第10話 花喰い鬼 〈1〉
文字数 5,937文字
「これは珍しい! 成澄殿か? 今日はまたどういう風の吹き回しだ? 昨日の〈後の月見〉の宴にも顔を見せず、何の音沙汰もないから……いよいよ田楽なんぞスッパリ忘れて真っ当な検非遺使になられたものと我等も陰ながら喜んでいたのに」
久方ぶりに一条は堀川の、俗に言う〈田楽屋敷〉にやって来た検非遺使・中原成澄。
さぞや歓迎されると思いきや、座長の狂乱丸の予想外に冷たい言葉にたじろいだ。
「おい、馬鹿も休み休み言え。どうしてこの俺が田楽を忘れるかよ?」
遡れば保延七年(1141)。
正月の修二会 の儀式の真っ最中、堂内に突如飛び入った双子の田楽師があった。
その舞姿、歌う声の美しさは今でも京師 の人々の語り草になっている。
言うまでもなく、その田楽師こそこの狂乱丸で、その場に居合わせた検非遺使が中原成澄だった。
成澄は取り押さえるどころか、ぞっこんマイッて一緒に舞い狂った。
以来、懇意の中である。暇さえあれば田楽屋敷に入り浸っているのだが──
「このところ成澄がとんとご無沙汰なのは、『恋に堕ちたせい』と有雪が卜占をたれたのさ!」
横から瓜二つの顔が覗いて教えてくれた。こちらが弟の婆沙 丸。
「それで、兄者は機嫌が悪いのだ」
「おまえは黙ってろ、婆沙丸!」
これを聞いて少々安堵したらしく検非遺使は呵呵笑い出した。
「有雪だと? あの橋下の陰陽師め! 奴の占いが当たった験しなどないではないか!」
俺が来られなかったのはそんな風流な理由ではないわ。もっともっと……禍々 しくも恐ろしいこと。
そう言って中原成澄は〈花喰い鬼〉の話を語り始めた。
「ここだけの話だが……」
一ヶ月前の康治2年(1143)、八月十五日。
さる公達 が殺害された。
それが尋常な死に様ではない。
名を源匡房 。父は左大臣を務めたほどのこの貴人の若者は、三条堀川にある自邸の寝所で下腹部を蹴り殺されて果てた。
宛ら、極楽浄土のようだったと、その場に駆けつけた検非遺使始め、付き従う衛士、放免 に至るまで口々に囁き合った。 ※放免=元咎人の従者
「極楽 なら良いではないか!」
ここまで聞いていた弟の田楽師、訝しんで声を上げる。
成澄は手を振って、
「なんの。それは皮肉というものよ」
確かに、この公達、極楽浄土にも似て、咲き乱れる花園の中で息絶えていた。
しかもその死に顔の美しいこと。元々美男と評判の白皙の面には毛ほどの傷もない。
但し、花園は花園でも、腹を蹴り破ったその血 に浸した足で殺人者は踊り狂ったと見えて、夜具の周囲にこびりついた足跡が深紅の花の正体だった……
「ゲッ」
「のみならず、ご丁寧に本物の花 まで撒き散らしてあった」
「本物? どんな花だ?」
「何、花自体は何処にでもある庚申花の類だ。だが、恐ろしいのは花の種類ではなくて──それらに全て噛み痕 がついていたこと」
衛士に命じて一つ残らず拾い集めさせたところ、室内に巻かれていた花の数は二十。そのどれも花びらの一片が噛みちぎられていた。
「だから、〈花喰い鬼〉か?」
婆沙丸は身震いした。
一方、冷静沈着を持ってなる兄は言う。
「にしても、いくら無残な殺され方とは言え、今の世にいきなり〈鬼〉と決め付けるのはいかがなものか?」
検非遺使は何とも言えない凄みのある笑い方をした。
「間違いなく鬼さ! 見た者がいる」
件 の夜、寝所の平生と違う物音を敏感に聞き取って様子を見に行った小舎人 がいた。 ※小舎人=童の従者
