第78話 呪術師 〈8〉
文字数 3,448文字
「頼む! この通りじゃ!」
庭先、美しい菖蒲の花が揺れる傍らで田楽師の弟は這いつくばって頭を下げた。
「馬鹿か、おまえ?」
呼ばれて縁先に出てきた陰陽師、その光景に呆れ返って目を剥いた。
「馬鹿で結構! どうか、どうか、このマシラに力を貸してやってくれ!」
田楽師の横には畏まって座った呪術師の妹がいた。こちらは細い指をついたまま顔も上げられないほど恐縮している。
「一回だけでよい。おまえの知恵でこのマシラの兄、アシタバに、一世一代の大勝負を乗り切らせてやってくれ!」
「お、お願いします!」
マシラは白い額を土に汚しながら懇願した。
「これが最後、本当に最後です。この〈術比べ〉の後は、私が引き摺ってでも兄を連れて故郷ヘ帰ります。もう二度と偽りの〈念〉の術の披露はさせません。で、ですから、今度だけ、私どもをお助けください!」
涙声になりながら娘は言う。
「陰陽師様なら〈術比べ〉を切り抜ける妙案を思いつけるはずだと、それができると、婆沙丸様から伺いました。どうか、どうか、私どもにお知恵をお貸し下さい!」
橋下の陰陽師は肌蹴た白衣の下、巻いている包帯をポリポリと掻きながら、
「そうは言うがなあ……」
「また要らぬ事に首を突っ込んだな、婆沙? だが、諦めろ」
縁の柱に寄りかかって様子を眺めていた兄が言葉を挟んだ。
「頭を下げるだけ無駄じゃ。俺が言ったろう? この男は自分の得にならないことは一切しないと」
「ならば、向こう1ヶ月……いや、半年、おまえの飲む酒は全て俺が奢る。それでどうじゃ?」
有雪は目を細めた。
「ほう? そこまで言うなら、協力してやらないわけではない……」
「あ、ありがとうございます!」
一層深く頭を下げるマシラ。勢いづいて婆沙丸が叫んだ。
「日は3日後、場所は神泉苑 の大池の畔 じゃ!」
「神泉苑? ふむ、 あそこは昔から祈雨 の場として有名だからな。尤も最近はその種の呪術は行われていないはず」
例によって有雪は博識を誇示した。
「〈術比べ〉には最適な場所じゃ。淳和帝の御世の天長元年(824)、東寺の空海が西寺の守敏 と祈雨の術比べを行ったと記録に残されている。その際、空海は天竺 の無熱池 から善女龍王 と言う竜神を召喚したとか。竜神はド派手な金色の蛇の姿で顕現したそうだ。クク……見たかったな!」
「なるほど。その地を選んだ法師側が〈祈雨の術〉を披露するのはわかった」
冷静に問う狂乱丸。
「だが、アシタバはそこで一体何をやるんだ?」
婆沙丸は神妙な面持ちで答えた。
「それさ、アシタバは山法師と観衆の面前で、『当日は今までと違うモノを〈念〉で動かして見せる』と請け負ったのじゃ」
「何をだ?」
「人さ」
「――」
田楽屋敷を沈黙が支配した。
どのくらいたったろう。
狂乱丸が鸚鵡返しに訊いた。
「ひと?」
「そう、人 じゃ。アシタバは『人を〈念〉で一瞬のうちに移動させて見せる』と約束したのだ」
「そうか。で、聞くが、その〝人を移動させる術〟とやら、今までにやったことは?」
きっぱりと首を振る弟。
「一度もないそうだ」
「話にならん!」
「だから、こうして泣きついているのだ! 簡単にやれるのなら誰が有雪なんぞに頭を下げるよ! あ、いや、その、ゴホゴホ」
「フン、ソレが本音か。だが、そういう事情なら――」
狂乱丸は唇の端を攣り挙げた。笑ったのだ。その微笑の妖艶なこと!
