第22話 野馬台詩~やまとし~〈1〉
文字数 3,816文字
康治二年(1143)は奇怪な流行病 で人死の続いた夏であった。
「もし、検非遺使の中原成澄様とお見受けしますが?」
その日、四条大宮は綾小路から坊城通りに向けて漫 ろ歩いていた成澄の袖を引く者があった。
傍らにいた狂乱丸の方が先に反応した。と言うのも、袖を引いた者が寺童と思しき水も滴る美少年。
当世、京師 で一番の麗しき田楽師として名を馳せる狂乱丸に勝るとも劣らない、ときては。
少年は蜻蛉を縫いとった水干に菖蒲色の袴も綺羅綺羅しい出で立ちである。
「いかにも。私が中原成澄だが?」
月のように青白かった少年の頬にパッと朱が射した。宛ら、夜明けの空の如き薄紅の微笑みで、
「私は、名を秋津丸と申します。せひ、ぜひ、聞いていただきたいことがあって、無礼とは知りつつ声をかけました」
秋津丸はそのまま検非遺使を近くの地蔵菩薩を祀った堂宇の暗がりへと誘った。
無論、狂乱丸が黙って行かせるはずはない。彼も同道した。
秋津丸は周囲を見回した後、口早に、
「中原様、このところの貴人の相次ぐ病死について、如何 思われます?」
「惜しいことである」
成澄は率直に答えた。
「亡くなられた方は皆、清廉、且つ、前途有望な人材であった。あのような立派な人たちが次々死んで行くとは……改めて、無常の世を噛み締めている」
さればこそ、と言って連れの田楽師を振り返って、
「今日はこうして、我等も寺社詣りなどして病封じをしておるところよ」
「病 ではありません」
秋津丸はきっぱりと言い切った。
「昨今続いている〈死〉は全て……人に因って 齎されたものです 」
「その秋津丸 、水も滴る毘沙門天の使いの如き美童が〈殺し〉だと明言したのだな?」
一条堀川の通称、田楽屋敷。
ここは先代師匠・犬王の屋敷である。
田楽は元々田植え行事から起こった。稲田を害から守り、健やかな生育を寿ぐ儀式であったものがいつのころからか邪を祓う祭りとなり、煌びやかな綾羅錦繍 の衣装、独特の楽器で賑やかに舞い歌う芸能として人々に浸透した。法師からなる本座、俗人からなる新座と体系も整理されたのだが、犬王は新座を統べる長であった。急逝後、その跡目を継いだのが狂乱丸である。
さて。若き田楽屋敷の主は、帰るなり早速、今日の不可思議な邂逅 を双子の弟・婆沙 丸に語って聞かせた。
話を聞いて、弟は大いに驚いた。
「ううむ。で、美童がそう言い切れる理由は何じゃ? 今をときめく貴人たちが何人も妖しい病 で死んだのは事実だ。それを真っ向から否定するとは、余程の根拠があってこそだ」
「まあ、待て」
矢継ぎ早やに質す弟を兄は制した。
「何、その美童の言葉自体、まだ信じるには値しない。検非遺使の気を惹きたくて興味ありそうな作り話を吹っかけて来たのかも知れぬからな?」
この兄の疑り深さは常のことである。
ここで改めて、検非違使についても記すと──
検非遺使は嵯峨帝の御代、都の治安維持に設置されたのがその始まりである。警察と司法の両方を司る重職で代々左右衛門府より武略軍略に卓越した官人が選抜された。蛮絵と称する獣文様の黒衣を纏って、その猛々しさから一目でそれと識別できる。
かくのごとき天下の検非遺使と田楽師が懇意なのには訳がある。
二年前の保延七年、新年を寿ぐ修二会 の儀式にいきなり飛び入って舞い歌った美しい双子の田楽師があった。その舞姿、歌う声の素晴らしさは今も人々の語り草となっている。いわずもがな、この田楽師こそ狂乱・婆沙の兄弟であり、その現場にいた検非遺使が中原成澄だった。
元々田楽狂いのこの男、取り押さえるどころか、やおら懐から自慢の朱塗りの笛を取り出して一緒に踊り騒いだ。以来、昵懇 の間柄である。暇さえあればここ田楽屋敷に侍っている始末──
「いきなり声をかけてきた素性も知れぬ輩の突拍子もない話を鵜呑みにするは愚かなことじゃ。無論、成澄とて同じ。半信半疑の体だった。すると、この秋津丸、『証拠を見せる』と言い出してな」