死体を発見したのもこの少年なのだが、これが折からの十五夜の満月の下、ちょうど寝所から飛び出して渡殿を駆け去る鬼の姿をしっかとその目で見た。
日頃から聡明で、主人に可愛がられていた十歳になるこの小舎人が震えながら言うには、
『紅匂の小袿 を翻して駆け去る鬼は頭に三本の角 を生やしておりました……』
「三本とは!」
目撃された鬼の角の数を聞いてのけぞる婆沙 丸。
だが、狂乱丸はまだ納得できかねるという顔で、
「フン。恐怖のあまりその童は見間違えたのかも?」
「鬼を見たものは他にもいる」
たくましい胸の前で腕を組みながら成澄は言う。
「ほとんど同時刻、騒動のあった屋敷近くの川で、浅瀬を渡って行く三本角 の鬼を見た清目 が河原で腰を抜かしたと報告があった」
とうとう狂乱丸も頷いた。深く息を吐いてから、
「そうか。そんな災厄が持ち上がっているとは知らなんだ」
「巷に漏れないよう使庁も躍起になっているのだ。と言うのも──実はこれが最後ではなくてな。この一ヶ月の間に続けて二回、〈花喰い鬼〉は出た……」
「二回だと?」
「では、やはり、同様の殺され方 をしたのか?」
「その通り。いずれも名のある美しい公達だった。これ以上惨劇を繰り返すわけにはいかぬ。使庁の面目にかけて何としても鬼を絡め取れ、と別当殿も狂乱の体じゃ」 ※別当=最高長官
ここでいう使庁とは検非遺使庁のことで、京師 の治安維持に設置された、警察と司法の両方を担う機関である。その起こりは嵯峨帝の御代に遡る。以来、検非遺使には左右衛門府より武略軍略に卓越した官人が抜擢されて来た。蛮絵と呼ばれる獣文様の黒装束を纏い、一目でそれと識別できる人気の重職である。
さて。
成澄は色違いの水干姿──今宵、兄の色目は萩、弟は花薄 である──の田楽師兄弟を交互に眺めて話を締め括った。
「どうだ? これで流石の俺もこの一ヶ月、田楽どころではなかったのがわかったろう?」
真実、ほとほと疲れ果てた。
今日ばかりはちょっと息抜きしようと久々にここ、一条堀川に足を向けた成澄だった。
「そういうことなら、我等、存分にお慰めいたそう! ──おーい、酒じゃ!」
狂乱丸が手を叩いたのとほとんど同時に襖が開いて、縁に膝をついて小者が告げた。
「中原様! 只今、使庁より使いが参っております!」
「何?」
成澄、大刀を引っ掴んで茵 より立ち上がった。 ※茵=座布団
「もしや、またしても……〈花喰い鬼〉が現れたか!?」
そのもしや である。
「処は左京……八条北……堀川の……」
使者の報告ももどかしく愛馬に飛び乗った検非遺使を呼び止めたのは双子の田楽師だった。
手綱を引き絞って振り返った成澄に、射千玉 の垂髪を揺らして二人は懇願した。
「成澄、俺たちも同道させろ!」
「〈鬼〉の仕業というもの、ぜひ、この目で見てみたい!」
極楽浄土とは、よく言ったものだと兄弟はつくづく納得した。
八条堀川の一町家。豪奢を極めたそこは公卿藤原顕頼 の屋敷である。
蹴り殺されたのは、名を顕光 と言うこの家の令息。 ※一町家=約120m四方の豪邸
主である父の顕頼もその妻も主殿の方にいたが、西の対屋 に寝起きする息子の異変には全く気付かなかった。
昼を過ぎても起き出してくる気配のない若殿を怪訝に思い家司が部屋を覗いて発見した。
部屋の前の縁から庭の砂子の上に血の足跡が点々と染みていた。が、それも池から向こうでは消えている。
「きっと、あの池で足を濯いだのだろう……」
毎度のことながら貴人の広すぎる庭に成澄は舌打ちした。自分の屋敷も似たようなものなのだが。
「これでは鬼がどの方向へ去ったのか丸っきりわからないではないか!」