「有雪に頼るまでもないぞ。俺が名案を授けてやる」
「え?」
兄の意外な言葉に目を輝かせる婆沙丸。一方マシラは地面に額を擦り付けながら、
「ありがとうございます!」
「夜逃げしろ」
「――」
「稼いだ金をまとめて今すぐ京師 から逐電するのだ。それ以外、おまえたち偽りの呪術師兄妹に道はない」
「いや、待て。そうとばかりは言えないぞ?」
田楽師の美しい装束を抑える陰陽師の手。
「と言うか、むしろ、人を動かすなど、たやすいことよ」
「ほ、本当か有雪!」
「陰陽師様!」
「外術 の原理はいっしょだからな」
有雪は鼻を鳴らした。
「少々準備が大掛かりになるくらいで、やり方は変わらぬ」
「準備って、何を用意すればいいんだ? 必要なものは全部、俺達で掻き集めてみせるから」
「まず、人を入れる大きな箱が一つ。それに被せる見栄えのいい錦の布。後は――」
息を詰めて聞き入る娘と婆沙丸にあっさりと有雪は言い切った。
「瓜二つの人間」
「そいつぁいい!」
狂乱丸は手を叩いて大笑いした。
「瓜二つの人間か! だが、残念ながら俺達 は無理だな。京師中にあまねく顔が知れ渡っている。なにせ、当代随一の田楽師だから! あはははは」
「それなら大丈夫だ!」
弟は慌てなかった。
「田楽師兄弟だから顔が割れているんだ。誰も知らない、普通の女子 なら心配ない」
「普通の……女子?」
ハッとして、狂乱丸が叫ぶ。
「嫌じゃ! 絶対、だめだからな! 俺は断る!」
両袖を振りながら、
「考えても見ろ、自慢じゃないが俺はこれまで一度だって女に化けたことはないんだぞ! おまえはやったが」 ※第1話 参照
「あれ? そうだっけか? でもまあ、人助けじゃ。この際兄者も女装を初披露してもいいではないか」
「い・や・じゃ! 絶対に嫌! 誰が女の格好などするものか!」
「どんなことをしても? 誰が頼んでも?」
「ウッ、そ、それは……その……まあ、人によっては考えてみないことも……ない……かな?」
「俺?」
その夜の田楽屋敷。
例によって勤めを終えて使庁から真直ぐにやって来た検非遺使の袖を玄関先で捕まえる婆沙丸だった。
「そう、おまえ だ、成澄! 兄者ははっきり言ったぞ」
―― まあ、成澄が頭を下げて、
俺のそんな姿をどうしても見てみたいというのなら、
考えてみないことも……ないかな?
「だから、ここは一つ、よろしく頼む、成澄!」
「お、おいおい?」
背中を押して兄の自室まで連れて行く。
襖を開けて、ほとんど突き倒す勢いで中へ押し入れた。
「成澄か?」
小机の前に端座していた狂乱丸。しっとりと濡れた瞳で屈強の検非遺使を見上げた。
「俺に、何か用か?」
期待に胸膨らませて、既に頬が薔薇色に染まっている。
「何か 、俺に頼みたいことでも?」
そんな田楽師を見つめて、烏帽子 に手をやりながら検非遺使尉 はキッパリと言った。
「別に俺は、おまえの娘姿なんぞ見たいとは思わん」
「えーーーー!」
これは廊下で様子を窺っていた婆沙丸の悲鳴である。
慌てて、有雪が口を塞いだ。
「シッ!」
とはいえ、巷の陰陽師も舌打ちせずにはいられない。
「まあ、おまえが叫びたくなる気持ちもわかるよ。あの朴念仁め。もう少し、場を読め、場を」
口から有雪の手を毟り取って毒ずく婆沙丸。
「無骨な男とは思っていたがよ、本当に救いようがないな、あいつ!」
廊下の罵詈雑言をよそに、その無骨な検非遺使は言い切った。
「だってよ、狂乱丸は娘の格好などしなくとも、俺の目には今のままで充分美しいものな! アハハハハ……」
「!」
時を置かず狂乱丸は廊下に向かって叫んだ。
「――やるよ! やる! おい、聞いてるのか、婆沙! 俺の一世一代の娘姿見せてやる!」