「死の原因が〈病〉ではなく〈殺し〉だと言う証拠 か? そりゃ凄い!」
婆沙丸は一層驚いた。
「で? 何だった?どんな物 だった?」
「だから、それを明日、見に行くのじゃ。秋津丸が言うには、『今日は持っていないが、明日、必ず持参する』だとさ!」
少々落胆したもののすぐ気を取り直して婆沙丸は頷いた。
「そうか、明日か。それは楽しみだな! 〈殺し〉の証拠などという物、滅多に拝めるものじゃない。何なんだろうな? ちょっと想像ができないが。勿論、兄者も成澄と見に行くんだろう?」
「いや、俺は行かぬ」
「え?」
狂乱丸の瞳が妖しげに燦いた。
「一緒には 、な」
何事も冷静沈着、別の言い方をすれば疑り深い兄の田楽師は指定された待合場所に先回りしようという魂胆である。隠れていて、一部始終──彼の言葉を借りれば『ありのままの真実』を見てやろうという腹積もりなのだ。この方が秋津丸の正体や本音を看破し易い。万が一、逢引の口実だったら許さない。その場で飛び出してとっちめてやろう。
今更ながら婆沙 丸は兄の悋気が可笑しかった。が、苦笑を噛み殺しつつ明日は自分も一緒に兄について行くことにした。狂乱丸も流石に一人では心細いはず。
二人は〝二人で一人〟という──多分、母の胎内にいた時以来の──感覚から抜け出せずにいた。
いつも二人でいる時が一番安心できる。
これは婆沙丸とて同じだったから、双方、相手が自分を必要な時は何を置いてもその願いに沿うのだ。
翌日、約束の場所、|市原野〈いちはらの〉。
ここは京師 の北の外れ、鞍馬街道に沿った草深い山間の地である。
秋津丸が指定した小さな祠から、やや離れた繁みの中に田楽師兄弟は身を潜めている。
「……いくら何でも早過ぎはしないか? こんな処で待ち続けては虫に食われるばかりじゃ」
「シッ! 静かに」
「なあ? ここから少し行ったら……小野小町の墓がある補陀落寺だろ?」
蚊に食われた腕を掻きながら婆沙丸、
「せっかくだからさ、帰りにお参りしていこうか? 百夜通いをせずとも兄者の恋が成就するかも知れぬぞ?」
「いいから、黙ってろ、婆沙」
「だって、兄者は例の深草少将は成澄のような男だと思ってるんだろ? まあ、篤実という点では当たっているかも知れぬが、俺に言わせれば、成澄はもう少し──」
さっきから軽口を叩きっ放しの弟を真顔で兄が遮った。
「おい、今、叫び声がしなかったか?」
「え?」
涼しげな海賦文様、紫苑の色目の袖を翻して草叢 から飛び出す兄。
文様は同じ、色目は月草の弟も続いた。
果たして──
堂内の薄闇に重なり合って影が蠢いている。
「何をしている!」
「──?」
田楽師の玲瓏な一喝に、影の一つが飛び退 る。背後の扉から逃げ去った。
「あ! 待てっ!」
訳がわからないまま、反射的に婆沙丸は追った。
しかし、山育ちの足を持ってしても逃げた輩 を捕まえることはできなかった。その後ろ姿を熊笹の波の果てに見失ったまま、諦めて引き返す。
「兄者?」
堂内で兄は呆けたように佇んでいた。
足下に横たわる美童が水面に映る兄の写し絵のように見える。
その不吉な連想を頭を振って打ち消してから、婆沙丸は訊いた。
「それが、例の──?」
「ああ、秋津丸じゃ」
「死んでるのか?」
聞くまでもなかった。美童の首には細い紐が巻き付いたままで、その紐よりもさらに細く口元から一筋、鮮血が床に滴っている――
「もっと早く来れば良かった。そうすれば俺の悋気も少しは役に立った。人の命を救えただろうから……」
頻りに悔やむ狂乱丸だった。
約束の刻限通りにやって来た検非遺使はこの惨事を見て、まず田楽師を慰めた。
「そう自分を責めるな、狂乱丸」
薄ら寂しい堂に一人侍る美童に狂って、通りすがりの下郎にでも襲われたのだろう。秋津丸の垂髪は千々に乱れ、衣も無残に裂けている。
