第11話 花喰い鬼 〈2〉
文字数 6,367文字
寝所としている
「どうか……今暫く、ここに」
薬師が来るまで不安なのだろう。成澄は納得して枕元に腰を下ろした。
ところが、肝心の薬師はおろか、呼びに走らせたという牛飼い童すら一向に戻って来る気配がない。
屋敷の構えは豪壮ではあるが古錆びて、他に人もいないらしく森閑としていた。
厨子や衝立障子、几帳に屏風……室内の設いも品が良くはあるが古風過ぎる。
多分、昔はそれなりに名のあるやんごとない家柄だったのだろうな、と成澄は周囲を見回しながら推察した。隆盛していた貴人が時流に乗れず没落するのは、当世珍しいことではない。
(それにしても──)
流石に臥せっている姫の顔ばかり見つめているわけにもいかず成澄は困った。
とはいえ、目を逸らそうとすればするほど成澄の双眸は姫の雪白の肌に引き寄せられてしまう。
それほど十六夜姫は美しかった。
(年の頃は十五、六か? 華奢で小柄だから、立ってもその背は俺の胸にも届くまい……)
そんなことをぼんやり考えていると突然、クスクスと笑う声が夜具の内から響いた。
「
ガバッと姫が起き上がる。
「でも、私はもう嫌! そういつまでも病人の真似はできぬ!」
「はぁ……?」
検非遺使は腰を抜かしかけた。その昔、竹の間から照り輝く姫を見つけた竹取の翁もかくや。
一方、黒髪を肩に跳ね上げながら姫君は屈託がない。
夜具に潜っていたせいだろう、上気した頬が暁の空のようだった。
「牛飼い童はな、稲目と争うて牛ごと逃げて行ったのじゃ。これ以上タダ働きは御免だと叫んでおったぞ。往来に置き去りにされた我等は帰るに帰れず──助けてくれそうな優しい御仁が通りかかるのを待っておった」
「ああ、なるほど」
合点がいって漸く成澄も微笑んだ。
乳母の稲目は気位が高くて困る、と十六夜姫は続ける。
「我家が貴人だったのは母の父君──私の祖父の代までじゃ。何でも祖父は
「ご病気でないと知って安心しました。では、私はこれで」
今度こそ立ち去ろうとする成澄。姫のたおやかな腕がまた伸びて、右腕に絡みつく。
「おや? 検非違使様も体裁が大事か? こんな落ちぶれた家の姫など相手にはせぬと?」
「まさか!」
成澄は座り直した。その様子をつくづくと眺めて姫は笑うのだ。
「本当に。『検非遺使は容貌第一』とは聞いていたが……こんなにも美しい
円らな瞳に薄い唇。愛くるしい幼顔に反して、十六夜姫が思ったままを口にするのには成澄も驚いた。
だが、その率直さが新緑の風のように胸に爽やかだ。
更に、姫は可愛らしい唇を尖らせると、
「ところで、検非違使様。先刻、抱き取られた際、逞しい腕に厚い胸、それはそれは心地良かったが。でも、唯一不快な部分があったぞ? 固くてゴツゴツしていて痛かった。あれは何?」
これには成澄、思わず吹き出した。
「これは失礼した! その硬い物とは──」
おもむろに実物を取り出して、
「
使庁でも知らぬ者はない。中原成澄が肌身離さず
ところが──
十六夜姫はそれを見た途端、キャッと叫んで袖で顔を覆ってしまった。
「あな、恐ろしや!」
面食らって成澄は聞き返す。
「恐ろしい?」
「だって、その
どうやらこの姫君、昔物語が大好きと見える。
笛の名手、源博雅が鬼から琵琶を取り戻した話を思い出して成澄ははたと膝を打った。
「アハハハ……! ご安心を。私の
とは言うものの、成澄本人は自分の笛や、それから、ついさっきまではあれほど心ときめくと思っていた鼓や
(こういう感覚はいつ以来だろう?)
そうか? 俺は自分でも気付かなかったが、検非遺使として使庁に勤める殺伐とした日々の中で、内心ずっと、こんな風な……儚くて、優しくて、甘い、
姫の漆黒の髪は
実際の夜には、まだ幾分間があるというのに。
「──」
朱塗りの笛が指から滑り落ちる。
それが転がって、部屋の隅に置かれていた貝桶にぶつかった時、成澄の指は十六夜姫の
姫はちっとも抗わなかった──
「なあ、兄者? 少し休もう……」
先刻より右往左往して駆け回っているの田楽師兄弟だった。
昨日、
兄に付き合ってついて来たはいいが婆沙丸の方は流石に疲れ果ててしまった。
しかし、弟の哀訴の声など一向に耳に入らぬ
「こっちも違う。だめだな? 一瞬にせよ、昨日はあんなに鮮明だったのに……」
市の内にいればいるほど却って匂いがわからなくなってしまったと零すこと頻りである。
確かに、市は雑多な匂いに満ちている。
魚や貝、猪に兎、雉の肉。煮物や惣菜もあれば、豆、栗、胡桃に雑穀。昆布に
果ては、団子に餅、得体の知れない揚げ物……
そのどれもが其々の香りを漂わせているのだ。散々っぱら連れ回されて、婆沙丸は今や胃袋を
「兄者の言うのも尤もだ。それは、つまり、匂いを嗅ぎ過ぎて自慢の鼻が麻痺してしまったのさ。ここはいったん休んで、だな、気分を変えたほうが良いぞ」
「うむ?」
渋る兄を引っ張って弟が飛び込んだのは都で人気の飴屋だった。
「おい、婆沙丸、この匂いは──」