つくづくと首を振る有雪だった。
「前言撤回。成澄の奴、ひょっとして……物凄い術者かも知れぬ……」
「兄者も承諾したことだし、これで何も心配することはないぞ、良かったな?」
邸にも上がらずずっと庭の隅で成り行きを見守っていた呪術師の妹に婆沙丸は告げた。
「さあ、もう安心して、今日のところは住処へ帰れ。準備については明日以降、有雪に訊きながらやっていくことにしよう」
既に日はとっぷりと暮れている。
今日も今日とて(いつもより上機嫌に)酒盛りが始まった座敷を振り返ってから、婆沙丸は笑った。
「俺が送って行くよ」
娘は黙って深々と頭を下げた。
その娘の白い手が、並んで歩く婆沙丸の腕に絡みついたのは帰り道を暫く歩いた後だった。
庭先、美しい菖蒲の花が揺れる傍らで田楽師の弟は這いつくばって頭を下げた。
「馬鹿か、おまえ?」
呼ばれて縁先に出てきた陰陽師、その光景に呆れ返って目を剥いた。
「馬鹿で結構! どうか、どうか、このマシラに力を貸してやってくれ!」
田楽師の横には畏まって座った呪術師の妹がいた。こちらは細い指をついたまま顔も上げられないほど恐縮している。
「一回だけでよい。おまえの知恵でこのマシラの兄、アシタバに、一世一代の大勝負を乗り切らせてやってくれ!」
「お、お願いします!」
マシラは白い額を土に汚しながら懇願した。
「これが最後、本当に最後です。この〈術比べ〉の後は、私が引き摺ってでも兄を連れて故郷ヘ帰ります。もう二度と偽りの〈念〉の術の披露はさせません。で、ですから、今度だけ、私どもをお助けください!」
涙声になりながら娘は言う。
「陰陽師様なら〈術比べ〉を切り抜ける妙案を思いつけるはずだと、それができると、婆沙丸様から伺いました。どうか、どうか、私どもにお知恵をお貸し下さい!」
橋下の陰陽師は肌蹴た白衣の下、巻いている包帯をポリポリと掻きながら、
「そうは言うがなあ……」
「また要らぬ事に首を突っ込んだな、婆沙? だが、諦めろ」
縁の柱に寄りかかって様子を眺めていた兄が言葉を挟んだ。
「頭を下げるだけ無駄じゃ。俺が言ったろう? この男は自分の得にならないことは一切しないと」
「ならば、向こう1ヶ月……いや、半年、おまえの飲む酒は全て俺が奢る。それでどうじゃ?」
有雪は目を細めた。
「ほう? そこまで言うなら、協力してやらないわけではない……」
「あ、ありがとうございます!」
一層深く頭を下げるマシラ。勢いづいて婆沙丸が叫んだ。
「日は3日後、場所は
「神泉苑? ふむ、 あそこは昔から
例によって有雪は博識を誇示した。
「〈術比べ〉には最適な場所じゃ。淳和帝の御世の天長元年(824)、東寺の空海が西寺の
「なるほど。その地を選んだ法師側が〈祈雨の術〉を披露するのはわかった」
冷静に問う狂乱丸。
「だが、アシタバはそこで一体何をやるんだ?」
婆沙丸は神妙な面持ちで答えた。
「それさ、アシタバは山法師と観衆の面前で、『当日は今までと違うモノを〈念〉で動かして見せる』と請け負ったのじゃ」
「何をだ?」
「人さ」
「――」
田楽屋敷を沈黙が支配した。
どのくらいたったろう。
狂乱丸が鸚鵡返しに訊いた。
「ひと?」
「そう、
「そうか。で、聞くが、その〝人を移動させる術〟とやら、今までにやったことは?」
きっぱりと首を振る弟。
「一度もないそうだ」
「話にならん!」
「だから、こうして泣きついているのだ! 簡単にやれるのなら誰が有雪なんぞに頭を下げるよ! あ、いや、その、ゴホゴホ」
「フン、ソレが本音か。だが、そういう事情なら――」
狂乱丸は唇の端を攣り挙げた。笑ったのだ。その微笑の妖艶なこと!
