった! 〈虫愛づる稚児〉……虫狂いなんだよ。他のことにはてんで無頓着で、土を掘ったり木を削ったりして色々な虫を集めてたなぁ」
好きだからだろう、育てるのも上手だった、と金紗丸。卵からだってちゃんと孵すのさ。時間をかけて。しかもそれを快く誰にでも分けてやる。だから、人気があった。
「尤も──もらうなら鈴虫や蝶に限るけど。それ以外は、どうもね」
金紗丸は遠い日の夏の陽射しを思い出したようにちょっと目を細めた。
「蟻地獄を美しい蝶にしたのには驚いたな! 本当に魔術師のようだった。蝶の好む木や葉っぱを知り抜いていて、それらを集めて種類も様々な何十匹もの蝶たちをこの庭に呼んだし、夏の宿坊を蛍で飾ったのも秋津丸の手柄だった! その際の大阿闍梨様の喜びようったら……!」
「そんな特技があったのか? そりゃ人気者のはずだ」
思わず感嘆の息を漏らす田楽師。気安げに稚児は笑いかけた。
「それだけじゃない。人気の由縁は人柄にもある。本人、虫狂いだから、それ以外の事 にはいたって鷹揚だったのさ」
意味深に片目を瞑って見せた。
「ほら、寺院 は厭らしい競争の渦だろ? 寵愛を巡って諍いが止む間もない。でも、あいつはそんなことに無関心だったから誰でもあいつの傍にいると安心できた。癒された。ホント、欲がなくて、さっぱりしてて、気持ちのいい奴だった! 弟と大違いさ」
「弟?」
それまで後ろに控えていた検非遺使がいきなり身を乗り出した。金紗丸は頬を染めて頷いた。
「ええ。蜻蛉丸というんです」
再び狂乱丸へ視線を戻すと、
「そいつは恐ろしく頭が廻って、計算高い奴だった。先を読むのに長けていて、出世しそうな僧にばかりへつらって上手く立ち回っていたっけ。その成果がアレさ。最近いたく隆盛の武家のご養子様だ。あいつがいなくなって清清したって皆、言ってるぜ。すぐに秋津丸まで引っぱって行ったのはガッカリだけど」
背後で検非遺使の口元が引き締まるのがわかった。狂乱丸はさり気なく尋ねる。
「蜻蛉丸 が、秋津丸を連れて行ったのか?」
「そうさ。それで僕たちは影で散々言い合ったよ。『売れるものはなんだって売る』『いかにも蜻蛉丸らしいや』って。兄さえも自分の出世のためなら利用するんだ。何でも、養子先の知り合いが秋津丸を見初めたのをいいことにここから引き抜いて渡しちまったとか。勿論、金は全部自分の懐に入れたそうな」
いったん言葉を切った後で稚児は苦笑した。
「まあ、秋津丸に否やはなかった。何処にいても気にしない奴だから。虫さえいればそれでいいんだろう。ホント、名は体を表すよ!」
「え?」
聞き返した狂乱丸に金紗丸は指を一本立ててそれを捕まえる仕草をして見せた。
「秋になって、この寺のあちこちに飛び交うようになると……いつも思い出すんだ。あいつ のこと……」
なるほど。秋津とは、トンボの古語でもある。
古語と言えば、陰陽師の有雪は、秋津丸は(そして蜻蛉丸も)、〈陽炎 〉の意味があると得々として言っていたが──
(そうか、物の名にはまた、幾つもの別の名 が隠されているのだなぁ?)
一瞬、狂乱丸は、庭の隅にたまたま見つけた井戸を覗いたようなひんやりした眩暈を感じた。
結局、秋津丸が死んだことは告げずに寺を辞した成澄と狂乱丸だった。
いづれにせよ二度と会えない境遇なら、二重に悲しませて何になろう?