藤原顕頼と言えば、今をときめく権門。仕える家司、郎党も多く、警備もしっかりしていたはず。
にもかかわらずこの有様だ。
昨夜は〈名残の月〉で、夜を徹して酒盛りをしていたとか。夜明けころには皆、酔い潰れて眠りこけてしまった。
季節は九月である。秋たけなわの庭には趣向を凝らして面白く植えられた花木が競うように咲き誇っている。萩、蘇芳 、紫苑に竜胆、撫子、菊……
死体の周りに撒かれていたのと同じ庚申花も見うけられた。
その名の通り冬に至るまで隔月に花をつけるこの木は貴人の庭ではさして珍しくもない、ありふれた花なのだ。
だが、勿論、庭に咲いている庚申花には噛み痕はない。
死体に 撒かれている 花にだけ その不気味な印があった。
「……では、鬼はこれを摘み取って、噛んだ後、ばら蒔いたのか?」
枝を揺らせて庭の庚申花をためつがめつしながら成澄は呟いた。
噛みちぎられた花の間に横たわる若者の死に顔は、またしても端然として美しかった。
これも先の犠牲者たちと等しく眉目秀麗な公達ぶり。
常通りきちんと烏帽子をつけ、髻 から零れ落ちる乱れた髪の一筋だにない。
それが却っておぞましくもあった。
グシャグシャに踏み潰された下半身と比べて、あまりに残酷な静謐……
そして、寿祝のごとく部屋中に散華した紅い花と赤い血……
婆沙丸はそっと一つ手に取ってみた。
確かに、花びらの一片が喰い破られている。
「──……」
検死や家人からの聞き取り、穢が出たことを告げる立札 の設置等々、流石に忙しい成澄を残して兄弟は先に屋敷を出た。
いかにも田楽師らしい艶やかな装束、萩模様の濃紫の腕を組んだままずっと黙り込んでいた兄が、弟の、同じ模様ながら色目が違う、これは白と縹 色の袂 に目を止めた。
「婆沙丸、そんなもの、捨てろ」
弟は亡骸 の周囲に落ちていた花をこっそり隠し持っていたのだ。
「でも、証拠の品だぞ? 帰って有雪にも見せてみよう」
「それはただの花じゃ。何の変哲もない。それより──」
狂乱丸は一段声を低めた。
「おまえ、気づかなかったか?」
兄の問いに弟は眉を寄せた。
「気づくって……何を?」
「匂い じゃ」
公達が殺されていた部屋に独特の匂い が篭っていた、と狂乱丸は言う。
「そりゃ、貴人の部屋だもの! 香唐櫃には伽羅 の香り。むくごに炊き込めた香の香り。几帳に残るのは誰 が袖の香か……なんてね。それこそ色々匂って当然じゃ。おっと、それから、今日ばかりは死臭……血の匂い……」
そのどれとも違う 。全く別の──異質の匂い がした、と兄は言い張った。
「まあ、兄者がそう言うのなら……」
弟は頷く。
鏡のようにそっくりなこの双子、狂乱丸と婆沙丸に違うところがあるとしたら、それこそ、右手小指の赤い指輪の有無と、嗅覚だった。
子供の頃から兄が匂いに敏感なことを婆沙丸は重々承知していた。
「あ!」
その兄が突然叫んで足を止める。
「同じ匂いがしたぞ、今!」
「何だと?」
兄弟は垂髪を揺らして左右を見渡した。
ちょうど二人は堀川小路を上がって東の市を歩いていたところだ。
「俺にはわからぬが──それは、つまり、市 の匂いか? 市で嗅ぐ匂いということか?」
婆沙丸は合点がいったとばかり手を叩いた。
「なるほど! それなら貴人の屋敷の中の臭いとしては珍しかろうよ?」
鬼が市にいても全く不思議はない、と婆沙丸は思った。朱雀大路の果て、羅城門 はとうに倒れてしまって今はないが。もしあれが残っていたなら、その階上に今回の〈花喰い鬼〉も潜んでいるかも知れないぞ?