「有雪に頼るまでもないぞ。俺が名案を授けてやる」
「え?」
兄の意外な言葉に目を輝かせる婆沙丸。一方マシラは地面に額を擦り付けながら、
「ありがとうございます!」
「夜逃げしろ」
「――」
「稼いだ金をまとめて今すぐ
「いや、待て。そうとばかりは言えないぞ?」
田楽師の美しい装束を抑える陰陽師の手。
「と言うか、むしろ、人を動かすなど、たやすいことよ」
「ほ、本当か有雪!」
「陰陽師様!」
「
有雪は鼻を鳴らした。
「少々準備が大掛かりになるくらいで、やり方は変わらぬ」
「準備って、何を用意すればいいんだ? 必要なものは全部、俺達で掻き集めてみせるから」
「まず、人を入れる大きな箱が一つ。それに被せる見栄えのいい錦の布。後は――」
息を詰めて聞き入る娘と婆沙丸にあっさりと有雪は言い切った。
「瓜二つの人間」
「そいつぁいい!」
狂乱丸は手を叩いて大笑いした。
「瓜二つの人間か! だが、残念ながら
「それなら大丈夫だ!」
弟は慌てなかった。
「田楽師兄弟だから顔が割れているんだ。誰も知らない、
「普通の……女子?」
ハッとして、狂乱丸が叫ぶ。
「嫌じゃ! 絶対、だめだからな! 俺は断る!」
両袖を振りながら、
「考えても見ろ、自慢じゃないが俺はこれまで一度だって女に化けたことはないんだぞ! おまえはやったが」 ※第1
「あれ? そうだっけか? でもまあ、人助けじゃ。この際兄者も女装を初披露してもいいではないか」
「い・や・じゃ! 絶対に嫌! 誰が女の格好などするものか!」
「どんなことをしても? 誰が頼んでも?」
「ウッ、そ、それは……その……まあ、人によっては考えてみないことも……ない……かな?」
「俺?」
その夜の田楽屋敷。
例によって勤めを終えて使庁から真直ぐにやって来た検非遺使の袖を玄関先で捕まえる婆沙丸だった。
「そう、
―― まあ、成澄が頭を下げて、
俺のそんな姿をどうしても見てみたいというのなら、
考えてみないことも……ないかな?
「だから、ここは一つ、よろしく頼む、成澄!」
「お、おいおい?」
背中を押して兄の自室まで連れて行く。
襖を開けて、ほとんど突き倒す勢いで中へ押し入れた。
「成澄か?」
小机の前に端座していた狂乱丸。しっとりと濡れた瞳で屈強の検非遺使を見上げた。
「俺に、何か用か?」
期待に胸膨らませて、既に頬が薔薇色に染まっている。
「
そんな田楽師を見つめて、
「別に俺は、おまえの娘姿なんぞ見たいとは思わん」
「えーーーー!」
これは廊下で様子を窺っていた婆沙丸の悲鳴である。
慌てて、有雪が口を塞いだ。
「シッ!」
とはいえ、巷の陰陽師も舌打ちせずにはいられない。
「まあ、おまえが叫びたくなる気持ちもわかるよ。あの朴念仁め。もう少し、場を読め、場を」
口から有雪の手を毟り取って毒ずく婆沙丸。
「無骨な男とは思っていたがよ、本当に救いようがないな、あいつ!」
廊下の罵詈雑言をよそに、その無骨な検非遺使は言い切った。
「だってよ、狂乱丸は娘の格好などしなくとも、俺の目には今のままで充分美しいものな! アハハハハ……」
「!」
時を置かず狂乱丸は廊下に向かって叫んだ。
「――やるよ! やる! おい、聞いてるのか、婆沙! 俺の一世一代の娘姿見せてやる!」
つくづくと首を振る有雪だった。
「前言撤回。成澄の奴、ひょっとして……物凄い術者かも知れぬ……」
「兄者も承諾したことだし、これで何も心配することはないぞ、良かったな?」
邸にも上がらずずっと庭の隅で成り行きを見守っていた呪術師の妹に婆沙丸は告げた。
「さあ、もう安心して、今日のところは住処へ帰れ。準備については明日以降、有雪に訊きながらやっていくことにしよう」
既に日はとっぷりと暮れている。
今日も今日とて(いつもより上機嫌に)酒盛りが始まった座敷を振り返ってから、婆沙丸は笑った。
「俺が送って行くよ」
娘は黙って深々と頭を下げた。
その娘の白い手が、並んで歩く婆沙丸の腕に絡みついたのは帰り道を暫く歩いた後だった。