可愛らしい稚児の悲しみを増やすことを二人は良しとしなかった。
非番ということでそのまま田楽屋敷に泊まり込み、ゆっくりと朝寝をした中原成澄。
遅い朝餉の後で、もう少し秋津丸の身辺について調べてみようと言い出した。この辺りいかにも検非違使である。得体の知れない《野馬台詩》の解読は有雪に任せて自分は現実的な線から迫ってみようと思い立ったようだ。己の職業と地位を最大限利用して秋津丸がかつて勤めていた寺を探し出し、そこの人たちに色々話を聞いてみようと提案する。
「どうだ、おまえたちも一緒に来てくれないか?」
捜索は自分がやるが稚児たちにいざ話を聞く段になったら、強装束の自分などより双子たちの方がよかろう。
「仲間意識というやつ。おまえたちなら親近感が湧いて向こうも話し易かろう?」
美しい田楽師兄弟を眺めつつ微笑む成澄だった。
「そういうことなら──兄者一人で充分だろう? 今日は俺は遠慮しとく」
他にやることがある、と言って
日頃から成澄を慕う兄に気を廻して、と言うことばかりではなかった。
実際、婆沙丸は婆沙丸で
もう一度、じっくりとあの〝馬の絵〟を見てみたい。
別にどこがどうというのではないが、何か気になって仕方なかった。
兄たちを送り出してから、一人、秋津丸の住居、西ノ京へ向かった。
住人のいなくなった屋敷は森閑としていた。
婆沙丸自身は、
あれは幼い日、野を走った時に聞いた、体を掠める木々の枝の音のようでもあり、また、せせらぎに裸足で浸かった際の、水底の小石の軋む音のようでもあった。
(なあ、秋津丸よ? 俺の聞いた
元々狂乱・婆沙の兄弟は山国の出である。巡業の途上、美しい双子というので先代師匠・犬王の目に止まり買い取られたのだ。そんな婆沙丸の脳裏に子供の頃の山の景色が蘇った。
足を浸した冷たい流れの中には
その可憐な花びらと、恐ろしい名の由来となった白い茎……
秋津丸を思う時、どうしてか、その花を思い出してしまう。
秋津丸がもし、何か伝えたかったのなら、そして、それを果たせずに死んでいったのなら、せめてもの供養に婆沙丸は
「秋津丸よ、おまえは一体、何を伝えたかったのじゃ?」
再度、厨子の横の壁に貼られた絵の前に立った婆沙丸。改めて、詳細に観察する。
材質は梶の枝皮が原料と思しき〝紙〟で、特別高価な品と言うわけではない。
そこに描かれているのは牧を駆ける二頭の馬だ。どちらも白馬である。
誰の筆かはわからない。秋津丸自身が描いた、ということもあり得る。
この絵を見た途端、『野に遊ぶ馬』と成澄は言ったが、その通り、生き生きと描けている。
「フム、馬が二頭、野山を走っている。一頭は大きく、その背後、やや遠景にもう一頭か──む?」
物音にハッとして振り向くと真後ろに
婆沙丸も驚いたが蜻蛉丸の方も同様に、ひどく驚いた様子だった。
「また、いらっしゃっていたのですか?」
「失礼」
婆沙丸は率直に詫びた。
「今日も勝手に上がってしまって。どうしてもこの絵がみたくなって──」
構いませんよ、と蜻蛉丸は笑った。部屋に入って来て婆沙丸の隣に立った。
「何なら、差し上げましょう。兄の形見……と言っては何ですが、気に入った人にもらってもらえば兄も喜ぶはず」
蜻蛉丸は手を伸ばして素早く絵を壁から剥ぎ取った。
「あ」
「いいんです。ちょうど良かった。私がここへ来たのも兄の遺品を整理しようと思ったからです。と言って、大したモノはありませんが」
「兄上は一人でここに住んでいたのですか?」
「さあ、私はよく知りません」
言葉を濁らせる。聞いてくれるな、という思いが
それは仕方がない。婆沙丸は蜻蛉丸の対応が理解できた。寺童出身の美しい秋津丸がどういう風に暮らしを立てていたかは察するに余りある。弟としては触れて欲しくない話題に違いない。
刹那、
自分は狂乱丸のことなら何でも知っている。兄弟とはそういうものではないのか?
昨今頻発した恐ろしい
共に兄を持つ
「
「!」
瞳を捉えて、先に訊いてきたのは、意外にも蜻蛉丸の方だった。
「兄が死んだ時、あなたも傍にいたんですよね?」
「え? ……あ、はい。そうです」
「兄は……どんなだったんですか?」
「──?」
「つまり、
真意を測りかねて戸惑っている
「
(できるだけ? 詳しく?)
婆沙丸の脳裏に秋津丸の最期の姿が鮮明に蘇った。
長い髪は扇みたいに千々に広がっていた。誰かが指を突っ込んで掻き乱したみたいに。
夏虫色の水干は裂けて肩が剥き出し、胸から、腹にかけても──
「何か身につけていませんでしたか?」
「え?」
「いえ、何か持っていなかったのかな、と。あの検非遺使様もその場にいたんですか? 検非遺使様は兄の遺体を検めて……何か見つけたのでしょうか?」
(こいつは……何が知りたいんだ?)
婆沙丸の心中で何かが一変した。
あの悲しい骨の亀裂音に似て、何かが軋み、何かが砕ける──
兄の死を悼む、というのじゃない。
唐突に、婆沙丸の頭の中でそれまで散らばっていた数個の
暗い祠で通りすがりの下郎に襲われたと思っていたが──
秋津丸を殺した輩は秋津丸が持っていた(或いは、持っていると思った)
婆沙丸は直感した。その〈何か〉こそ、当日、秋津丸が検非遺使の成澄に持って行くと約束した〈殺人の証拠の品〉なのだ……!