一方、狂乱丸はもどかしげに唇を噛んだ。
「クソッ、どっちだ? 紛れてしまった……」
行き交う牛車、軒を連ねた棚店、それでも足らず地面に直接筵を敷いて商品を並べている数多 の露店……
今日も東の市は花の賑わいである。
「むむ……風向きが変わったのか? だが、確かに一瞬、貴人の寝所で嗅いだのと同じ匂い がしたぞ?」
「やれやれ、今日も田楽には縁のない一日だったな?」
独りごちつつ帰路についた成澄だった。
いつもながら従者も付けずの一騎駆けで、八条から東洞院に至る。
四方は既に黄昏に暮れ泥んでいた。
「ん?」
ふと駒を止めた。
辻に、途方に暮れた体で女が一人佇んでいる。
葡萄染 の被衣 姿で、人品卑しからぬどこぞの女房風。 ※女房=女官・侍女
「どうかしたのか? 何か困り事でも?」
「あ!」
女は成澄の蛮絵から慌てて目を逸らした。
「い、いえ、検非違使様を煩わせるつもりは毛頭ございません。どうぞ、お行きください」
「?」
見れば、辻の端にうっそりと牛車が留め置かれている。あえかな女車だが、轅 は空のままで牛の姿はなかった。
「御主人に何か仔細あったと見えるが?」
気さくな身ごなしで成澄は馬を下りた。
「遠慮することはない。私でよければ力になろう」
女房は袖を振って懸命に押し止めた。
「いえ、その……外出の途上、姫様の具合が悪くなって……それで、薬師を呼びに牛飼い童をやったのですが、これが中々戻って来ず……こうして待っている次第」
「おう! それは心細かろう。私が屋敷までお送りしよう。病人をいつまでもこんな場所に置いておいては良くない」
「そ、それには及びません! どうぞ捨て置きください。ここは私たちだけで大丈夫でございます」
恐縮する女房を遮って牛車の内より声がした。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」
「十六夜姫 ……」
「ほら! 姫御自身もああ言っているではないか? 女房殿、心配なさるな。俺は鬼ではないから大事の姫を獲って喰いはせぬよ!」
病とあっては急を要する。
剛毅で聞こえた成澄、挨拶もそこそこに御簾を跳ね上げ、牛車から姫を抱き取った。
困惑する伴の女とは反対に姫は逆らうことなく屈強な検非違使の腕に躰を預けた。
「おっと……」
その儚さ、軽さ、が、却って成澄の足を蹌踉 めかせた。
紅梅の袿 、紅の打衣 。両腕の中に毀 れてしまいそうだ。
成澄は力を抜き、細心の注意を払ってそうっと柔らかく抱き直した。
甘い香りが鼻腔を擽る。馬に跨ると叫んだ。
「屋敷はどっちだ? さあ、女房殿、案内しろ!」
久方ぶりに一条は堀川の、俗に言う〈田楽屋敷〉にやって来た検非遺使・中原成澄。
さぞや歓迎されると思いきや、座長の狂乱丸の予想外に冷たい言葉にたじろいだ。
「おい、馬鹿も休み休み言え。どうしてこの俺が田楽を忘れるかよ?」
遡れば保延七年(1141)。
正月の
その舞姿、歌う声の美しさは今でも
言うまでもなく、その田楽師こそこの狂乱丸で、その場に居合わせた検非遺使が中原成澄だった。
成澄は取り押さえるどころか、ぞっこんマイッて一緒に舞い狂った。
以来、懇意の中である。暇さえあれば田楽屋敷に入り浸っているのだが──
「このところ成澄がとんとご無沙汰なのは、『恋に堕ちたせい』と有雪が卜占をたれたのさ!」
横から瓜二つの顔が覗いて教えてくれた。こちらが弟の
「それで、兄者は機嫌が悪いのだ」
「おまえは黙ってろ、婆沙丸!」
これを聞いて少々安堵したらしく検非遺使は呵呵笑い出した。
「有雪だと? あの橋下の陰陽師め! 奴の占いが当たった験しなどないではないか!」
俺が来られなかったのはそんな風流な理由ではないわ。もっともっと……
そう言って中原成澄は〈花喰い鬼〉の話を語り始めた。
「ここだけの話だが……」
一ヶ月前の康治2年(1143)、八月十五日。
さる
それが尋常な死に様ではない。
名を
宛ら、極楽浄土のようだったと、その場に駆けつけた検非遺使始め、付き従う衛士、
「
ここまで聞いていた弟の田楽師、訝しんで声を上げる。
成澄は手を振って、
「なんの。それは皮肉というものよ」
確かに、この公達、極楽浄土にも似て、咲き乱れる花園の中で息絶えていた。