「兄者! 成澄!」
先刻よりずっと遺骸の傍らで、膝を突いて何やら熱心に覗き込んでいた婆沙丸がここで小さく声を上げた。
「手を見てみろ! こやつ、何か握っているぞ……」
職業柄、死体の扱いに慣れている成澄が慎重、且つ決然と少年の固く握り締めた拳を開いて行く。
骨の折れる音を耳の良い田楽師兄弟は聞くまいと努めた。やがて──
手の中から現れたのは小さな紙片だった。びっしりと五言句が書き連ねてある。
《 東海姫氏国 白龍遊失水 宭急寄胡城 黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸
猿犬称英雄 星流鳥野外 鐘鼓喧国中 青丘与赤土 茫茫遂為空 》
「……これは何だ?」
「……どういう意味だろう?」
顔を見合わせる双子の田楽師。
屈強な検非遺使は烏帽子に手をやりながら苦々しげに呟いた。
「有雪の出番だな? 俺はこの手のものにはカラッキシ弱い……」
「もし、検非遺使の中原成澄様とお見受けしますが?」
その日、四条大宮は綾小路から坊城通りに向けて
傍らにいた狂乱丸の方が先に反応した。と言うのも、袖を引いた者が寺童と思しき水も滴る美少年。
当世、
少年は蜻蛉を縫いとった水干に菖蒲色の袴も綺羅綺羅しい出で立ちである。
「いかにも。私が中原成澄だが?」
月のように青白かった少年の頬にパッと朱が射した。宛ら、夜明けの空の如き薄紅の微笑みで、
「私は、名を秋津丸と申します。せひ、ぜひ、聞いていただきたいことがあって、無礼とは知りつつ声をかけました」
秋津丸はそのまま検非遺使を近くの地蔵菩薩を祀った堂宇の暗がりへと誘った。
無論、狂乱丸が黙って行かせるはずはない。彼も同道した。
秋津丸は周囲を見回した後、口早に、
「中原様、このところの貴人の相次ぐ病死について、
「惜しいことである」
成澄は率直に答えた。
「亡くなられた方は皆、清廉、且つ、前途有望な人材であった。あのような立派な人たちが次々死んで行くとは……改めて、無常の世を噛み締めている」
さればこそ、と言って連れの田楽師を振り返って、
「今日はこうして、我等も寺社詣りなどして病封じをしておるところよ」
「
秋津丸はきっぱりと言い切った。
「昨今続いている〈死〉は全て……
「その
一条堀川の通称、田楽屋敷。
ここは先代師匠・犬王の屋敷である。
田楽は元々田植え行事から起こった。稲田を害から守り、健やかな生育を寿ぐ儀式であったものがいつのころからか邪を祓う祭りとなり、煌びやかな
さて。若き田楽屋敷の主は、帰るなり早速、今日の不可思議な
話を聞いて、弟は大いに驚いた。
「ううむ。で、美童がそう言い切れる理由は何じゃ? 今をときめく貴人たちが何人も妖しい
「まあ、待て」
矢継ぎ早やに質す弟を兄は制した。
「何、その美童の言葉自体、まだ信じるには値しない。検非遺使の気を惹きたくて興味ありそうな作り話を吹っかけて来たのかも知れぬからな?」
この兄の疑り深さは常のことである。
ここで改めて、検非違使についても記すと──
検非遺使は嵯峨帝の御代、都の治安維持に設置されたのがその始まりである。警察と司法の両方を司る重職で代々左右衛門府より武略軍略に卓越した官人が選抜された。蛮絵と称する獣文様の黒衣を纏って、その猛々しさから一目でそれと識別できる。
かくのごとき天下の検非遺使と田楽師が懇意なのには訳がある。
二年前の保延七年、新年を寿ぐ
元々田楽狂いのこの男、取り押さえるどころか、やおら懐から自慢の朱塗りの笛を取り出して一緒に踊り騒いだ。以来、
「いきなり声をかけてきた素性も知れぬ輩の突拍子もない話を鵜呑みにするは愚かなことじゃ。無論、成澄とて同じ。半信半疑の体だった。すると、この秋津丸、『証拠を見せる』と言い出してな」
「死の原因が〈病〉ではなく〈殺し〉だと言う
婆沙丸は一層驚いた。
「で? 何だった?