(では、やはり、あの紙片、《野馬台詩》こそ──)
いきなり蜻蛉丸の腕が婆沙丸の喉へ伸びた。
刹那、婆沙丸は仰け反って、その白い指から逃れた。
「何をするっ!」
「あ、驚かしたのなら謝ります。取ってあげようと思って、ホラ」
「?」
蜻蛉丸の手の中に蜘蛛が一匹蠢いていた。
「天井から伝って来たんですよ。あなたは考え事をしていて気づかないようでしたから」
きっと、あっち、離れからやって来たのでしょう、と秋津丸の弟は白い歯を見せて微笑んだ。
「あれ、どうしました? そんなに蜘蛛が苦手ですか? 顔が真っ青ですよ?」
「秋津丸? ああ、憶えているとも! ホント、いい奴だったな!」
稚児は心底楽しげな笑い声を響かせた。
公孫樹の木陰、池の
秋津丸と蜻蛉丸がかつて仕えていた寺を探し当てるのにさほどの困難はなかった。
そこは
「美しかったからなあ……」
つくづくと頷いた検非遺使を横目に見て、金紗丸と名乗ったその稚児は少々含みのある声で、
「それもあるけど──ちょっと変わってて、さ」
「?」
「面白い奴だった! 〈虫愛づる稚児〉……虫狂いなんだよ。他のことにはてんで無頓着で、土を掘ったり木を削ったりして色々な虫を集めてたなぁ」
好きだからだろう、育てるのも上手だった、と金紗丸。卵からだってちゃんと孵すのさ。時間をかけて。しかもそれを快く誰にでも分けてやる。だから、人気があった。
「尤も──もらうなら鈴虫や蝶に限るけど。それ以外は、どうもね」
金紗丸は遠い日の夏の陽射しを思い出したようにちょっと目を細めた。
「蟻地獄を美しい蝶にしたのには驚いたな! 本当に魔術師のようだった。蝶の好む木や葉っぱを知り抜いていて、それらを集めて種類も様々な何十匹もの蝶たちをこの庭に呼んだし、夏の宿坊を蛍で飾ったのも秋津丸の手柄だった! その際の大阿闍梨様の喜びようったら……!」
「そんな特技があったのか? そりゃ人気者のはずだ」
思わず感嘆の息を漏らす田楽師。気安げに稚児は笑いかけた。
「それだけじゃない。人気の由縁は人柄にもある。本人、虫狂いだから、
意味深に片目を瞑って見せた。
「ほら、
「弟?」
それまで後ろに控えていた検非遺使がいきなり身を乗り出した。金紗丸は頬を染めて頷いた。
「ええ。蜻蛉丸というんです」
再び狂乱丸へ視線を戻すと、
「そいつは恐ろしく頭が廻って、計算高い奴だった。先を読むのに長けていて、出世しそうな僧にばかりへつらって上手く立ち回っていたっけ。その成果がアレさ。最近いたく隆盛の武家のご養子様だ。あいつがいなくなって清清したって皆、言ってるぜ。すぐに秋津丸まで引っぱって行ったのはガッカリだけど」
背後で検非遺使の口元が引き締まるのがわかった。狂乱丸はさり気なく尋ねる。
「
「そうさ。それで僕たちは影で散々言い合ったよ。『売れるものはなんだって売る』『いかにも蜻蛉丸らしいや』って。兄さえも自分の出世のためなら利用するんだ。何でも、養子先の知り合いが秋津丸を見初めたのをいいことにここから引き抜いて渡しちまったとか。勿論、金は全部自分の懐に入れたそうな」
いったん言葉を切った後で稚児は苦笑した。
「まあ、秋津丸に否やはなかった。何処にいても気にしない奴だから。虫さえいればそれでいいんだろう。ホント、名は体を表すよ!」
「え?」
聞き返した狂乱丸に金紗丸は指を一本立ててそれを捕まえる仕草をして見せた。
「秋になって、この寺のあちこちに飛び交うようになると……いつも思い出すんだ。
なるほど。秋津とは、トンボの古語でもある。
古語と言えば、陰陽師の有雪は、秋津丸は(そして蜻蛉丸も)、〈
(そうか、物の名にはまた、幾つもの
一瞬、狂乱丸は、庭の隅にたまたま見つけた井戸を覗いたようなひんやりした眩暈を感じた。
結局、秋津丸が死んだことは告げずに寺を辞した成澄と狂乱丸だった。
いづれにせよ二度と会えない境遇なら、二重に悲しませて何になろう?
可愛らしい稚児の悲しみを増やすことを二人は良しとしなかった。