しかもその死に顔の美しいこと。元々美男と評判の白皙の面には毛ほどの傷もない。
但し、花園は花園でも、腹を蹴り破った
「ゲッ」
「のみならず、ご丁寧に
「本物? どんな花だ?」
「何、花自体は何処にでもある庚申花の類だ。だが、恐ろしいのは花の種類ではなくて──それらに全て
衛士に命じて一つ残らず拾い集めさせたところ、室内に巻かれていた花の数は二十。そのどれも花びらの一片が噛みちぎられていた。
「だから、〈花喰い鬼〉か?」
婆沙丸は身震いした。
一方、冷静沈着を持ってなる兄は言う。
「にしても、いくら無残な殺され方とは言え、今の世にいきなり〈鬼〉と決め付けるのはいかがなものか?」
検非遺使は何とも言えない凄みのある笑い方をした。
「間違いなく鬼さ! 見た者がいる」
死体を発見したのもこの少年なのだが、これが折からの十五夜の満月の下、ちょうど寝所から飛び出して渡殿を駆け去る鬼の姿をしっかとその目で見た。
日頃から聡明で、主人に可愛がられていた十歳になるこの小舎人が震えながら言うには、
『紅匂の
「三本とは!」
目撃された鬼の角の数を聞いてのけぞる
だが、狂乱丸はまだ納得できかねるという顔で、
「フン。恐怖のあまりその童は見間違えたのかも?」
「鬼を見たものは他にもいる」
たくましい胸の前で腕を組みながら成澄は言う。
「ほとんど同時刻、騒動のあった屋敷近くの川で、浅瀬を渡って行く
とうとう狂乱丸も頷いた。深く息を吐いてから、
「そうか。そんな災厄が持ち上がっているとは知らなんだ」
「巷に漏れないよう使庁も躍起になっているのだ。と言うのも──実はこれが最後ではなくてな。この一ヶ月の間に続けて二回、〈花喰い鬼〉は出た……」
「二回だと?」
「では、やはり、
「その通り。いずれも名のある美しい公達だった。これ以上惨劇を繰り返すわけにはいかぬ。使庁の面目にかけて何としても鬼を絡め取れ、と別当殿も狂乱の体じゃ」 ※別当=最高長官
ここでいう使庁とは検非遺使庁のことで、
さて。
成澄は色違いの水干姿──今宵、兄の色目は萩、弟は
「どうだ? これで流石の俺もこの一ヶ月、田楽どころではなかったのがわかったろう?」
真実、ほとほと疲れ果てた。
今日ばかりはちょっと息抜きしようと久々にここ、一条堀川に足を向けた成澄だった。
「そういうことなら、我等、存分にお慰めいたそう! ──おーい、酒じゃ!」
狂乱丸が手を叩いたのとほとんど同時に襖が開いて、縁に膝をついて小者が告げた。
「中原様! 只今、使庁より使いが参っております!」
「何?」
成澄、大刀を引っ掴んで
「もしや、またしても……〈花喰い鬼〉が現れたか!?」
その
「処は左京……八条北……堀川の……」
使者の報告ももどかしく愛馬に飛び乗った検非遺使を呼び止めたのは双子の田楽師だった。
手綱を引き絞って振り返った成澄に、
「成澄、俺たちも同道させろ!」
「〈鬼〉の仕業というもの、ぜひ、この目で見てみたい!」
極楽浄土とは、よく言ったものだと兄弟はつくづく納得した。
八条堀川の一町家。豪奢を極めたそこは公卿
蹴り殺されたのは、名を
主である父の顕頼もその妻も主殿の方にいたが、西の
昼を過ぎても起き出してくる気配のない若殿を怪訝に思い家司が部屋を覗いて発見した。
部屋の前の縁から庭の砂子の上に血の足跡が点々と染みていた。が、それも池から向こうでは消えている。
「きっと、あの池で足を濯いだのだろう……」
毎度のことながら貴人の広すぎる庭に成澄は舌打ちした。自分の屋敷も似たようなものなのだが。
「これでは鬼がどの方向へ去ったのか丸っきりわからないではないか!」
藤原顕頼と言えば、今をときめく権門。仕える家司、郎党も多く、警備もしっかりしていたはず。
にもかかわらずこの有様だ。
昨夜は〈名残の月〉で、夜を徹して酒盛りをしていたとか。夜明けころには皆、酔い潰れて眠りこけてしまった。
季節は九月である。秋たけなわの庭には趣向を凝らして面白く植えられた花木が競うように咲き誇っている。萩、
死体の周りに撒かれていたのと同じ庚申花も見うけられた。
その名の通り冬に至るまで隔月に花をつけるこの木は貴人の庭ではさして珍しくもない、ありふれた花なのだ。
だが、勿論、庭に咲いている庚申花には噛み痕はない。
「……では、鬼はこれを摘み取って、噛んだ後、ばら蒔いたのか?」