「ああ、ウットリするだろ? ここの飴は絶品と評判だぞ。何でも幽霊さえ買いに来るとか。だが、今日は俺はこれじゃ!」
糖蜜をたらりとかけた餅を選んだ婆沙丸。と、そこへ意外な人物が入って来た。
「
「これはこれは検非違使様! ご贔屓のほどありがとうございます」
「あれ、成澄?」
「おう、婆沙? 狂乱丸も?」
「ひょんな所で会うな?」
狂乱丸の目が鋭く光った。
「成澄の酒好きは大いに承知しているが……よもや、甘党とは今の今まで知らなんだ」
実際、強装束の検非違使が、太刀を振り弓を引くその手に水飴の壺を捧げ盛っている姿は何とも滑稽極まる。当の成澄は空いた方の手を
「い、いや、こ、こ、これは、俺のではない。その、ほら、土産、土産じゃ」
この男がこういう仕草をするのは、悩んでいる時か困った時だということを田楽師兄弟はとうの昔に知っていた。
「いやあ! それにしても、会えてよかった! どの道、これから田楽屋敷へ寄るつもりだったからな!」
飴屋の店先で、昨夜の
「ふん、わざわざその新しい女の話を
「まあまあ、兄者。そう成澄を
餅を頬張りながら兄を宥める婆沙丸。
「しかし、してみると今回に限っては
笑いを噛み殺す弟を兄は横目で睨んで、
「何が可笑しい、婆沙丸?」
「いや、いかにも成澄らしいと思ってさ。だって、
「これは痛い!」
またしても検非違使は烏帽子に手をやった。
「
狂乱丸は鼻を鳴らして歩き出している。
「けっ、この際、
「兄者、
「あ、待て、狂乱丸!」
成澄も慌てて後を追った。水飴を下げ、愛馬を引っ張りながら双子の背に叫ぶ。
「姫にな、田楽を見せると約束したのだ! 喜べ! 今、都で評判の田楽師、狂乱・婆沙の名を姫も知っておったぞ! 勿論、これから俺と一緒に……行ってくれるだろう?」
狂乱丸と
昨日の今日、引き続いての検非遺使の来訪に乳母の
「いきなりでは大したお持て成しも出来かねます。
「何の! 持て成しなど不要! 気を遣われるな、乳母殿。これは姫との約束じゃ! おーい、十六夜姫……? 噂の田楽師を連れて来たぞ! 当代一の田楽を御覧ぜよ!」
〈花喰い鬼〉騒ぎで遠ざかっていた田楽を久々に舞い歌うせいもあって、成澄は大いに乗っていた。笛の音もいつもより冴え渡っている。
片や、狂乱丸は歌も
十六夜姫は、成澄が恋したほどのことはあった。
美しいばかりでなくて、その大胆さに兄弟も正直、驚かされた。
いかに零落したとはいえ、貴人の姫が、
しかも、
流石に夏虫色の
「なるほど! こりゃ成澄がイカレるはずだ! なあ? あの姫ときたら──いかにも成澄好みじゃないか!」
鼓を打ちつつ婆沙丸は感嘆の声を漏らした。
兄は気のない返事を返す。
「そうか?」
「だって、ほら! 成澄は気取り屋や体裁家……七面倒臭い
いや、全く、
「そうかな?」
狂乱丸はそっと呟いた。
(
弟は手放しで誉めそやすが、俺にはそうは思えない。
だって、完璧どころか、あの姫には
おや? そういう意味じゃあ
狂乱丸はこっそりと
月の欠けた処とは、
十六夜姫は、その身に翳りを有している。
俺は日頃から冷徹と言われる性分だから?
狂乱丸は
これは弟の言う通り〝悋気〟なのか?
田楽狂いの良き仲間、成澄を姫に盗られて口惜しいのか?
だとしたら──
姫の纏っている翳りとやらを、今の自分もまた、
田楽を舞いながら狂乱丸がそんなことを考えていると、一瞬、十六夜姫と目が合った。
「──……」
薄らと微笑む十六夜姫。
片膝を立てて田楽を眺めているその瞳の奥に、今度こそはっきりと狂乱丸は深淵を見て取った。
「!」
あの翳の正体が哀しみや憎しみなら──
狂乱丸は身震いした。
豪放な成澄や単純明朗な弟には
「何処へ行く? おい、兄者、待てったら……」
弟は、漸く庭の端で兄の袖を捕まえた。
「成澄も呼んでいるぞ。ほら、せっかく乳母殿が狂奔して用意してくれた膳に着こうではないか?」
「約束したのは田楽だけじゃ。舞い終わった後は、俺は帰る」
毒気を抜かれた検非遺使をこれ以上見るのはうんざりだ。
そのまま庭を突っ切って去ろうとする狂乱丸だった。
「あ!」
追おうとして、次の瞬間、婆沙丸の足が止まった。
「何と珍しい! 見てみろ、狂乱丸! あそこ……山椒に
「まさか──」
見ると、ちょうど西の門の手前、
「馬鹿、あれはイバラだ。
「いや、山椒だよ、あの
田楽の先代師匠・犬王に五つの歳に買い取られたこの兄弟は、元々は山国育ちである。
両親の顔は忘れたが遊び回った野山の風景は不思議と眼裡に刻まれていて、樹木のことには詳しかった。
「それじゃあ、どっちが正しいか確かめてみよう」
傍に近づいてみて、すぐに狂乱丸が勝ち誇って叫んだ。
「見ろ! 俺の言う通り──これは
「確かにな」
婆沙丸も渋々納得した。
「葉は山椒に似ているが、山椒ではないな。ふうん? それにしても変わったイバラじゃ。こんなのは初めて──」
そこまで言って婆沙丸は言葉を切った。口を引き結び兄を振り返る。
ほとんど同時に兄も目を花から弟へ転じた。
「おい、これは──」