「だから、それを明日、見に行くのじゃ。秋津丸が言うには、『今日は持っていないが、明日、必ず持参する』だとさ!」
少々落胆したもののすぐ気を取り直して婆沙丸は頷いた。
「そうか、明日か。それは楽しみだな! 〈殺し〉の証拠などという物、滅多に拝めるものじゃない。何なんだろうな? ちょっと想像ができないが。勿論、兄者も成澄と見に行くんだろう?」
「いや、俺は行かぬ」
「え?」
狂乱丸の瞳が妖しげに燦いた。
「
何事も冷静沈着、別の言い方をすれば疑り深い兄の田楽師は指定された待合場所に先回りしようという魂胆である。隠れていて、一部始終──彼の言葉を借りれば『ありのままの真実』を見てやろうという腹積もりなのだ。この方が秋津丸の正体や本音を看破し易い。万が一、逢引の口実だったら許さない。その場で飛び出してとっちめてやろう。
今更ながら
二人は〝二人で一人〟という──多分、母の胎内にいた時以来の──感覚から抜け出せずにいた。
いつも二人でいる時が一番安心できる。
これは婆沙丸とて同じだったから、双方、相手が自分を必要な時は何を置いてもその願いに沿うのだ。
翌日、約束の場所、|市原野〈いちはらの〉。
ここは
秋津丸が指定した小さな祠から、やや離れた繁みの中に田楽師兄弟は身を潜めている。
「……いくら何でも早過ぎはしないか? こんな処で待ち続けては虫に食われるばかりじゃ」
「シッ! 静かに」
「なあ? ここから少し行ったら……小野小町の墓がある補陀落寺だろ?」
蚊に食われた腕を掻きながら婆沙丸、
「せっかくだからさ、帰りにお参りしていこうか? 百夜通いをせずとも兄者の恋が成就するかも知れぬぞ?」
「いいから、黙ってろ、婆沙」
「だって、兄者は例の深草少将は成澄のような男だと思ってるんだろ? まあ、篤実という点では当たっているかも知れぬが、俺に言わせれば、成澄はもう少し──」
さっきから軽口を叩きっ放しの弟を真顔で兄が遮った。
「おい、今、叫び声がしなかったか?」
「え?」
涼しげな海賦文様、紫苑の色目の袖を翻して
文様は同じ、色目は月草の弟も続いた。
果たして──
堂内の薄闇に重なり合って影が蠢いている。
「何をしている!」
「──?」
田楽師の玲瓏な一喝に、影の一つが飛び
「あ! 待てっ!」
訳がわからないまま、反射的に婆沙丸は追った。
しかし、山育ちの足を持ってしても逃げた
「兄者?」
堂内で兄は呆けたように佇んでいた。
足下に横たわる美童が水面に映る兄の写し絵のように見える。
その不吉な連想を頭を振って打ち消してから、婆沙丸は訊いた。
「それが、例の──?」
「ああ、秋津丸じゃ」
「死んでるのか?」
聞くまでもなかった。美童の首には細い紐が巻き付いたままで、その紐よりもさらに細く口元から一筋、鮮血が床に滴っている――
「もっと早く来れば良かった。そうすれば俺の悋気も少しは役に立った。人の命を救えただろうから……」
頻りに悔やむ狂乱丸だった。
約束の刻限通りにやって来た検非遺使はこの惨事を見て、まず田楽師を慰めた。
「そう自分を責めるな、狂乱丸」
薄ら寂しい堂に一人侍る美童に狂って、通りすがりの下郎にでも襲われたのだろう。秋津丸の垂髪は千々に乱れ、衣も無残に裂けている。
「兄者! 成澄!」
先刻よりずっと遺骸の傍らで、膝を突いて何やら熱心に覗き込んでいた婆沙丸がここで小さく声を上げた。
「手を見てみろ! こやつ、何か握っているぞ……」
職業柄、死体の扱いに慣れている成澄が慎重、且つ決然と少年の固く握り締めた拳を開いて行く。
骨の折れる音を耳の良い田楽師兄弟は聞くまいと努めた。やがて──
手の中から現れたのは小さな紙片だった。びっしりと五言句が書き連ねてある。
《 東海姫氏国 白龍遊失水 宭急寄胡城 黄鶏代人食 黒鼠喰牛腸
猿犬称英雄 星流鳥野外 鐘鼓喧国中 青丘与赤土 茫茫遂為空 》
「……これは何だ?」
「……どういう意味だろう?」
顔を見合わせる双子の田楽師。
屈強な検非遺使は烏帽子に手をやりながら苦々しげに呟いた。
「有雪の出番だな? 俺はこの手のものにはカラッキシ弱い……」