枝を揺らせて庭の庚申花をためつがめつしながら成澄は呟いた。
噛みちぎられた花の間に横たわる若者の死に顔は、またしても端然として美しかった。
これも先の犠牲者たちと等しく眉目秀麗な公達ぶり。
常通りきちんと烏帽子をつけ、
それが却っておぞましくもあった。
グシャグシャに踏み潰された下半身と比べて、あまりに残酷な静謐……
そして、寿祝のごとく部屋中に散華した紅い花と赤い血……
婆沙丸はそっと一つ手に取ってみた。
確かに、花びらの一片が喰い破られている。
「──……」
検死や家人からの聞き取り、穢が出たことを告げる
いかにも田楽師らしい艶やかな装束、萩模様の濃紫の腕を組んだままずっと黙り込んでいた兄が、弟の、同じ模様ながら色目が違う、これは白と
「婆沙丸、そんなもの、捨てろ」
弟は
「でも、証拠の品だぞ? 帰って有雪にも見せてみよう」
「それはただの花じゃ。何の変哲もない。それより──」
狂乱丸は一段声を低めた。
「おまえ、気づかなかったか?」
兄の問いに弟は眉を寄せた。
「気づくって……何を?」
「
公達が殺されていた部屋に
「そりゃ、貴人の部屋だもの! 香唐櫃には
そのどれとも
「まあ、兄者がそう言うのなら……」
弟は頷く。
鏡のようにそっくりなこの双子、狂乱丸と婆沙丸に違うところがあるとしたら、それこそ、右手小指の赤い指輪の有無と、嗅覚だった。
子供の頃から兄が匂いに敏感なことを婆沙丸は重々承知していた。
「あ!」
その兄が突然叫んで足を止める。
「同じ匂いがしたぞ、今!」
「何だと?」
兄弟は垂髪を揺らして左右を見渡した。
ちょうど二人は堀川小路を上がって東の市を歩いていたところだ。
「俺にはわからぬが──それは、つまり、
婆沙丸は合点がいったとばかり手を叩いた。
「なるほど! それなら貴人の屋敷の中の臭いとしては珍しかろうよ?」
鬼が市にいても全く不思議はない、と婆沙丸は思った。朱雀大路の果て、
一方、狂乱丸はもどかしげに唇を噛んだ。
「クソッ、どっちだ? 紛れてしまった……」
行き交う牛車、軒を連ねた棚店、それでも足らず地面に直接筵を敷いて商品を並べている
今日も東の市は花の賑わいである。
「むむ……風向きが変わったのか? だが、確かに一瞬、貴人の寝所で嗅いだのと
「やれやれ、今日も田楽には縁のない一日だったな?」
独りごちつつ帰路についた成澄だった。
いつもながら従者も付けずの一騎駆けで、八条から東洞院に至る。
四方は既に黄昏に暮れ泥んでいた。
「ん?」
ふと駒を止めた。
辻に、途方に暮れた体で女が一人佇んでいる。
「どうかしたのか? 何か困り事でも?」
「あ!」
女は成澄の蛮絵から慌てて目を逸らした。
「い、いえ、検非違使様を煩わせるつもりは毛頭ございません。どうぞ、お行きください」
「?」
見れば、辻の端にうっそりと牛車が留め置かれている。あえかな女車だが、
「御主人に何か仔細あったと見えるが?」
気さくな身ごなしで成澄は馬を下りた。
「遠慮することはない。私でよければ力になろう」
女房は袖を振って懸命に押し止めた。
「いえ、その……外出の途上、姫様の具合が悪くなって……それで、薬師を呼びに牛飼い童をやったのですが、これが中々戻って来ず……こうして待っている次第」
「おう! それは心細かろう。私が屋敷までお送りしよう。病人をいつまでもこんな場所に置いておいては良くない」
「そ、それには及びません! どうぞ捨て置きください。ここは私たちだけで大丈夫でございます」
恐縮する女房を遮って牛車の内より声がした。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」
「
「ほら! 姫御自身もああ言っているではないか? 女房殿、心配なさるな。俺は鬼ではないから大事の姫を獲って喰いはせぬよ!」
病とあっては急を要する。
剛毅で聞こえた成澄、挨拶もそこそこに御簾を跳ね上げ、牛車から姫を抱き取った。
困惑する伴の女とは反対に姫は逆らうことなく屈強な検非違使の腕に躰を預けた。
「おっと……」
その儚さ、軽さ、が、却って成澄の足を
紅梅の
成澄は力を抜き、細心の注意を払ってそうっと柔らかく抱き直した。
甘い香りが鼻腔を擽る。馬に跨ると叫んだ。
「屋敷はどっちだ? さあ、女房殿、案内しろ!」